kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(上)

ナオミ・クラインショック・ドクトリン』の上巻を読んだ。下巻はまだ読んでいない。



まず邦訳を出版した岩波書店のサイトから本書の概要を。
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/023493+/

■ 編集者からのメッセージ

 本書は,2007年秋に刊行された"The Shock Doctrine――The Rise of Disaster Capitalism"の待望の翻訳です.
 著者のナオミ・クラインは1970年生まれのカナダ人.「罪びとの罪を糺す天使」とまで呼ばれる気鋭のジャーナリストです.本書でクラインは,アメリカの自由市場主義がどのように世界を支配したか,その神話を暴いています.ショック・ドクトリンとは,「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」のこと.アメリカ政府とグローバル企業は,戦争,津波やハリケーンなどの自然災害,政変などの危機につけこんで,あるいはそれを意識的に招いて,人びとがショックと茫然自失から覚める前に過激な経済改革を強行する…….
 発売後すぐ,絶賛する反響が世界的に広がり,ベストセラーになりました.すでに三十数カ国版が,発売済みもしくは発売予定となっています.「この本が災害後の日本の状況を参考にして書かれたのではないかという錯覚さえ感じてしまう.いまこそ日本で読まれるべき本ではないか.邦訳はまだか」といった声が編集部にも届いています.3.11以後の日本を考えるためにも必読です.ご期待ください.
【編集部:清宮美稚子】


邦訳は東日本大震災が起きた2011年に発売された。

上巻の目次を、上記岩波書店のサイトから引用する。

■ 上巻目次


序 章 ブランク・イズ・ビューティフル
   ――30年にわたる消去作業と世界の改変


   第一部 ふたりのショック博士――研究と開発
第1章 ショック博士の拷問実験室 
    ――ユーイン・キャメロン,CIA,そして人間の心を消去し,作り変えるための狂気じみた探究
第2章 もう一人のショック博士
    ――ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究


   第二部 最初の実験――産みの苦しみ
第3章 ショック状態に投げ込まれた国々
    ――流血の反革命
第4章 徹底的な浄化
    ――効果を上げる国家テロ
第5章 「まったく無関係」
    ――罪を逃れたイデオローグたち


   第三部 民主主義を生き延びる――法律で作られた爆弾
第6章 戦争に救われた鉄の女
    ――サッチャリズムに役立った敵たち
第7章 新しいショック博士
    ――独裁政権に取って代わった経済戦争
第8章 危機こそ絶好のチャンス
    ――パッケージ化されるショック療法


   第四部 ロスト・イン・トランジション――移行期の混乱に乗じて
第9章 「歴史は終わった」のか?
    ――ポーランドの危機,中国の虐殺
第10章 鎖につながれた民主主義の誕生
    ――南アフリカの束縛された自由
第11章 燃え尽きた幼き民主主義の火
    ――「ピノチェト・オプション」を選択したロシア


本書は、1970年代以降世界経済を席巻したミルトン・フリードマン一派の新自由主義経済政策を批判する本だが、特に危機に便乗して、あるいは危機を作り上げて、混乱に乗じて自らの政策を実行させていく彼らの手口に焦点を当て、これを厳しく糾弾している。

フリードマンとその弟子(シカゴ・ボーイズ)による新自由主義の最初の実験が、1973年9月11日にクーデターを起こして政権を奪取したピノチェト軍事政権チリで行われたことはよく知られているが、同様の実験は同じく軍事政権のアルゼンチンでも行われた。

なぜフリードマン一派がそういう手法をとったかというと、平時にフリードマン一派が提唱する経済政策を行おうとしても、富者をより富ませるだけのその政策は人々の間で全く不人気で受け入れられなかったからだ。だから彼らはチリのクーデターに乗じて最初の大きな実験を行った。

1982年にそのアルゼンチンとフォークランド紛争(戦争)を起こしたのがマーガレット・サッチャーだったが、フリードマンの師であるフリードリヒ・ハイエクに、チリでフリードマン一派がやったような「ショック療法」を薦められたサッチャーは、最初イギリスではそんなことはできないと弱気の返事をハイエクに送った。当時サッチャーの支持率は低迷していた。

そのサッチャーが不人気を跳ね返したのがフォークランド紛争だったが、それ以前にはイギリスのお荷物になっていたフォークランド諸島(マルビーナス諸島)は、警備や維持に高いコストがかかっていたため、新自由主義者サッチャーは同諸島への補助金をカットし、周辺を警備する海軍の予算も削減していた。アルゼンチンにとっても自国の目と鼻の先にイギリスの領土があるのは不愉快ではあるものの特に重要性はないので放置していたが、前述のようなイギリスの対応を見て、アルゼンチンのガルティエリ軍事政権はフォークランド諸島に攻め込んだ。アルゼンチン国民の間に高まる軍事政権への不満の矛先を逸らそうとしたのだった。これを奇貨としてイギリスはアルゼンチンと交戦して勝利し、不人気のどん底にあえいでいたサッチャーは支持率をV字回復させたのだった。息を吹き返したサッチャーはその後、次々と苛酷な新自由主義政策をとっていくことになる。

このあたりから、俄然本書に引き込まれていった。チリ、アルゼンチン、イギリスの例から始まった「ショック・ドクトリン」の記述は、ボリビアポーランド、中国、南アフリカ、ロシアと続く。特にポーランド以降の4国の例には引き込まれた。

ポーランドでは、ノーベル平和賞を受賞したレフ・ワレサの「連帯」が、ソ連崩壊期の混乱時に「名誉シカゴ・ボーイ」を自認する財務大臣レシェク・バルチェロヴィッチの政策を取り入れたために経済政策に失敗した。

中国の例は特に興味深い。文化大革命時に「四人組」に負われたトウ小平が政権に復帰して「改革開放」を推進したが、中国政府は1980年と1988年にミルトン・フリードマンを招待して経済政策の教えを請うた。そして、1989年に「天安門事件」が起こった。

1972年の日中国交回復、1977年のトウ小平名誉回復と政権復帰、1978年の日中平和友好条約締結は私の少年時代の出来事であり、トウ小平には良いイメージを持っていただけに、1989年の天安門事件には驚かされたのだった。これで中国は共産主義経済体制に戻るのかと思ったが、そうはならなかった。この点にずっと不思議な気がしていたのだが、本書を読んでようやく納得のいく説明に接することができた。

本書によると、欧米でも天安門に集まった中国の人々の抗議行動を、欧米型の民主的な自由を求める理想主義的な学生たちと共産主義国家を守ろうとする守旧派独裁政権との間の衝突と考えられていたが、この解釈に異を唱えた中国の論者がいるという。以下本書から引用する。

(前略)ところが近年、天安門事件に関するこうした主流の考え方とは異なる見方が出されている。フリードマン理論がカギを握るとするこの見方の代表的な論客が、一九八九年の抗議運動の指導者であり、現在は「新左派」と呼ばれる中国の有力な知識人の一人である汪暉(ワン・フィ)だ。二〇〇三年にアメリカで出版された著書『中国の新秩序』で、汪は当時抗議行動に参加したのは単にエリート学生だけでなく、工場労働者や零細企業の経営者、教員など中国社会の幅広い階層にわたる人々だったと説明する。トウ小平の「革命的な」経済改革によって賃金は下がり物価は上昇し、「解雇と失業の危機」が起きたことに対する民衆の不満が、抗議運動の発端になったというのである。「これらの変化が一九八九年の社会運動の触媒となった」と汪は書く。

 民衆の抗議運動は、経済政策それ自体に向けられたわけではなく、改革がフリードマン的な特徴を持っていたこと−−言い換えれば、急激かつ冷酷無比で、そのプロセスがきわめて反民主的であることに向けられていた。汪によれば、選挙や言論の自由に対する人々の要求は、こうした経済的な異議申し立てと密接に結びついていた。政府が民衆の同意をいっさい取りつけることなく革命的な規模の改革を断行したことが、民主化要求の起爆剤となったというのだ。「改革プロセスと社会的利益の再編成が公正に行われているかどうかを監視する民主的手段を求める、幅広い要求」が存在したと、彼は書いている。

ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン』(岩波書店,2011)上巻263-264頁)

 中国研究者でジャーナリストのオーヴィル・シェルはトウ小平の選択を次のように要約している。「一九八九年の天安門事件以後、彼が言ったのは、経済改革はやめないが政治的改革は事実上中止する、ということだった」
(同266頁)

 中国を世界の“搾取工場”−−すなわち地球上のほとんどすべての多国籍企業にとって、下請工場を建設するのに適した場所へと変貌させたのは、まさにこの改革の波によるものだった。中国ほど好条件のそろった国はほかになかった。低い税金と関税、賄賂のきく官僚、そして何より低賃金で働く大量の労働力。しかもその労働者たちは残忍な報復の恐怖を体験しており、適正な賃金や基本的な職の保護を要求するというリスクを冒す恐れは、長年にわたってないと考えられた。

 外国資本と共産党にとって、これは双方にメリットのある取り決めだった。二〇〇六年の調査によれば、中国の億万長者の九〇%が共産党幹部の子息だという。こうした党幹部の御曹司(中国語では「太子」と呼ばれる)およそ二九〇〇人の資産は、総計二六〇〇億ドルにも上る。まるで、世界に先駆けてピノチェト政権下のチリで誕生したコーポラティズム国家そのものだ。企業エリートと政治エリートが相互に乗り入れ、両者が力を合わせて政治勢力として組織化された労働者を排除するという構図である。今日、これと同じ構図は外国の多国籍メディアと技術系企業との間に見られる。両者は手を組んで中国政府が国民を監視するのを助けるとともに、たとえば学生がインターネットで「天安門事件」あるいは「民主主義」といったキーワードを使って検索しても、なんの情報も表示されないようにするといったことが行われている。汪暉はこう書く。「今日の市場社会が作られたのは一連の自然発生的な出来事の結果ではなく、国家による介入と暴力の結果なのだ」

 天安門事件によって明らかになった真実のひとつは、共産主義独裁政権シカゴ学派の資本主義の戦術が驚くほどよく似ているということだ。両者とも、反対派を消滅させることも辞さず、あらゆる抵抗を一掃したところに新しいものを導入しようとする。

 天安門事件が起きたのは、フリードマンが中国政府当局者と会見し、国民に不人気な痛みを伴う自由主義改革を推進するよう助言してから一年も満たないときだった。それにもかかわらず、彼は一度として「これほど邪悪な政府に進んでアドバイスしたことで、嵐のような抗議を受けること」はなかった。そしてこれまでと同じく、彼は自分が与えた助言とそれを実行するために用いられた暴力との間に関係があるとは、いっさい考えなかった。中国政府による弾圧を非難しながらも、フリードマンは事件後も中国を「反映と自由の両方を促進する自由市場改革の取り組みの有効性」を示す例として称賛し続けた。
(同267-268頁)


共産主義独裁政権シカゴ学派の資本主義の戦術が驚くほどよく似ている」もう1つの例がロシアだ。中国におけるトウ小平に対応するロシアの政治家はボリス・エリツィンであり、天安門事件に対応するのが1993年のホワイトハウス(最高会議ビル)砲撃事件と議会の一時停止(10月政変)である。個人的な思い出話をすると、この時私はアメリカにいて、テレビが連日砲撃事件のニュースを流していた。出張に同行していた同僚は、「エリツィンは偽善者だ」と憤慨していた。日本でこの事件がどう報じられていたかは、日本にいなかったのでよく知らないのだが、ビル・クリントン政権は「守旧派・ルツコイ一派と戦う改革者エリツィン」を支持していた。この事件は私には位置づけがはっきりできず、ずっともやもやした印象を持っていたのだが、著者の解釈によるとこの政変はエリツィンの「ショック・ドクトリン」に対する議会の正常な抵抗を押し潰すエリツィンによるクーデターだった。再び本書から引用する。

(前略)ロシアはチリと同じではなかった−−順序が逆だったのだ。ピノチェトはクーデターを起こし、民主主義制度を崩壊させたあとにショック療法を強行した。一方のエリツィンは、まず民主主義制度*1の中でショック療法を強行し、その後民主主義を崩壊させ、クーデターを起こすことでショック療法を守った。共通するのは、西側からの熱心な支援があったことだ。

 クーデター翌日の『ワシントン・ポスト』紙には「エリツィンの強攻作戦に幅広い支持」「民主主義にとっての勝利との見方」、『ボストン・グローブ』紙には「ロシア、かつての地下牢への逆戻りを回避」との見出しが躍った。ウォレン・クリストファー米国務長官はモスクワへ飛び、エリツィンとガイダルと肩を並べてこう言い切った。「アメリカはそう簡単に議会の一時停止を支持したりはしない。今回は非常事態なのです」

 だがロシアの国民の受け止めはそれとは違っていた。議会を守ることによって権力の座についたエリツィンが、文字どおり議会に火を放ち、ホワイトハウスを“ブラックハウス”にしてしまったのだ。ある中年のモスクワ市民は、外国の報道記者に怯えた表情でこう語った。「国民が(エリツィンを)支持したのは、彼が民主主義を約束したからです。それなのに彼は、その民主主義を銃殺してしまった。エリツィンは民主主義を侵害したばかりか、銃殺したのです」。一九九一年のクーデターの際、ホワイトハウスの入口を警備していたヴィタリー・ネイマンは、この裏切りに怒りをぶつける。「今あるのは僕たちが夢見ていたこととは正反対のものだ。あの連中のために命がけでバリケードに参加したのに、約束は守られなかった」
ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン』(岩波書店,2011)上巻323頁)

その後、エリツィン政権下でロシア経済が大混乱に陥ったことは周知の事実だが、その過程で新たな億万長者が現れた。その中には元共産党政治局員も少なくなかった。彼らは絶大な富と権力で「新興財閥(オリガルヒ)」と呼ばれる集団を形成するようになった。

自国の経済に混乱をもたらしたエリツィンの支持率は急低下したが、そんなエリツィンが行ったのがチェチェン侵攻だった。1996年の大統領選挙も、巨額の金をばら撒いたエリツィンが辛勝した。再び本書から引用する。

 一九九四年一二月、エリツィンは、いつの時代でも必至で権力にしがみつこうとする多くの指導者がやったのと同じことを実行する−−戦争である。オレグ・ロボフ安全保障会議書記はある議員に、「大統領の支持率を上げるために、ちょっとした戦争をして勝つ必要がある」と漏らした。国防大臣は、分離独立を主張するチェチェン共和国連邦軍を派遣すれば、ものの数時間で制圧は可能だという見通しを語った。

 すくなくともしばらくの間は、この目論見は順調に進んでいるように見えた。第一段階としてチェチェン独立運動は部分的に鎮圧され、ロシア軍が首都グロズヌイの、すでに放棄された大統領官邸を占拠すると、エリツィンは勝利を宣言する。だが、チェチェンでもモスクワでも勝利は長くは続かなかった。再選をかけた一九九六年の大統領選でもエリツィンの支持率は低迷を続け、落選は確実に見えたため、顧問たちは選挙の中止まで考えたほどだった。すべての全国紙に掲載されたロシアの銀行たちの署名入り書簡には、その可能性が強くほのめかされていた。エリツィン政権で民営化担当大臣を務めたアナトリー・チュバイス(サックスはかつて彼を「自由の戦士」と呼んだ)は、ピノチェト・オプションを誰よりも積極的に支持した。「社会に民主主義を根づかせるためには、独裁的権力が必要だ」とチュバイスは言い切る。ここにはチリのシカゴ・ボーイズがピノチェトを擁護し、トウ小平が自由を剥奪してフリードマン主義を貫こうとしたのと、まったく同じ考えが見て取れる。

 けっきょく選挙は実施され、オリガルヒから受けた推定約一億ドルの資金(合法的な金額の三三倍)と、オリガルヒ傘下のテレビ局で対立候補より八〇〇回も多く報道されたおかげで、エリツィンは再選を果たす。
ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン』(岩波書店,2011)上巻327頁)

エリツィンは1999年12月31日に政権を手放したが、後継者は「一七年間にもわたって共産主義時代の最大の恐怖のシンボルであるKGBに在籍していた」*2ウラジーミル・プーチンであった。現在安倍晋三が接近しているのがこのプーチンであり、安倍は「外務省の反対を押し切って」ソチ冬季五輪開会式に出席したが、安倍が激しく敵視する中国も、安倍が味方にして手をつなぎたいと考えるロシアも、ともに本家アメリカをはるかに凌ぐと思われるほど貧富の差が激しい獰猛な新自由主義国であること、そしてかつて両国において新自由主義のリーダーだったトウ小平エリツィンが選んだ手段が「天安門事件」であり「10月政変」であり「チェチェン侵攻」であったことを押さえておきたい。特に現在でも安倍晋三の暴走がしばしば見られることを、われわれ日本人は絶対に軽く見てはならない。はっきり書くと、安倍晋三がいつトウ小平エリツィンと同じことをやらかしても何の不思議もないということだ。私は、安倍晋三その人が「ショック・ドクトリン」に手を染める可能性のことを言っている。さらに付言すると、トウ小平エリツィンサッチャーも、内政で批判を浴びた時に強権的な政治を行った。安倍晋三の場合も、今後内閣支持率が下がった時の安倍の挙動にこそ警戒が必要である。


中国とロシアの話はこのくらいにして、最後にアパルトヘイトを撤廃した南アフリカに関する著者の指摘を紹介しておきたい。

ネルソン・マンデラは昨年12月に亡くなったが、若い頃から反アパルトヘイトの闘士で、27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放された。翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。フレデリック・デクラークとともにパルトヘイト撤廃に尽力したとして、1993年にノーベル平和賞を受賞した。1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て同国大統領に就任、1999年に政界を引退した。

今年はマンデラ南アフリカ大統領に就任して20年になるが、著者が本書を書いた2007年の時点で、南アフリカアパルトヘイト撤廃前よりも却って貧富の差が拡大してしまったという。著者の指摘によれば、フリードマンの経済思想を政策に取り入れたのは、アパルトヘイト撤廃後2代目の大統領になったターボ・ムベキ(1999年から2008年まで南ア大統領)だったという。そして、著者によれば、マンデラが釈放された1990年以降、南ア国民の平均寿命は実に13年も短くなった*3

以下本書から引用する。

 南アが明白にサッチャリズムへと舵を切ってから一〇年以上が経過した時点で、トリクルダウン理論の実験の結果は、次の通り目に余るものだった。

  • ANCが政権に就いた一九九四年から二〇〇六年までの間に、一日一ドル未満で暮らす人の数は二〇〇万人から四〇〇万人へと倍増した。
  • 一九九一年から二〇〇二年までの間に南アの黒人の失業率は二三%から四八%へと、二倍以上に増加した。
  • 南アの黒人人口三五〇〇万人のうち、年間六万ドル以上の収入があるのはわずか五〇〇〇人にすぎない。
  • ANC政権は一八〇万軒の住宅を建設したが、その間に二〇〇万人が家を失った。
  • 民主化から一〇年間に農場から立ち退かされた人は一〇〇万人近くに上る。
  • こうした立ち退きの結果、掘っ建て小屋に住む人の数は五〇%増加した。二〇〇六年には南アの人口の四人に一人はスラム街の掘っ建て小屋に住み、かなりの数の人は水道も電気もない暮らしを強いられている。

ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン』(岩波書店,2011)上巻303-304頁)

なぜこんなことになってしまったのか。著者の主張を私なりに一言でまとめると、マンデラとANCは、喫緊の政治マターに神経を集中させる一方、経済マターについては「みんな専門的なことだと思い込んで、興味を持たなかった」*4。その結果、経済問題の交渉はデクラーク旧政権側のペースで進んだ上、ANC側にもフリードマンの思想にかぶれた指導者がいたため、南アの経済政策は惨憺たる結果を招いてしまったということらしい。


またしても長い記事になってしまったが、これでもまだ本書の上巻からほんの一部を紹介したに過ぎない。下巻を読んだらまた続きを書きたいと思うが、下巻はまだ私の手元にはない。

*1:1991年のソ連崩壊から1993年の10月政変までの期間=引用者註

*2:本書334頁

*3:本書290頁

*4:本書288頁に記されているANC活動家ウィリアム・グミードの言葉。