kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

朝比奈隆、戦争、ベートーヴェン、文革、そして橋下徹

まずは『きまぐれな日々』にいただいた風太さんのコメントより。


http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1233.html#comment13385

そういえば大阪フィルの創始者朝比奈御大が亡くなってからもう10年が経ったんだね。
今日はNHKFMで一日中朝比奈御大の特集をしていた。
戦後の荒れ果てた大阪の街で、朝比奈御大がそれこそはいずりまわって金を集めて楽団を作り上げ守ってきたんだよね。
朝比奈御大の指揮するブルックナーベートーヴェンは素晴らしかったね。
大阪フィルのレベル自体はさほど高くはなかったのだけど、でも演奏を聴いているとそこに情景が浮かんでくるんだよ。
ああいうのは本当に聞かないとわからないものだよ。
それが戦後の大阪の府民の心をどれだけ勇気づけたことか。
橋下知事(当時)はたぶん聞いたことがないのだろうな。
芸術を阻害することは人間のある部分を切り捨て去ることにつながるよ。
駄目だねえ彼は指導者として。
ああいう音楽を支えているのはじつは大衆なのだよ。
ベートーヴェンを愛し別格としていた朝比奈御大は、ベートーヴェンの大衆に支えられた音楽の革命をわかっていたからこそ、だから演奏会でも頻繁に取り上げたのだよ。
ベートーヴェンこそ大衆が支えた最初の音楽家なのだからね。

2011.12.29 20:25 風太


NHK-FMクラシック音楽を聴く習慣はかなり前になくなっているので朝比奈隆特集については全く知らなかったが、ネットで調べて昨日(12月29日)が朝比奈隆の命日だったことを知った。

東京出身の朝比奈隆京都大学に進学したことがきっかけで関西の人となった。Wikipediaを見て、今日初めて朝比奈の戦時中の活動を知った。

1942年(昭和17年)からは月給200円で大阪放送管弦楽団の首席指揮者となり、戦意高揚のため『荒鷲に捧げる歌』『海の英雄』などを演奏。1943年(昭和18年)11月末、中川牧三[3]の推薦で大陸に渡り、同年12月8日の「大東亜戦争二周年記念演奏会」を皮切りに上海交響楽団(1943年)で指揮。上海滞在中、1944年(昭和19年)1月、タラワ、マキン両島で玉砕した兵士を弔う歌の作曲を海軍省から命じられ、一晩で書き上げる。1944年(昭和19年)、日本に戻ってからは再び大阪中央放送局に戻り、時おり慰問や軍歌放送の仕事をしていたが、同年5月、要請を受けて大木正夫と満州国に行き、満州映画社長の甘粕正彦と会い、約1ヶ月間新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団を視察。同年秋に再び要請され、妻と伊達三郎を伴って渡満し、大木の交響曲『蒙古』を指揮。同年12月にも渡満。1945年(昭和20年)には関東軍の嘱託を命ぜられ、満州全土を演奏旅行。大阪と神戸が空襲で被災した上、満州での活動が波に乗ったこともあり、関東軍報道部長の誘いで1945年(昭和20年)5月には妻と長男を呼び寄せて本格的に満州に移住、ハルビン特務機関の指揮下に入りハルビンのヤマトホテルに居住したが、8月に終戦を迎えた。ソ連占領軍進駐後、弟子の林元植(後述)や朝比奈ファンの歯科医、小畑蕃などによって日本人狩りの暴徒から匿われつつ、1年以上ハルビンに蟄居。この間、国民政府からの依頼で中国人のオーケストラを編成し、アンサンブルの指導を行っている(1945年10月-1946年4月)。1946年(昭和21年)8月から2ヶ月かけて神戸の自宅に引き揚げた。


朝比奈隆もご多分に漏れず戦意発揚に協力していたようだが、

満州映画社長の甘粕正彦と会い、約1ヶ月間新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団を視察。

というところにまず反応。今年2月頃に読んだ佐野眞一の下記著作の巻末にある索引を確認してみたが、朝比奈隆の名は出ていなかった。


甘粕正彦 乱心の曠野 (新潮文庫)

甘粕正彦 乱心の曠野 (新潮文庫)


さらに、この時朝比奈に同行したのが大木正夫だったということにも注目した。大木正夫という人を私はよく知らないが、息子の大木正興なら知っている。よくNHK-FMクラシック音楽の解説者を務めていた。そしてこの大木正興は「東側諸国」びいきの左翼だったのだ。過去形で書いたのは、1983年に59歳の若さで亡くなっているからだ。

Wikipedia「大木正夫」を調べてみると、交響曲第5番ヒロシマ」、交響曲第6番「ベトナム」、カンタータ「人間をかえせ」などの作品名が並んでいる。このうちカンタータ「人間をかえせ」が有名らしいが、私は知らない。第5交響曲ヒロシマ」は、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」からインスピレーションを得た作品で、1953年の初演だそうだ。第6交響曲ベトナム」は60年代後半の作品だろう。大木正夫は、1971年に70歳で亡くなったが、その前年に『うたごえは爆音を圧す―音楽家ベトナム報告』と題した著作を上梓している。しかし、その大木正夫もまた、戦時中には戦争に協力していたらしいのだ。大木正夫の作品リストには「日本祝典序曲」という名の作品があり、怪しいなと思って調べてみたら、想像通り1940年(昭和15年)の「皇紀2600年」を祝う作品だった。この「皇紀2600年」には、ナチスに協力したとして悪名高いドイツのリヒャルト・シュトラウスも祝典作品を寄せているが、イギリスのベンジャミン・ブリテンは「シンフォニア・ダ・レクィエム」(鎮魂交響曲)という作品を書いた。かつては、1976年に亡くなったこのイギリスの大作曲家を褒め称えるのによく引き合いに出された話だが、例によってWikipediaで調べてみると、一筋縄ではいかない話だったようだ。とはいえこの曲はブリテンの作品の中でもかなり有名であり、私もCDを持っている。仮に明確な「反戦」ではなかったにせよ、日本政府を怒らせるには十分な作品だ。何しろ「レクィエム」なのだ。

上記Wikipediaの「朝比奈隆」の項には、大木正夫が作曲した交響詩「蒙古」を朝比奈が満州で指揮した、とあるが、この件に関して下記のブログ記事を見つけた。


雑感ー眠い眠いー: 中ぶんなの日記

 1945年、3月10日には東京大空襲、その3日後には立て続けに2日間大阪大空襲があった。満州の甘粕が、こんなときこそ、と大イベントを構想。哈爾浜交響楽団と新京交響楽団、他に2つの放送管弦楽団を合わせた150人で満州合同管弦楽団とし、各地での演奏を企てた。これに応えて朝比奈が選曲したのが、大木正夫の「蒙古」とベートーヴェンのピアノ協奏曲とリムスキー=コルサコフの「シェーラザード」だった。朝比奈が、当時、シェーラザードを演奏することは、はいまにマーラーを演奏するほどに難しいことだった、という後日談をのこしているらしい。
 シェーラザード、哈爾浜交響楽団のコンサート・マスター、アレクサンダー・ジーガルがヴァイオリンソロだったらしい。この演奏会は全満に強烈な印象をのこしたという。ー「王道楽土の交響楽」(岩野裕一)より


当時の作曲界のトレンドについては下記記事が参考になる。


http://www.butokuin.com/old/sugata/sugata-k12.html

1941年8月8日に完成した東洋組曲『沙漠の情景 作品10』は、1935年以後の須賀田の作品としては珍しく異国情緒の喚起を狙っている。この頃は時局のせいもあって日本作曲界にはアジア・ブームが起きており、江文也の『孔子廟の音楽』、深井史郎の『ジャワの唄声』、紙恭輔の『ボルネオ』、大木正夫の『蒙古』、伊福部昭の『寒帯林』等が次々と作られ、その流れは戦後の團伊玖磨の『シルクロード』などに繋がるが、須賀田もそこに棹をさしたわけ。


これは須賀田礒太郎という作曲家(私は全く知らない)について書かれた文章。要するに、大木正夫は紛れもなく「侵略者の側に立った音楽」を書いていたわけだ。そして朝比奈隆もまた戦争に協力していた。


戦後の朝比奈の活動については、関西では昔から有名だった。朝比奈指揮の大阪フィル演奏会は朝日新聞毎日新聞がともに後援していたから、朝比奈隆の記事は両紙の大阪本社版にはよく載っていた。1975年の大阪フィルのヨーロッパ演奏旅行でブルックナー交響曲第7番を演奏した時、ワーグナーの死を悼んで書かれたという第2楽章が終わる頃に教会から鐘の音が聞こえてきた、という話があった。


ところで、大の小沢一郎信奉者である風太さんは、

ベートーヴェンを愛し別格としていた朝比奈御大は、ベートーヴェンの大衆に支えられた音楽の革命をわかっていたからこそ、だから演奏会でも頻繁に取り上げたのだよ。
ベートーヴェンこそ大衆が支えた最初の音楽家なのだからね。

と書くが、大なり小なり大作曲家とは革命家なのだ。そうでなければ現在までその作品が繰り返し聴かれることはない。ただ、モーツァルトの場合は貴族から見放された時が運の尽きで、赤貧に陥って亡くなって無名墓地に入ったが、ベートーヴェンは聴覚を失うという作曲家として最大級の不運はあったものの、最晩年に至るまで高い名声を保持し続けた。作曲家としては存命中から成功者だった。

そしてベートーヴェンはその晩年においても貴族の援助を受けていたのだった。難解で知られる晩年の弦楽四重奏曲5曲のうち3曲は、ロシアのガリツィン公爵の依頼によって書かれた。そのうち第13番は、短い楽章が4つ続いたあと、深い悲しみをたたえた第5楽章「カヴァティーナ」と、「大フーガ」と題された難解で巨大な終楽章が続き、現在高く評価されているのはこの2つの楽章だが、初演の時にアンコールされたのは短い楽章のうちの2つ(第2楽章と第4楽章)だったという。「大フーガ」は不評だったため、別の短めの楽章に差し替えられた。それはともかくとしてベートーヴェンは自分のやりたいことをやっただけではなく、聴衆を引きつけるツボも十分心得ていたようだ。

ところで、ベートーヴェンのエピソードとしてもっとも有名なものの一つが、交響曲第3番「英雄」を作曲していた頃、ベートーヴェンは大のナポレオン信奉者(ナポレオン信者)だったが、ナポレオンが皇帝になって独裁に走ったのを見てこれを見捨て、第2楽章の「葬送行進曲」を書いたというもの。第3交響曲の中身と結びつけたこの話の真偽は大いに疑わしいと子供の頃から思っていたが、それは別として、堕落した権力者を見切った、つまり「ナポレオン信者」であることをやめたことは、いかにも音楽の世界で「革命」を起こした*1自由人・ベートーヴェンらしいと思う次第である。

最後にようやく風太さんが言いたかったであろう橋下徹について書くが、橋下徹のオーケストラ切りと「文化大革命」時代の中国の「ベートーヴェン批判」は明らかに通底している。この橋下の行為を手放しで賛美するのが、昨日も面白い記事*2を書いてくれたid:HSEのような人間だ。"HSE"がエスタブリッシュメント層に属する人間かどうか私は知らないが、「政治の文化大革命が始まる」とほざいた仙谷由人を引き合いに出すまでもなく、日本の支配層もそのブレーンである経済学者たちも、また「小沢信者」たちも、あるいは小沢一郎の政敵である仙谷一派も、揃いも揃ってみな「文革ごっこ」がやりたくてたまらないらしい。なんで日本にはこうも「文革」が大好きな人たちが多いのだろうか。

なお、ベートーヴェン文革の話については、ベートーヴェンとか白紙答案とか - Living, Loving, Thinking, Again が非常に興味深かった。以下引用。

文化大革命ベートーヴェンの話はたしか、立ち読みの『週刊朝日』で読んだ気がする。何故憶えているのかというと、当時周鉄生という学生が試験に白紙答案を出して英雄視されたということがあって、記事はベートーヴェン批判と白紙答案のネタがセットになっていて、ベートーヴェンが批判されて白紙答案が賛美される中国って不思議! という感じのノリだったからだ。

周鉄生の白紙答案事件については、JohnGittings The Changing Face of China: From Mao to Marketのpp.84-85に記述がある。なお、周鉄生という人は文革終了後に「反革命」罪で逮捕され、1983年に懲役15年の判決を受けて服役したが、1993年に釈放され、その後は事業を興して成功したという(p.338, Note 8)。


文革中には(蘇聯を含む)西側の文学や藝術は基本的に禁止されていたわけで、当時の雰囲気に関しては、『小さな中国のお針子』とか『小さな村の小さなダンサー』といった映画を観ていただければいいのではないかと思います。ただ、外国の文学書や学術書は、或るレヴェル以上の幹部が〈反面教師〉として読むために密かに翻訳されていたということはあるわけですが。

また、http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20111211/1323581981を巡って。以前「蘇聯(また東欧)はアヴァンギャルドを抑圧していたせいもあって、音楽にしてもバレエにしても、オーソドックスなクラシックが西側よりもよく保存されていた」と書いたことがあります*3。『上海書評』には「海上書房」という書斎拝見的なインタヴュー記事が連載されているのだけれど、10月30日号の徐暁林「金老師在1954」という記事(p.16)には、金重遠という1934年生まれの仏蘭西近代史専攻の先生が登場している。金氏は1954年から1959年までレニングラード大学に留学していたが、蘇聯留学時代は人生で最も幸福な時代だったという。レニングラードの本屋では当時(蘇聯で印刷・発行された)メリメやヴィクトル・ユーゴーロマン・ロラン仏蘭西語の小説が格安で売られていた。蘇聯において20世紀のアヴァンギャルドモダニズムが抑圧される一方で19世紀の古典が保護・保存されていたというのは、文学においても当て嵌まるようだ。


「白紙答案事件」! そういやそんなことがあったような気がします。遠い昔、それについて書かれた記事を確かに読んだ記憶があるけれど、この件については30年以上一度も思い出したことがなかったくらいで、ましてや記事が載っていたメディアは全く覚えていません。しかし、私も『週刊朝日』で読んだというのはあり得る話で、というのは私の父はこの雑誌を毎週買って読む習慣があり、読み終えて寝室に積み上げられた同誌を私もよく読んだものだからです。


そこで、ネット検索で調べてみた。「白紙答案事件」を起こしたのは、「張鉄生」という人だったそうで、Wikipediaには下記のように書かれている。

張鉄生(ちょう てっせい)は中華人民共和国の政治家。文化大革命期に白紙答案で一躍有名になった男性。

1968年に白塔人民公社棗山大隊に下放された張は、1973年3月に労農兵学生として大学の物理学科を受験したものの、物理・化学が全く解けなかった(6点)。張は「公社での本業である農業生産に力を注ぐ余り、学業が疎かになった、試験内容が知識に偏重し、試験そのものが労働者大衆に門戸を閉ざしている」と答案用紙の裏に書きしたためた。

四人組に近い立場で当時遼寧省党委員会書記だった毛沢東の甥・毛遠新は、この文章を周恩来と彼の教育思想を攻撃する砲弾として利用するべく、「深く考えさせられる答案」として遼寧日報、続いて人民日報に掲載させ、張は一躍反潮流の英雄となった。彼は大学に入学できただけでなく、1974年には全国人民代表大会常務委員となった。この後、テストの不出来を彼に倣って開き直る事件が多発した。

1976年、後ろ盾であった四人組が逮捕されると、シンパとみなされ政治権利剥奪3年、禁固15年の刑に処せられた。

1991年、刑満了により刑務所を出所。以後、飼料会社を数人と共に始め、現在資産数億元を有する。


最後の1行がなんとも素晴らしい。禁固15年というどん底からおのれの才覚で這い上がって資産数億元を有するに至るリベンジ物語は、直ちに橋下徹を連想させる。若い頃にその才能を発揮したのが「白紙答案事件」だったのだろう。橋下は大阪市政のブレーンとして、この「張鉄生」氏を雇ってはどうだろうか。ある意味、東欧に「居心地の良さ」を感じたのかもしれない日本のクラシック音楽の評論家たちとは対極にある人生を送ってきた人かもしれない。