kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

坂野潤治『近代日本とアジア』と安倍晋三

先週から今週にかけて、下記の本を読んだ。



巻末から転記すると、この本は1977年10月15日に創文社より刊行された『明治・思想の実像』(叢書・身体の思想8)を加筆修正のうえ改題し、文庫化したものとのこと。

筑摩書房のサイトより。
筑摩書房 近代日本とアジア ─明治・思想の実像 / 坂野 潤治 著

この本の内容

近代日本の対外論は、「アジア主義」対「脱亜論」という図式によって描かれてきた。前者は欧米のアジア侵略に東アジア諸国とともに対抗しようとする立場であり、後者は欧米列強の一員としてアジア進出に参加すべしという主張だ。福沢諭吉山県有朋陸羯南青木周蔵ら、少なからぬ政治家・思想家が、この二つの対外思想の間で揺れ動いたと理解される。だが、そうした論理の使い分けは、第一次世界大戦後に欧米の中心がイギリスからアメリカに移り、アジアにおける中国の存在感が増すにつれ、通用しなくなっていく―。日本外交を規定する構造とその変化を明らかにした記念碑的論考。


本書の要約は、ちょっと私の手には負えないので、例によってこの本を先に読まれた方の書かれたブログ記事から引用する。
坂野潤治『近代日本とアジア』 - オベリスク備忘録(跡地)

坂野潤治『近代日本とアジア』読了。途轍もない知的膂力によってなされた、驚くべき論考。日本の近現代史に関心のある者が、まず読むべき必読書であろう。本書は三十六年前に書かれたが、その重要性は現代でもまったく失われていないのではないか。しかし、自分は本書に関して何も知らなかった。文庫化されたのは僥倖である。

 さて、具体性のない賛辞ばかり連ねたが、本書を的確に紹介する能力は自分にはない。ざっと大雑把なことを云えば、従来日本の近代史を語るに、「脱亜論」と「アジア主義」との対立で語られることが多かった(今もそうなのではないか)。しかし、著者はこの対立軸は、ほとんど無意味だということを証明した。例えば福沢諭吉イデオロギーは、「アジア主義」から「脱亜論」に一八〇度変化したように見える。しかし福沢の目的は、じつは「朝鮮の保護国化」で一貫しており、「アジア主義」を主張した時は「中国が弱い」という認識で、「脱亜論」を主張した時は「中国侮るべからず」という認識であり、違いはその認識の差に過ぎないということである。福沢の中では、基本的に「朝鮮進出」は一貫しており、イデオロギーの違いに見えるものは、中国の情勢判断に因るものなのである。

 それだけではない。日清戦争日露戦争の間の期間において、陸羯南は最初「脱亜論」を唱え、次いで「アジア主義」に変ったとされる。しかし、これも主眼は「南海」「中国」にあることは一貫しており、ロシア情勢が変ったがゆえに、主張も変ったに過ぎないという点、福沢の場合と同型の構造が見られるわけだ。また、同じような構造を、日露戦争以降の山県有朋の言説分析においても、著者は見出している。つまり、「脱亜論」と「アジア主義」の対立は、本質的なことではないのである。

 これらの構造がいかにして生まれたのかという考察は、著者ははっきりとは述べていない。しかし著者のつぶやきを拾うなら、近代日本はとにかく対外的に膨張したく、実際に膨張したが、それを論理化する作業は、たとえかの福沢諭吉においてすら、成功しなかったというものである。著者はそうは述べていなけれども、それは日本の思想の失敗であり、敗北であった。もっとも、それが成功していたら、歴史はもっとひどいものになっていた可能性もあろうが。とにかく、そのあたりの混乱は、現代の歴史認識、さらには現代日本の外交にまで、影響していないとは云えないのではないか。

(『オベリスク防備録』2013年10月24日付エントリ「坂野潤治『近代日本とアジア』より)


ひらたく言えば、対立的に語られることの多い「脱亜論」と「アジア主義」とは、単にその時々の国際政治情勢において、日本にとって強敵の国はどこであるかを認識しているかによってご都合主義的に掛け替えられる看板に過ぎなかった、そう著者は分析しているのだ。苅部直の解説を参照すると、著者のこのアプローチは、丸山眞男らの論考に対する批判になっているとのこと。著者は、テクストの表面だけを見るのではなく、コンテクスト(文脈)を見ようとした。これも苅部の解説の言葉を借りると、「『東アジア情勢の具体的認識、およびその認識にもとづいて具体的に意味されている対外政策』に目を向けることを提唱し、それを『対外論』あるいは『思想の実像』と呼んでいる」。

福沢諭吉の例でいえば、1881年明治14年)には、「中国弱し」と見ていたから、「欧米」のアジア侵略に対して、日本、中国(清)、朝鮮が手を携えて対抗しようなどと書きながら、その実、日本が朝鮮を「改造」することしか念頭になかったとする。その4年後、福沢は今度は「脱亜論」を唱え、西洋列強とともにアジアに侵略せよと言い出したが、これは4年前と比較して福沢の認識が「中国強し」に変わったための論調の転換に過ぎず、むしろ、中国(清)を脅威と認識しているがために「朝鮮改造論」を事実上放棄したものであったと分析する。つまり、著者は福沢諭吉が「より侵略的」であったのは、一見「アジア主義」を唱えていたかに見える1881年の時点の方であったとするのである。

さらに、著者は福沢に、当時の日本が持っていた対外膨脹的な体質を正当化する論理を編み出そうとしてそれに成功しなかった「思想家」の姿を見るに至った。下記は著者によるまとめの言葉。

 これを要するに、日本という「身体」は膨脹を望み、現に膨脹をつづけていったが、それを一貫して正当化する「価値」は日本自身の中にはついに見つからず、またそのような「思想」を形成することもできなかったのである。「身体」はあっても「身体の思想」は存在しなかったのである。
坂野潤治『近代日本とアジア』(ちくま学芸文庫,2013)205-207頁)


「日本という『身体』は膨脹を望」んだ理由として私の頭に浮かぶのは、同じ著者による2012年の著書『日本近代史』に書かれた下記の文章である。

日本国内を完全に平定してしまった「革命軍」が今すぐ日本国の役に立とうとすれば、台湾、朝鮮、樺太への出兵しかなかった。
坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書,2012)122頁)

日本の政治においては「惰性」が何十年にもわたって止められずにずっと続く。原発がその好例だ。明治維新時の余剰兵力によって始まった日本の「膨脹」志向が1945年まで続いたと考えられるのではないか。


さて、本書には、昨年夏に書かれた「文庫版へのあとがき」がついている。これがなかなか興味深いので、再び本書から引用する。

(前略)アジアの大国中国の「強弱」によって振りまわされてきた明治・大正期の日本の苦労は、本書刊行の一九七七年よりも、その三十六年後の二〇一三年の読者のほうが、より身近なものとして理解できるように思われる。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで評された高度経済成長期の日本人は、経済の力で中国を圧倒していた。本書が分析した明治・大正期の言葉でいえば“中国弱し”という認識の下で、日本人は対米、対ソ、対中の関係を理解してきたのである。
 しかるに、それから三十六年後の二〇一三年に生きる日本人は、軍事的にはもとより、経済的にさえ、中国が日本を圧倒している状況に置かれている。「アジア改造論」を放棄して「脱亜」を唱えた明治十八(一八八五)年の福沢諭吉や、中国警戒心から「日露協調」を提唱した日露戦争後の元老山県有朋と似た状況に、今日の日本人は置かれているのである。
 しかし、福沢の「脱亜論」の延長線上には、一九〇二年の日英同盟が透けて見え、山県の日露協調論の相手も、帝国主義国のロシアであった。“強い中国”を一緒に抑えてくれるイギリスとロシアの両帝国があったのである。
 しかるに、第三章の最終節で検討した第一次大戦後の世界では、欧米列強の代表はイギリスやロシアではなく、中国の民族自決に好意を寄せるアメリカであった。“強い中国”を一緒に抑えてくれる「西洋列強」はもはや存在しなくなっていたのである。そのようなときには、陸軍参謀本部でさえ、アメリカへの配慮から中国の内政干渉の自制を主張していたのである(本書一七四−一七八頁)。
 二十一世紀に入った日本が“中国強し”の認識を抱きはじめたときにも、日本が頼るべき「西洋列強」は、イギリスやロシアではなく、頓(とみ)に中国に好意的になっていくアメリカである。一九二〇年代の日本と同じく、二〇一〇年代の日本も、中国が強くなれば「脱亜入欧」すればいいという状況にはないのである。
 そればかりではなく、“中国強し”の認識の裏側には、経済大国日本の衰退という事情がある。高度経済成長期の田中角栄元首相のように「日中友好」を高唱する経済力も、今日の日本にはないのである。本書で分析したような、「アジア主義」と「脱亜論」の使い分けで中国の大国化に対処できるという状況よりは、はるかに困難な状況に、今日の日本は置かれているのである。
 このような観点からするとき、本書の最後の部分(一七二頁以下)で、第一次世界大戦後の日本の、対米重視と中国内政不干渉のセットの意味を明らかにしておいたことは、まことに僥倖であった。この点を加えれば、本書の分析は今日でも有効であると確信している。
坂野潤治『近代日本とアジア』(ちくま学芸文庫,2013)205-207頁)


安倍晋三オバマ米大統領ら欧米の首脳の多くが行かなかったソチ冬季五輪の開会式にわざわざ出向いたが、安倍が同郷の山県有朋に倣って「中国封じ込め」を画策していることは明白だろう。ただ、安倍晋三の場合はあまりにもその意図が見え透いているため、「劣化版山県有朋」との感を否めない。というより、山県有朋の「猿真似」にしか見えないというべきか。

戦前の日本は、1920年代の「対米重視」と「中国内政不干渉」の政策をとり続けることができなくなり、ついに1931年に中国との戦争を引き起こし、それが1941年の対米戦争開戦へとつながった。

安倍晋三は現在の日中関係を1914年の英独関係にたとえたが、そんな遠い国の話ではなく、何よりも1930年頃の日中関係に似ていると言わねばならない。安倍晋三の政権復帰後、とみに緊張感を増しつつある日米関係も、1930年頃のそれに似てきたと言えるのではないか。前にも書いたが、1930年には関東大震災の復興支援のお礼として女性たちの使節団が訪米した。しかし、それとは裏腹の「反米」の機運も兆していたのだった。