kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

日中戦争を阻止するには「デモクラシー勢力」の政権奪取が必要/坂野潤治『帝国と立憲』を読んで(上)

年末年始にかけて本を5冊(5タイトル)買い、図書館から本を6冊(5タイトル)借りた。後者については、年末には貸出期限がいつもの2週間から3週間に延びるので(今年の場合、その間に5営業日の休館日があるため)、それを利用して12月22日の金曜日から23日、24日の土日(23日は天皇誕生日だが折悪しく土曜日と重なって休日は増えなかった)にかけて区内のいくつかの図書館から借りたのだった。

結局三が日までに図書館から借りた5タイトル6冊のうち4タイトル5冊を読んだが、今年の年末年初には古典の類は読んでいない。今日から何度か取り上げるのは、昨年(2017年)7月に筑摩書房から刊行された坂野潤治の『帝国と立憲 - 日中戦争はなぜ防げなかったのか』だ。別に開いている読書ブログでは松本清張推理小説だとかそんな本ばかり取り上げているが、今回は坂野の本にかこつけて現在の政治について何回かに分けて(一応2回か3回のつもり)書こうと思っているので、こちらの日記で取り上げる。



まず昨年9月10日付の朝日新聞読書欄に掲載された齋藤純一・早大教授による書評を引用する。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2017091000006.html

書評
帝国と立憲―日中戦争はなぜ防げなかったのか [著]坂野潤治

[評者]齋藤純一(早大教授)

[掲載]2017年09月10日

[ジャンル]歴史

著者:坂野 潤治  出版社:筑摩書房


■デモクラシーの役割と課題問う

 本書は、1874年の台湾出兵から1937年の日中全面戦争に至る歴史を、「帝国」対「立憲」という構図のもとに簡明に描き直す。著者によれば、「内に立憲、外に帝国」という二重基準でこの時代を理解するのは誤りであり、立憲が強いときには帝国は抑制され、帝国が伸長するときには立憲は息を潜めた。立憲と帝国は交互に現れたのであり、両者の併存はむしろ例外だった。
 この場合の「帝国」は、中国(満蒙)への膨張をはかる軍拡の政策・行動を指す。対して、「立憲」は、狭義の「立憲主義」(憲法による公権力の制限)には還元されない。明治憲法統帥権の独立を保障しており、帝国化に抗するためには、「違憲」ではなく「非立憲」の論理立てが必要だった(参照されるのは佐々木惣一ではなく吉野作造の「憲政の本義」である)。この意味での立憲は、国会開設、政党内閣、男子普通選挙を順次実現した政治制度の民主化に加え、軍拡を抑えようとする財政指針もカバーする。
 このように本書は、「日中戦争への道」の歴史理解に修正を迫り、帝国化を阻もうとする努力が、昭和に入ってからも消え去りはしなかった事実に注目を喚起する。
 立憲は帝国化に繰り返し、執拗(しつよう)に立ちはだかった。にもかかわらず、日中戦争はなぜ防げなかったのか。「立憲」と「帝国」の抗争から著者が引きだす歴史の教えはこうである。「デモクラシーが戦争を抑え込み、それゆえにさらに発展するという好循環は、リベラルな政党内閣……の下でしか生じない」
 本書が問いかけるのは、立憲主義を擁護するに加えていまデモクラシーに何が求められるか、である。政府および人民の権力濫用(らんよう)を抑えながら、単なる受け皿ではない、リベラルな議会多数派をどう安定的に組織していくことができるか。「立憲」という課題への再度の取り組みを本書は促す。

    ◇

 ばんの・じゅんじ 37年生まれ。東京大名誉教授。著書に『日本憲政史』『近代日本の国家構想』など。


著者は、上記引用文中青字ボールドにした強調部分に関して、さらに突っ込んだ言い方もしている。その部分に言及した書評がアマゾンカスタマーレビューにあったので以下に引用する。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2PQKS1BLYYYOH/

★★★★★ 戦争を阻止するデモクラシーとは
投稿者 hiroshi 2017年10月10日

本書は、私の日本近代史理解に修正を迫るものであった。1874年の台湾出兵以来、1937年の日中全面戦争まで、日本は富国強兵、海外膨張へ「まっしぐら」ではなかった。それに抵抗する勢力の闘いが執拗に続いていたのだ。台湾出兵の翌年に明治天皇の「立憲政体樹立の詔勅」があり、憲法制定、議会創設の動きが始まっている。本書は、中国への膨張を図る軍拡の動きを「帝国」とし、国民の意見を政治に反映する運動を「立憲」と呼んで、この62年間の「帝国」と「立憲」の相克を描き出す。

ここで使われる「立憲」は、今日の立憲主義とは異なり、憲法により権力の乱用を抑える意味ではない。明治憲法に認められた天皇による統帥権により、軍部の暴走に歯止めをかけられなかったからである。そこで日中対立、軍拡を望まない勢力は、「立憲の本義」(吉野作造)の論理によって帝国化に抗した。国会開設、政党政治普通選挙等の政治の民主化を進めたのである。成立した政党内閣は軍部の要求する軍備拡大の予算を幾度も退けた。

明治の末期には「内に立憲、外に帝国」のスローガンが流行したが、実際には、立憲が強い時には帝国は抑制され、帝国が勢いを得た時は、立憲は弱体化した。つまり、帝国と立憲は交互に現れて拡大していったことを本書は明らかにする。そして、最終的にはデモクラシーの頂点で日中戦争が勃発すると、戦争がデモクラシーを抑え込み、帝国の暴走を許して太平洋戦争により立憲は敗北する。その戦争の敗北によって帝国も敗北にいたる。

終章に著者は述べている。「戦前の立憲勢力は1874年以来かなり頑強に、日中対立の激化に抵抗してきました。しかし、1937年に日中全面戦争が起こった時には、それに抵抗できなかったばかりか、逆に戦争に同調しました」戦争が始まってしまえば国民は抵抗はできないと言う。それを防ぐために歴史から引き出される教えは「デモクラシー勢力が政権についていれば、戦争を止めることができる」ということである。著者は現在の日本をめぐる政治情勢を憂慮するとともに、日本人の歴史認識の不足を指摘して、「二度と日中戦争がを起こしてはならない。これが本書執筆の動機です」と結ぶ。80歳の碩学の言葉を胸に刻みたい。


デモクラシー勢力が政権についていれば戦争を止められるが、いったん戦争が始まってしまえば国民は抵抗できない。

これは本当にその通りだろう。よく、アメリカ大統領がスキャンダルなどで危機に追い込まれると中東の国を空爆し、それで支持率がV字回復することがある。最近の日本でも、戦争こそ起こさなかったものの、後藤健二氏と湯川遥菜氏がIS(イスラム国)に人質に取られた時に安倍晋三が強硬な対応をとるや、安倍内閣の支持率が急上昇した(2015年1月)。人質事件への強硬姿勢だけでこれなら、安倍政権が日中戦争を始めようものなら、内閣支持率が馬鹿みたいに上がるに違いないと呆れた記憶は今も鮮烈だ。

安倍内閣支持率は、その半年後の安保法案の審議の最中には大きく下がり、毎日新聞調査で支持率32%を記録した。その当時には、坂野潤治が用いた「立憲」ではなく、憲法による公権力の制限を意味する狭義の「立憲主義」の理論に立脚して憲法学者たちが安倍政権を批判し、国民の多くもそれに説得された。それは、3年前の6月4日からわずか2か月程度しか続かなかったが。

本書の「終章」から引用する。

(前略)安倍内閣が進めている安全保障政策は、(日本がアメリカの戦争に巻き込まれるのではなく=引用者註)日中間の領土問題にアメリカを巻き込もうとするものです。理屈の上から言えば(つまり建前上は=引用者註)、日本の領土を守る個別的自衛権の行使には憲法の改正も要りません。集団的自衛権も不要です。現行憲法日米安全保障条約だけで尖閣諸島自衛権で守れるし、アメリカも守ってくれるでしょう。

 ただ、日中有事の時に、アメリカが本気で日本を守ってくれるのか、現行憲法自衛権を認めていることだけを頼りに自衛隊に出動を命じられるか、現実問題としてはかなり頼りなく思えます。それで安倍内閣は日米同盟の強化と憲法改正を唱えているのです。

 それでは現実に尖閣諸島をめぐって日中間で局地戦争が起こった場合、「立憲主義者」や「立憲デモクラシー」の主張者は、反戦平和の立場に立てるでしょうか。

 本書が明らかにしてきたように、戦前の立憲勢力は1874(明治7)年以来かなり頑強に、日中対立の激化に抵抗してきました。しかし、1937年に日中全面戦争が起こった時には、それに抵抗できなかったばかりか、逆に戦争に同調しました。自分が心の底では軽んじてきた中国との戦争に正面から反対する気にはなれなかったのです。

 同様のことが今日の平和主義者にも起こるのではないか。このような懸念こそが、筆者をして戦前日本の日中関係史の分析に向かわせました。対米戦争の反省に関しては、こうした懸念はあまりありません。

坂野潤治『帝国と立憲 - 日中戦争はなぜ防げなかったのか』(筑摩書房, 2017)256-257頁)


これを今の政治状況に当てはめれば、いざ「現実に尖閣諸島をめぐって日中間で局地戦争が起こった場合」、「『立憲主義者』や『立憲デモクラシー』の主張者」という言葉から連想される立憲民主党やその支持者はもちろん、自民党以上の領土タカ派ともいうべき共産党も戦争に同調してしまうのではないか。私はそれを懸念している。

しかし、デモクラシー勢力が政権をとれば、戦争は阻止できる。

それなら、「デモクラシー勢力」(いうまでもなく自公与党、特に自民党はもちろん、日本維新の会希望の党もこれに該当しない)は政権獲得を目指さなければならないことは当然だ。しかし、今の「安倍一強」(現状の延長線上では、今後安倍が退陣しても「自民一強」は続くだろう)を崩すためには絶対に目指さなければならないことが一つあると思う。この日記の読者の皆様には、私が何を言おうとしているかは想像がつくのではないかと思うが、もったいぶってというか時間の関係というか、今日はここまでにして次回に書きたい。