坂野潤治が(私の好まない)山口二郎との対談本(2014年)で語った立憲主義論や戦前の陸海軍将校論、安倍晋三論などが面白かったのでメモしておく。幸い、ネット検索をかけると既に抜き書きされた方がおられたので、ちゃっかり孫引きさせていただきます。
- 作者: 坂野潤治,山口二郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/08/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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2014-09-19(2014年9月19日)より孫引き
坂野 立憲主義というのは、自由民権運動に対抗して井上毅らが主張した思想です。そんな保守主義がリベラルの用語になったのは、1938年の国家総動員法に対する衆議院の反対論からです。この時に、立憲主義の担い手が変ったんだ。民政党の斎藤隆夫をはじめ、みんな反対する時に何を言ったかというと、国家総動員法は五箇条の御誓文に反するし、明治大帝が作りたもうた明治憲法に反するということなんです。事態がどんどん悪くなってくるところを、当時のリベラルは明治憲法体制にすがって守ろうとした。これが立憲主義だったわけです。戦後日本の知識人が行う憲法論の基本的な原点は、この1938年にあると思う。最後の防波堤で頑張ったけれどもそれが突破されたという戦前最後の記憶が、戦後の憲法学者やリベラルな知識人の頭にこびりついている。戦後はそれを守らないと、となった。それで、戦後の憲法論はずっと防衛的というか、守りの運動になってきたわけ。それが立憲主義なんです。でも、戦後もずっと護憲だけ言っているのを見ると、明治以来の民主化の話からすれば、お粗末に過ぎるのではないかと思うんです。自由民権運動は、政治参加をめざした民主化運動だった。僕はこれを「明治デモクラシー」と呼んだけれど、国会を開いて平民に政治参加させろという話で、基本的には士族と豪農の運動だった。
(略)
戦前の日本には、民主主義を求めた下からの努力がずっとあったわけです。(略)
ところが、日中戦争が始まって、国家総動員法となる時、五箇条の御誓文と明治憲法を守れというところまで戻ってしまった。そして戦後もそれと同じレベルで護憲論を張った。これはちょっとないんじゃないの?と思ってきたんです。
こう言って、坂野潤治は山口二郎が樋口陽一ら憲法学者たちと語らって立ち上げた、「立憲デモクラシーの会」入りの誘いを断った理由を語る。あんな保守主義を信奉する会なんかに加われるか、という思いなのだろう。
そういえばしばらく前に枝野幸男が立憲主義は保守思想だと指摘したことがあって、それを 枝野幸男よ、安倍政権の安保法案強行採決は「革命」ではなく「クーデター」だろ - kojitakenの日記(2015年11月3日)で取り上げたのだった。先日の朝日新聞に掲載された長谷部恭男と杉田敦との対談でも、長谷部恭男が
素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。
と語り、それを受けて杉田敦が
みんなで決めたことでもだめなものはだめ。これが立憲主義でしたね。民主主義と立憲主義の間の緊張関係を常に意識しておかないと(以下略)
と応じた。民主主義をも制限する立憲主義は基本的に保守思想だ、という枝野幸男の指摘には私も同意する。安倍晋三や橋下徹や高村正彦や谷垣禎一らといった「反知性主義」(=知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想)を信奉する、革命的、というよりクーデター志向の強い連中とは違って、安倍や橋下らと比較するとはるかに「保守的」である私は、専門知を大いに尊重する思想信条を持っているから、坂野潤治とは違って立憲主義を素直に受け入れる*1。
坂野潤治・山口二郎の対談本からの引用に戻る。引き続きはてなダイアリー『本と奇妙な煙』からの孫引き。
陸海軍の体制エリートからの没落
坂野 戦前に日本が歩んだ戦争への道を振り返ってみると(略)陸海軍の体制エリートからの没落だったわけです。(略)
[ロンドン海軍軍縮条約]さらに美濃部達吉は陸海軍大臣の文官制を迫ったりします。そうしたことへの不満がどんどん募っていき、陸軍と海軍の青年将校たちは支配エリートとしての意識を失って、反体制エリートのつもりになっていくんです。社会主義者や右翼と同じような単なる反体制エリートになるのです。
彼らは、軍事クーデターやテロをやったり、外では関東軍が満州事変をでっち上げる。支配エリートならば、国策で決定してから動くわけですが、反体制エリートだから、現地軍が勝手にやっちゃうし、時の総理さえ殺してしまう。(略)
[政党内閣時代に入っても]軍人トップが政治エリートとして存続し、支配エリートの一翼を担っていたんです。ところが1925年の普選以来、陸軍・海軍は政策決定から排除されるようになる。その象徴が1930年のロンドン軍縮条約だったのです。政権を奪った政党が、ついに統帥権まで奪おうとしているというのが海軍青年将校の理解だった。
(略)
海軍条約の時から政党内閣は軍縮一辺倒。原敬は満蒙以外の占領地は全部返してしまおうと言うし、幣原喜重郎も協調外交だから中国への出兵はしない。非常な孤立感が1920年代から陸海軍には深まっていて、それがとうとう決起するまでに至った。反体制化すると、もうエリートとはいえないよね。(略)
永田鉄山だ、東条英機だ、石原莞爾だってみんな過大評価しすぎだと思う。(略)それ以前の陸軍のリーダーから比べたら、状況認識も政治力もガタッと落ちているんだ。在野的勢力になれば、世界認識も狂うし、局部的になってしまうのも当然。(略)
山県有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一・宇垣一成あたりまでは保持されていたエリートとしての国際認識と冷徹さみたいなものが、陸海軍から失われてしまった。と同時に、日露戦争以後の中国の満州権益奪回熱に対する警戒心というものも、日本のエリートからなくなっていく。中国は侮れないということは、日露戦争に勝って以来、エリートはみんな知っていたのに。
実際、1931年の満州事変では、中国は日本軍に抵抗しないで引くわけです。あれは向こうが合理的だった。その後、中国は準備をして、1937年の廬溝橋になると今度はやってやると、絶対に引かない。陸軍は日中戦争なんて簡単に片付くと高をくくっていたけれど、どんどん泥沼に陥っていくんだ。
(略)
日本の戦犯たちはエリートじゃなかった。反体制エリートだから責任意識なんてものがあるわけがないんです。
(略)
僕には、反体制エリートが総理大臣になったのが今の安倍晋三のように見えるんです。
「反体制エリートが総理大臣になったのが安倍晋三」。これは本当にその通りだと思う。この坂野潤治の指摘を読んで、さる安倍晋三支持者がある時、「今、これまで日本の学校教育があたりまえのものとして押し付けてきた物事を鵜呑みにせず、疑い、異議を唱えている一群の先頭にいるのが」安倍晋三ではないかと書いていたことを思い出した。また、坂野潤治とは必ずしも意見が合わないであろう憲法学者たちが、安倍晋三らがやっているのは革命、あるいはクーデターだと言っているのは周知の通り。
「戦後レジーム」や「保守本流」、あるいは「立憲主義」に対してクーデターを起こしているのが安倍晋三なのだが、安倍内閣の高支持率の秘訣は実はそこにあるのではないかと私は最近思っている。つまり、橋下徹などと同様、安倍晋三はその「反逆者」的なあり方が、現状に不満を持つの一定層の国民の心をつかみ、それが、第1次安倍内閣時代から安倍を支持していた人たち(その割合は決して少なくなく、第1次安倍内閣が潰れた時ですら内閣支持率は3割を超えていた)のような、安倍を長い自民党政権の延長線上にある「保守」だと誤認して支持し続ける人たちの分と合わさって高支持率を保っているのではないかと思うのだ。
その意味で、安倍ら復古主義・歴史修正主義を信奉する政治勢力を「保守」と書く風潮は有害極まりなく、一刻も早く改めるべきだと思う。安倍晋三らの立場をそれなりに尊重してのことなのか、本来「極右」「反動」「復古」などと表現すべきところを「超保守」と書く一部「リベラル」の表現を私が批判するのは、安倍は保守でもなんでもない、単なる復古的極右クーデター野郎に過ぎないと思うからだ。あんなやつを形容するのに「保守」などという言葉を使うべきではない。
さて、以下はお決まりの蛇足(と書き始めた時には思ったが、例によってここからが長くなってしまった)。この記事では、坂野潤治と山口二郎の対談本を取り上げながら、山口二郎の発言は取り上げてこなかった。「政治改革」を煽った学者として良いイメージを持っていないからだが、それでも時々は注目に値することを言っている。その部分を取り上げる。これは手打ちでの本から引用。
今回安倍首相は(中略)法制局長官を党派化したわけですね(故小松一郎を据えた人事を指す=引用者註)。ある意味で民主化とも言えなくはない。実は同じことを小沢一郎氏が民主党政権の時に、役人が憲法解釈を全部仕切るのはけしからん、これは非民主的だと言っていたのです。要するに、政党政治の波を遮断する防壁を作ることが、民主化の障害になるという議論は以前からあったんです。そこはなかなか微妙な問題です。職業的行政官が超然として憲法解釈を示しているからこそ、政党政治が成り立っている面もあるわけで。つまり、政治体制の基本問題に手を付けることなく、日常の政策課題に専念するという意味で政党政治のテーマが絞られている。(22頁)
山口二郎は無責任にも「そこはなかなか微妙な問題です」などと言って小沢一郎に対する批判を避けているが、小沢一郎と行動を共にしてきた山口二郎らしい態度だと批判せざるを得ない。実際、小沢一郎がバックアップしていた鳩山由紀夫内閣、そしてそれに続く菅直人内閣は、内閣法制局長官の国会答弁を禁じ、枝野幸男(鳩山政権)や仙谷由人(菅政権)に答弁させていたのだった。それを元に戻したのは保守派の野田佳彦だった。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2015/0622.html(2015年6月22日)より
民主党政権時代に行われた法制局長官の答弁禁止がもつ制度的な問題点は、端的に言えば、その答弁が行われていれば、内閣が法制局の意見をどの程度尊重しているかを国会がチェックできるにもかかわらず、それができなくなってしまうというところにあった。「行政府としての憲法解釈は最終的に内閣の責任において行う」としても、内閣がどのような憲法解釈を採ってもよいということにはならない。行政の最終的な憲法解釈権の所在の問題と、憲法解釈のあり方の問題とを混同してはならない。内閣が好き勝手な憲法解釈をすることができるのであれば問題であろう。この点で、次の答弁は注目される。
すなわち、「内閣法制局は、内閣がその職務として憲法第72条に基づき法律案を国会に提出し、または憲法第73条に基づき政令を制定することとされていること、及び国務大臣がその職責を果たすに当たり憲法の尊重擁護義務があることにかんがみ、法治主義の観点からこれらが適切に行われることを確保するため、法律専門家としての立場において内閣を直接補佐することを主な任務としている」(1998年5月8日第142国会衆議院行政改革特別委員会 村岡兼造官房長官)と。
ここで、内閣法制局の存在意義として、法治主義や国務大臣の憲法尊重擁護義務の確保を挙げている点が重要である。内閣が法制局の意見を尊重しないで、独自の憲法解釈を行った場合には、国務大臣の憲法尊重擁護義務違反の問題も生じるだろう。国会が内閣の憲法尊重義務違反の責任を問うためには、日本が抽象的違憲審査制を採用していない以上、法制局の意見を、国会が直接聴取できることが前提になる。もし国会での法制局長官の答弁が禁止され、法制局の意見を国会が直接聴取できない状況が生まれるならば、国会は、内閣法制局という法律専門家の意見を踏まえた上で内閣についてチェックすることができなくなってしまう。内閣に対する国会のコントロール機能の低下を招くという意味で、大きな損失と言えよう。
2009年12月7日、民主党、社民党、国民新党の与党3党の幹事長・国対委員長は、国会改革法案について、通常国会で成立を図ることで合意した。その内容は、(1)政府参考人制度を廃止し、官僚の答弁を禁じる、(2)政府特別補佐人から法制局長官を外す、(3)政治家同士の国会論戦を行う衆参委員会とは別に、行政監視を目的とした「新たな場」を設け、官僚や有識者から意見を聴取する、というものだった。
2010年1月18日に第174回国会が開会したが、その当日、実は重大な変化が起きていた。内閣法制局長官の答弁禁止が、法律改正を待たずに事実上実施されたからである。「官報」第5233号(平成22年1月18日)10頁には、1月14日に、衆参両院議長がそれぞれ、人事院総裁、公正取引委員会委員長、公害等調整委員会委員長の3名を補佐人として承認した事実が記載されている。「鳩山内閣総理大臣から申出のあった次の者」の中に法制局長官が含まれていないことから、内閣は、法制局長官についてのみ、補佐人の申出を行わなかったことになる。法律改正で長官の答弁禁止を行うとアドバルーンをあげておきながら、事実上の答弁禁止が実現したわけである。
2010年5月、「国会審議の活性化のための国会法等の一部を改正する法律案」(小沢一郎君外6名)が衆議院に提出された。 その「理由」はこうである。「国会審議の活性化のため、政府特別補佐人から内閣法制局長官を除く等の必要がある。これが、この法律案を提出する理由である」と。法制局長官の答弁禁止は、野田内閣が2012年1月20日の閣議で山本庸幸内閣法制局長官を「政府特別補佐人」に指名するまで続いた。
鳴り物入りで始まった「政治主導」や「官僚答弁禁止」も、ほぼすべての分野で、まったく統一がとれていない「政治手動」の様相を呈するようになって、民主党政権は崩壊した。この政権が残した負の遺産のなかの一つに、「歪んだ政治家主導」の結果として、内閣法制局に対する不自然な関係と空気が生まれたことだろう。
つまり、小沢一郎、鳩山由紀夫、菅直人の民主党「トロイカ」は、安倍晋三のクーデターの先鞭をつけて「立憲主義」に挑戦していたのだった。そういえば小沢・鳩山・菅の3人も間違いなく坂野潤治のいう「反体制エリート」に位置づけられる人たちだろう。このことは坂野氏自身も対談本の中で認めており、彼らは「反体制エリート」ではなく「対抗エリート」を目指すべきだと言っている。
さて、水島朝穂は上記の文章に続いて、安倍晋三による小松一郎内閣法制局長官任命を厳しく批判している。
(3)安倍首相による内閣法制局長官人事
2012年12月の総選挙によって自民党安倍晋三政権が復活すると、安倍首相は、集団的自衛権行使を合憲とする解釈変更を行うために、内閣法制局長官の首をすげ替えた(2013年8月)。新しい長官には、行使に積極的とされる小松一郎氏(前駐仏大使)が就任した。内閣法制局設置法2条1項は、「内閣法制局の長は、内閣法制局長官とし、内閣が任命する」と規定しているが、どのような人物を内閣法制局長官とするかについては法律に規定はなく、内閣の裁量に委ねられている。だが、小松長官人事は、長官は第一部長、次長を経験した人が任命されるという長年の人事慣行を破るものだった。政府答弁書によれば、「小松長官の外務省入省以降の主な職歴は、同省条約局法規課長、同局条約課長等を経て同省欧州局長、同省国際法局長、スイス国兼リヒテンシュタイン国駐箚特命全権大使、フランス国兼アンドラ国モナコ国駐箚特命全権大使及び内閣法制局長官である」(2013年12月17日・内閣参質185第99号参議院議員小西洋之君提出小松一郎内閣法制局長官の資質に関する質問に対する答弁書)とされている。この答弁書で、政府は、「内閣法制局長官の任命は、内閣法制局長官に求められる能力や適性等を公正かつ厳格に判断し、適材適所の観点から行っているものである」としている。しかし、小松長官人事は、文部科学省の官僚を学長に任命する愚策に次ぐ、いやそれ以上の禁じ手である。ちなみに、小松長官が他の法制局長官と異なるエピソードには事欠かない。例えば、自らの安全保障観を新聞上で披露してしまった例。いわく。「わが国をめぐる安全保障環境が非常に厳しさを増す中で、やっぱり安全保障の中心的な柱は『抑止』です。こういう事態が起これば、こういうことをやることができますよと示し、けしからんことを考える国があったら、その場合のコストを認識させ、危ない乱暴なことをやらせないようにしようというのが抑止の中心です。そして、それよりももう少しグレードの低い事態というのはいつでも起こりうる。しかし、法律が十分に整備されていないがために穴があいているのです」23)。「抑止力」などは法制局の職分を離れた政策の領域の問題であるし、法律が十分に整備されているかどうかの認識は政策官庁ではない内閣法制局の長官が軽々と口にすべき事柄ではない。法制局長官が政策的な問題にここまで踏み込んで発言をするというのは異例である。法制局の強みは、政策から距離を置き、「法の論理」に徹するところにこそある。
ところで、第186国会の衆院予算委員会で、象徴的な質疑があった。安倍首相が、2月12日、集団的自衛権行使をめぐる憲法解釈の変更をめぐってこう答弁したのである。「…先ほど来、法制局長官の答弁を求めていますが、最高の責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは、法制局長官ではないんです、私なんですよ」。
憲法解釈に関する政府見解は整合性が求められ、歴代内閣は内閣法制局の議論の積み重ねを尊重してきたが、安倍首相の答弁は、「それを覆して自ら解釈改憲を進める考えを示したもの」と報じられた。民主党政権の初期に、内閣法制局長官の国会答弁禁止という無理筋を押し通して失敗したが、それは形を変えて、今度は首相による法制局の軽視・無視として顕在化した。
この安倍首相答弁と法制局長官人事については、参議院の調査会において、野中広務参考人(元自民党幹事長)から異議が唱えられた。「これが法制局の長官をお替えになって、内閣の方針に従うような答弁をしてくれるであろう法制局長官を新しく外部からお迎えになったわけでございますが、不幸にもその長官が入院をされたという事態が出ましたら、今度は総理自らが、この答弁が自分の答弁として最高のものであり、法制局長官がやるべきものでないという、こういう変わり方に変わってきたというのは、法の下で、憲法の下で行う内閣のトップにある方の変わり方としては、非常に表現は悪いけれども、せこいやり方であり、非常に基本を間違ったやり方であると、このように存じておる次第であります」(2014年2月19日 参院国の統治機構に関する調査会)。
いずれの時代でも、大本営や関東軍のエリート参謀のような発想をする人々はいる。憲法9条の武力行使禁止規範を破る、威勢のいい「関東軍的思考」といってよいだろう。これらの人々が学ぶべきは、野中広務や後藤田正晴などの往時の保守政治家にあった、戦争体験に裏打ちされた「軍事への抑制」の視点である。
「安保法制懇」という私的諮問機関の報告書を過度に重視し、これまでの内閣法制局の憲法解釈に反する集団的自衛権行使の容認が閣議決定で行われるという事態が生まれた。「我が国に対する急迫不正の侵害(武力攻撃)」がないのに、「我が国と密接な関係にある他国」に対するものまで「我が国」と同じ扱いで「自衛の措置」が憲法上認められるとするのは、従来の政府解釈が自衛力合憲論の決定的理由としてきた「自衛のための必要最小限の実力」という根幹部分を否定することと同義である。「自衛」は「他衛」であると強弁することで、閣議決定が採用した「新3要件」は政府の自衛隊合憲解釈を「根底から覆して」しまったのである。これは憲法解釈の変更ではなく、筆者に言わせれば、憲法の大原則である平和主義の根幹(首)を斬り落とす「憲法介錯」にほかならない。内閣は、憲法に違反する内容の閣議決定を行ったのである。
「(憲法解釈の)最高責任者は私だ」という安倍首相を見ていると、「憲法の番人は私だ」と言っているように筆者には聞こえる。ライヒ大統領こそが「憲法の番人」としたシュミットの主張が、その85年後に、安倍政権のもとで再演されつつあるかの如くである。
小沢一郎を含む民主党トロイカと安倍晋三との連続性はあまりにも明らかだろう。立憲主義に(対談本で批判や否定はしないとは言っているものの)乗り気でない坂野潤治はともかく、自ら「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人になっている山口二郎には、このことをどう考えるのか問い質したい。
なお、私自身は、民主主義と立憲主義のバランスは、個々人が自分の思考の中で折り合いをつけていくしかないと思う。当たり前のことかもしれないが、民主主義原理主義であっても立憲主義原理主義であっても、ともに好ましくない。常日頃から民主主義と立憲主義の緊張関係を意識しつつ、ご都合主義にならないように心がけたい。
*1:余談だが、長くクラシック音楽(西洋の古典音楽愛好家)であった私は、その中でも20世紀の音楽だとか、19世紀以前の音楽でも(ベートーヴェンは言うに及ばず)ハイドンやブラームスの革新性を発見してそこに喜びを見出していたのだった。私は同好の士たちの頑迷固陋な保守趣味に閉口するとともに、素人愛好家よりは専門性が高いはずの音楽評論家たちの多くが1980年頃以前には「社会主義リアリズム」を信奉するていたらくを思うにつけ、真に自由なものの考え方ができるのは、評論家たちより専門性の高い芸術家や研究者たちだけなんだなあと思うようになった。この例に限らず、一般人は型にはまった考え方しかできず、真に自由なものの考え方ができるのは、その道の第一人者(か、さもなくば予備知識の全くのない純粋無垢な人)に限られると私は考えている。