kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

坂野潤治『〈階級〉の日本近代史』の真実

坂野潤治の『〈階級〉の日本近代史 - 政治的平等と社会的不平等』(講談社選書メチエ)については、今年一番最初に書いた記事で軽く触れた。



2014年末/2015年始に読んだ本 - kojitakenの日記(2015年1月4日)より

講談社選書メチエ」シリーズは専門書ではなく一般書だととらえて良いだろう。そのせいもあってか、このタイミングで是非とも言っておきたいことを言っておこう、という著者の心意気がうかがわれる。議論はやや粗いながらも、思い切りの良い書きぶりが印象に残る本である。以下、「はじめに」から少し引用する。

「平和と自由」だけを尊重し、「格差」に目を向けない場合の最悪の結果は、一九三七〜一九四五(昭和一二〜二〇)年の「八年戦争」である。言うまでもなく、一九三七年には日中戦争が、四一年には太平洋戦争が勃発し、四五年には見渡す限りの焼け野原と敗戦が待っていた。
しかし、国を挙げての八年間の総力戦の下で、国内における「格差」は驚くべき速さで縮小していったのである。

坂野潤治『〈階級〉の日本近代史 政治的平等と社会的不平等』(講談社選書メチエ, 2014)5頁)


赤字ボールドにした部分は、ピケティが示したデータによっても裏付けられている。そして、世界大戦によって格差(不平等)が縮小したのは、何も敗戦国・日本に限らず、同じ敗戦国のドイツはもちろん、戦勝国のイギリス、フランスやアメリカでも同じだった。ピケティ本では、特にヨーロッパにおいては、第1次大戦の破壊的な影響がきわめて大きかったことをデータで示してくれる。だから、「希望は、戦争。」という言葉は、歴史にも裏打ちされているといえる。

ところで、坂野本で著者はある「歴史のイフ」を提起している。しかし、ピケティ本が示すデータを考え合わせると、著者の希望的観測にネガティブな評価を与えざるを得ない。これだけでは何を言っているかわからないと思うのでもう少し書くと、日中戦争がなくても、あるいは国家総動員法がなくても、つまり「戦争」抜きで国内の格差の縮小が、1940年代の日本で可能であったかといえば、それは難しかったのではないかと言わざるを得ない。もちろん、あくまでピケティが正しいなら、という前提の上での話だが。

「戦争に頼らない格差の縮小」は、日本のみならず世界的にも、今後の大きな課題なのではないか。その意味で、現在の日本で「格差」に目を向けずに「平和と自由」だけを尊重して、民主党と過激な新自由主義政党である維新の党との共闘に何の疑問も抱かないどころか「歓迎」すらしているように見える一部の「リベラル」に対して、私は大いなる危惧を持つ。リベラルであろうとするなら、「平和と自由と平等」の三者揃い踏みを追求しなければならないはずだと思うのだが。


その本を正面から取り上げた下記記事が、「はてなブックマーク」のホッテントリになっている。

http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20150306/1425642781(2015年3月6日)

坂野本の核心部分については、下記のように書かれている。

 1925年に男子普通選挙が施行されても,新しく勃興した都市部に基盤を置く政党は路線闘争のすえに都市上層部との提携を選んだ(93-97頁)。社会民主主義政党の得票率は依然として低いままであった。そしてそれと同年に施行された治安維持法をめぐって,後世の歴史家は「国体の変革」を訴えるものへの弾圧に着目したが,同時代の無産階級や社会民主主義者を代表する政党は「私有財産制の否定」を唱えるものへの迫害の方に猛反対していた(97-106頁)。そして,普通選挙治安維持法という「交錯する2つの対抗軸の組み合わせに失敗すれば,国家社会主義が新たな選択肢として登場してくる」(106頁)。

 では,本当に「国家社会主義」なくして「格差の是正」は実現しなかったのだろうか。戦争があったからこそ,労働者の地位は向上したのだろうか。「希望は,戦争」なのだろうか。だが著者はそれを否定する。

「総力戦」抜きの「総力戦体制」ならば,長年にわたって「格差の是正」を怠ってきた自由主義者に対する懲罰として,あるいは受け容れられるかもしれない。……

しかし,「戦中派」ならぬ「戦末派」の筆者には,「総力戦」の方は受け容れられない(175-176頁)。

 ここから続けて著者が語るのは歴史のIFだが,戦争がなければ実現していたかもしれないIFであり,占領軍の権力ではなく選挙によって勝ち取ることができていたかもしれない民主主義と格差是正の姿である。それを詳しく述べるのは営業妨害になるのでやめておこうと思うが,ともかくもこの最終章は多くのひとに読まれてほしいと思った。


1月4日に私が書いた文章でも、「歴史のIF」については上の方の引用文の通り、ぼかして書いたが、この部分があるが故に、私は坂野本について、その結論には必ずしも同意できないけれども、著者の意気は高く買いたいと思ったのだった。

しかし、Mukke氏のブログ記事はその後が長い。その中に、読者をミスリードするのではないかと危惧される部分があった。下記の部分である。

 ところで,これは読んでいて何度も引っかかったのだが,著者の言う現代日本の「リベラル」とはどんな党派のことを指しているのだろうか。たとえば「当時はもとより,2014年の今日でも,リベラル政党は何時も『小さな政府』をめざす」(109頁)という箇所は,まだ直後に民主党のことだと名指されてはいるものの(党内左派の存在があるとはいえ,少なくとも民主党政権は仕分けなどで財政削減をはかってきたわけでまあ理解しなくもないが,とはいえ直後に保守政党は一貫して大きな政府を目指してきたと書かれていて,維新とかの勢力が考慮されてない感がすごい),冒頭に書かれた「左翼やリベラルが『国民の生活』に関心を持っていたならば」(4頁)というのは流石に「左翼とリベラル」を不当に矮小化しすぎなのではないかと思った。もちろん中には,護憲こそが命なのである,他のことはどうでもいい,というテンプレ通りの「左翼やリベラル」も――先日のノーベル平和賞をめぐる騒動で棲息が確認されたように――一定数いただろう(しかしそれを言うなら,国民の生活を向上させてきたと著者の言う保守勢力の中にも,国民の生活などどうでもよろしい,まずは改憲を,という人びとが一定数いたと思うのだが)。だがそのテンプレをもって「左翼とリベラル」の不作為を論じることは,果たして実情に沿った話なのだろうか(福祉の拡大を主張してきたのは「革新派」ではなかったか)。この辺,「リベラル」の定義がガバガバすぎるというか,自由主義のことを指してるのか現代日本において「リベラル」として認識されてる人びとを指してるのか一貫していないように見え(もちろんそれは現実の「リベラル」の語が帯びている多義性の所為でもあるのだろうけれど),良書であるのに残念なことだなぁ,と思ってしまうわけで。

 だが全体として非常に面白いので,読まれていない方々にはご一読を強く強くお勧めするものです。損はしないはず。


どうもこの部分の印象が読者に強く残るらしいことは、「はてなブックマーク」についたコメントを見ても感じられる。これはまずいな、と思ったのだった。それで、ブコメとメタブコメを書いたのだが(メタブコメは「追記」されている。ブコメ

基本的にブログ主と私は反りが合わないのだが、これももやもや感が残るエントリ。

などと失礼なことを書いたにもかかわらず取り上げて下さったブログ主のMukkeさんに、まずはお礼を申し上げる。

その上で、以下本論に入る。


「『リベラル』の定義がガバガバすぎる」というのは著者の執筆意図全体から見れば、言ってみればどうでも良い部分である。そこにとらわれて、本書の核心部が知られないのであれば残念な話だ。そこでその部分に絞って記事を書く。

著者の執筆意図を単純化していえば、「リベラル政党は、先の戦争を教訓にして、政治的平等と社会的平等の両立を目指すべきだ」ということだ。

その前段として、戦前の民政党と社会大衆との失敗を振り返る。民政党(特に斎藤隆夫)は政治的平等を目指したけれども社会的平等は軽視し、ファシズム政党として悪名の高い社会大衆党は社会的平等を目指したけれども戦争に積極的に協力した。この過ちを繰り返してはならないと著者は言いたいのだ。

本書の核心部である第五章に提示された「歴史のIF」はこの問題に直結している。

著者は、1937年の日中戦争勃発を「偶発事」としてとらえている。以下引用する。

 一九三七年七月七日の盧溝橋事件がそのまま日中全面戦争に発展したのは、むしろ「偶然」であった。しかし、一旦日中戦争が起これば、それが四年半後の太平洋戦争に発展するのは、むしろ「必然」であった。

(中略)日中戦争勃発の翌年(一九三八年)に議会の同意を得て成立した国家総動員法は、「総力戦体制」と呼ばれてきた。(172頁)


著者は、「総力戦体制」は、国会で反軍演説をぶった斎藤隆夫民政党)のような人々にとっては、総動員体制は「議会的民主主義の死滅を意味し」、国会で「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、スターリンの如く」と演説して「大胆率直に日本の進むべき道」を説いた西尾末広社会大衆党、のち戦後に社会党を経て民社党)のような人々にとっては「国家における労働者の地位向上をもたらすもの」であったとする(172-173頁)。

その上で、総動員体制下で「社会的平等」が重視されるようになったとする雨宮昭一の『戦後戦時体制論』(岩波書店,1997)の主旨を紹介しながら下記のように書く。

 このような「総力戦体制」の肯定的評価に、これまで筆者は同調を避けてきた。これまでのすべての著作で、一九三七年七月の日中戦争勃発以後の歴史の分析がないのは、そのためである。(174-175頁)

なぜ同調できないのか。著者は自身の戦争体験をその理由に挙げる。その部分の記述の多くは、それこそ「営業妨害」だろうから引用しないが、それでも下記の文章はどうしても引用しておきたい*1

 小学校二年生の筆者が一九四四年末から一九四五年初めに経験した空襲の連続を、一九三七(昭和一二)年九月に予想した人がいる。朝日新聞論説委員の武藤貞一である。武藤が盧溝橋事件の丸二ヵ月後に刊行した『日支事変と次に来るもの』という本には、盧溝橋事件が日中全面戦争に発展し、日中全面戦争が日米、日英、日ソ戦争に発展し、「銃後の婦人」が「焼夷弾、毒ガス、細菌戦の雨注」に、モンペ姿で立ち向かう姿が描かれている。

(中略)

 少なくとも三七年九月七日には五万人の読者が手に入れることのできた武藤の「総力戦」の未来図に、まったく考慮を払わないで日中戦争を泥沼化させた近衛内閣が、「総力戦体制」によって社会的な「格差」の是正につとめたと言われても、筆者は雨宮氏のようにその面だけを肯定することはできない。(176-177頁)

そして、この「総力戦体制による格差是正」を超克すべく著者が提示したのが、本書の「歴史のIF」なのである。その論考を著者は東大を定年退職した1998年に発表し、そのままの形で講談社学術文庫の『日本政治「失敗」の原因』(2010年)に収められているという。

ここで著者が注目したのが、日中戦争勃発2ヵ月前の1937年5月に行われた総選挙における社会大衆党の躍進であった。著者は、マルクス主義哲学者・戸坂潤と自由主義社会思想家兼経済学者・河合栄治郎の当時の論考を引用しながら、それまでファシズム政党扱いを受けていた社会大衆党の「広義国防」論*2が、「軍拡を抑制して国民生活を安定させよという主張として理解され」るようになったと指摘する(182頁)。ことに河合栄治郎について、

彼(河合)は社会大衆党の幹部に「ファッショ的思想傾向を持つものが少なくない」ことを認めたうえで、それは選挙では党勢が伸びないという「自党の無力への絶望」からきたもので、今回の総選挙での躍進により、絶望が希望に代わり、「ファッショ」から「社会党」に発展するであろう、と予想している。(中略)河合も同党が「国家社会主義」から「社会民主主義」に転換することを、予想し、かつ期待していたのである。(182頁)

と指摘し、

(戦時中の1944年に没した河合の弟子筋が、戦後民社党のブレーンになったりしたために=引用者註)戦後は、むしろ保守主義者の代表と思われてきた河合は、自由主義的な社会主義者であったのである」(183頁)

として高く評価している。

以上をまとめると、もし「偶発」的に生じた日中戦争勃発がなかったなら、「総力戦抜きの『社会民主主義』」(178頁の節のタイトル)が実現していたのではないかというのが、著者の「歴史のIF」である。但し、私にはこの論考はあまりにも楽観的に過ぎるのではないかとの感想を持った。私がこの本を読んだのは、ピケティの『21世紀の資本』を読んでいた真っ最中であっただけになおさらだ*3

以上が本書の核心部にして、本書でもっとも強く印象に残った部分の概略である。

最後に、この記事を書いたきっかけになった、Mukkeさんの記事についた「はてなブックマーク」のブコメを示しておく。念のためにお断りしておくが、ブコメを書かれた人を批判する意図は一切ない。よって、ブコメは無記名で引用する。

″「リベラル」の定義がガバガバすぎるというか,自由主義のことを指してるのか現代日本において「リベラル」として認識されてる人びとを指してるのか一貫していないように見え”坂野潤治ですらそういう認識なのか。

坂野潤治。問題作ぽい


私はこれらのコメントに脊髄反射して、ブコメ及びMukkeさんの記事の「追記」に引用されているメタブックマークのブコメを書いた。なお、

坂野潤治の言う「リベラル」は、ブログ主が書くような曖昧な定義でなく、明確に「政治的自由主義」を指している

と書いた論拠は、『日本近代史』(ちくま新書,2014)その他、坂野氏が書いた本をこれまで本書を含めて4冊読んだ感想に基づくもの。但し、本記事を書きながら、ブコメ最後の「但し坂野は左翼は除外している」以後の文章には私の誤解があり、削除した方が良いと思ったので、その部分をブコメから削除した。

以上、本記事は本書核心部の「歴史のIF」に触れているため、あるいは「営業妨害」にあたるのかもしれないが、「リベラルの定義がガバガバなトンデモ本」と片付けられるくらいなら、核心部のネタバレを書いた方がよほどマシと判断した次第。

なお、「保守政党」と「リベラル政党」の経済政策のスタンスについては、私も坂野本に対してMukkeさんとは少し違った異議があるが、それは別記事で書くことにする(下書きは一部してあるが、文章が錯綜しているので整理して公開するには少し時間を要する)。

*1:引用文中の武藤貞一の予見については、坂野潤治は『日本近代史』(ちくま新書,2012)の巻末でも取り上げている。

*2:該当箇所である本書182頁第1行では、「広義国義」と誤植されている。

*3:私がつけている読書記録を見ると、『21世紀の資本』を昨年12月20日から今年1月2日にかけて読んだが、坂野本はその途中の昨年12月23日から24日にかけて読んでいる。