年度またぎで読んだ本。
![日本三文オペラ (新潮文庫) 日本三文オペラ (新潮文庫)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51JAeDIRYnL._SL160_.jpg)
- 作者: 開高健
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1971/07/02
- メディア: 文庫
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一昨日(3/30)に読み始め、先ほど読み終えたが、今朝(4/1)読んでいたら、こんな一節に行き当たった。
キムが好んでもたれたがる茶の間の破れ壁にはビール会社の古ぼけた美人ポスターとカレンダーがかかっている。ほかには雨のしみがあるほか、装飾物もなにもない。ところどころ穴があいて竹の骨組みがのぞかれる、まったくむきだしの粗壁である。ここにカレンダーがかかっている。カレンダーは大福帳のような日めくり式のもので、二、三年前のものである。それは日めくり式になっているばかりか、日々の楽しみをもあたえてくれるものである。日附の上に大きく
「こころの暦」
という字があり、勘亭流まがいの太い字で
「四月一日」
とあって
「合掌の手で働けば無尽の宝(つきせぬたから)を出(いだ)す」
という諺が見える。
このカレンダーには毎日、古今東西の諺が入っていて、よくよくたいくつしたとき、みんなに話題を提供してくれるのである。たとえばラバは鉱山で手入れを食らって、殴られたり、目がつぶれるばかりにいぶされたりして帰ってきた日は大酒を飲み、みんなにさんざん毒づいたあと、壁からカレンダーをひっぱがし
「……おう、絶望する勿(なか)れ、而(しこう)して汝働けよ、カーライル」
大きな声で読み上げて、壁へ投げつけるのである。投げつけるときにはきっとせりふがつく。
「なんかってけっかる」
というのである。
「この日めくりは働かしてばっかりやないか、ひとをなんやと思てけっかる、顔洗わしたろか!」
たいていそんなことをいうのである。
が、キムは投げられたカレンダーをひろいあげると、そっと「四月一日」のところをひらいてもとどおりに壁へかける。四月一日をひらくのはそれがいちばん上にあるからだが、フクスケはキムがなんとなくその諺を壁にかけておきたいという気持をもっているらしいことを知っている。あるとき彼が便所にいこうとしてなにげなくそれをやぶろうとしたら、あわててキムが別の紙をだしてくれたことがあるのだ。ラバが投げつけたはずみにそれがちぎれそうになると、翌日、フクスケはちゃんとそれが厚紙で裏張りされてもとにもどっているのを見た。そこで、あるとき、なにげなく愛着の理由を聞いてみると
「とりあわせがよろしいやおまへんか」
というのがキムの答えであった。
「四月一日ちゅう馬鹿日とこの諺と、まるでウラハラで、そのウラとハラが、ピッタリしとりまっしゃないか。ああ、ええ言葉や。よういうてくれはった」
キムは相好をくずしてせせら笑った。
印象的なエピソードである上、その後のストーリー展開を暗示している。このあたりの作者の技巧は流石だと思った。
この本は、3日前に書いた 最近読んだ本(2014年3月) - kojitakenの日記(2014年3月29日)で触れた、小松左京の『日本アパッチ族』と同じ題材によるが、開高健の本作が1959年、小松左京の方は1963年に書かれた(1964年に単行本発行)。小松左京 - Wikipediaを参照すると、
と書かれている。しかし発表年に4〜5年もの開きがあっては、この2作を「相互に影響なく、同時並行的に執筆された」とみるのはいくらなんでも無理だろう。小松左京は開高健の小説を知った上で、自らのSF小説を書いたとみるほかない。筒井康隆が開高健を批判したとのことだが、私は筒井作品の愛読者ではあるけれども、この2作を比較すれば、圧倒的に開高健に軍配を上げざるを得ない。小松左京の『日本アパッチ族』も傑作だが、開高健の『日本三文オペラ』はさらにその上を行っている。
ただ、開高健も小松左京も書かなかったこととして、「アパッチ族」が売った(食べた)鉄くずは、朝鮮戦争で彼らの同胞を殺戮するのに使われた時期があるという事実を指摘しておかねばならない。
なお、本書の解説(佐々木基一)によると、本書と同名の『日本三文オペラ』と題された小説が、開高健とも小松左京とも同郷(大阪府出身)の武田麟太郎によって、戦前の1932年(昭和7年)に書かれたとのことだ。開高健が武田麟太郎の作品を知らなかったはずがあるまいとのこと。解説から引用すると、
武田麟太郎の『日本三文オペラ』は、東京の浅草公園裏の安アパートにたむろする下積みの庶民たちの、哀れにもかなしい、倒錯した生活図絵を、これこそまさしく社会の底辺にうごめく雑草のごとき民衆の生きざまにほかならぬとして、戯画的に描きだしたもので、そこには武田麟太郎の気質として根深く存在していた一種の陋巷(ろうこう)趣味や、もったいぶった道徳をふりまわす支配階級や上層階級にたいする抜きがたい不信と反逆の気骨と同時に、プロレタリア文学退潮期における一種の挫折感とか無力感のようなものも感じとられる。
(前掲書340頁)
とのこと。
評者は、
武田麟太郎の作品よりも自分の作品の方が、本当はずっと「三文オペラ」に近いのだという自負も、あるいははたらいていたかも知れない。(同340頁)
と開高健の心中を推し量っているが、小松左京も開高健に対して同じようなライバル心を抱いたのではないかと憶測する次第。もちろん、開高健も小松左京もこの世の人ではなくなった今となっては真相は藪の中。