kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

今月読んだ「ちくま文庫」の3冊

今月読んだ文庫本。ちくま文庫リバイバル3連発。



1969年(昭和44年)に立風書房から刊行され、1986年に集英社文庫に収録された、13人の小説家による13編を集めた恐怖小説のアンソロジー
昔からの筒井康隆の読者なので、巻末の「解説・編輯後記」に収められた筒井の文章には見覚えがあった。おそらく何かの文庫本に収録されていたものと思われるが、読んだのは相当昔であり、幸いにもその内容はすっかり忘れていた(笑)。
筒井康隆のほか、星新一の読者でもある私は、両氏の作品である「さまよう犬」(星新一)と「母子像」(筒井康隆)の2編は以前に読んだことがあったが、他の11編はすべて初めて読んだ。その中から、小松左京の「くだんのはは」について触れる。

いわゆる「SF御三家」が書いた本のうち、筒井康隆はおよそ8割ほど、星新一も半分以上は読んだことがあるはずだが、小松左京は有名な長編「日本沈没」を含めて全くといって読んだことがなかった。
「くだんのはは」は小松作品としては有名な部類らしいが、タイトルさえ知らなかった。
舞台は昭和20年の芦屋。本文から少し引用する。

 芦屋のほんとうの大邸宅街は、阪急や国鉄の沿線よりも、川沿いにもっと浜に向って下った、阪神電車芦屋駅附近にある。山の手の方は新興階級のもので、由緒の古い大阪の実業家の邸宅は、このあたりと、西宮の香枦園、夙川界隈に多かった。ほとんどの家が石垣をめぐらした上に立っており、塀は高くて忍び返しがつき、外からは深い植えこみの向うに二階の屋根をうかがえるにすぎない。

小松左京「くだんのはは」より。筒井康隆編恐怖小説集『異形の白昼』(ちくま文庫)34頁)

そうだったのか。私は芦屋の高級住宅地といえば、六麓荘その他の、阪急などが開発した山の手のそれをイメージしていたが、それはどうやら戦後に阪急のブランド力などによって作られたイメージであって、かつては違ったらしい*1

本編は、そんな阪神芦屋駅付近の大邸宅を舞台とした恐怖譚。中学3年生の主人公の少年は芦屋の家が焼き出され、その大邸宅に預けられることになったが、時々、母屋の二階から女の子の泣き声が聞こえてきた……

この小説には、巻末に書かれた、

本書のなかには、ハンセン病などの疾病また他の精神的身体的障害に関して、今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句・表現が散見されますが、作品の時代的背景と歴史的価値にかんがみ、そのままとしました。

という注釈に該当する表現があるが、それはそれとして、全13編の中でも印象的な一編である。

編者の筒井康隆は、この本が編まれた1969年において現代の第一線の作家による作品を集めたとのことだが、さすがに44年も経つと古色蒼然との印象は否めない。前記小松左京の「くだんのはは」の他、戦時中のことに言及した作品が他にもあるし、描かれているサラリーマンの像が牧歌的であって、非正規雇用ブラック企業が連想される現代の過酷な労働環境とは全く違ったりもする。そのためかえって面白く読めた。

続いて2冊目。



オーウェルの「動物農場」は、昨年9月に川端康雄訳の岩波文庫で、28年ぶりに再読したばかりだったが、併録の開高健オーウェル論3編を目当てに買った。
本書は、1984年に文庫と同じ出版元の筑摩書房から出て、長く絶版になっていたものを、2編の評論を省略した形で29年ぶりに文庫化したもの。「動物農場」の訳は、開高健の訳だからといってとりたてて変わったものでもなく、ごくオーソドックスな翻訳だった。しかし、併録された開高健オーウェル論は面白かった。その3編目「権力と作家」に思いがけず小松左京の名前が出てくるので、まずこの部分を紹介する。

(前略)『カタロニア讃歌』やこの著作集四巻(平凡社から1970年に刊行=引用者註)が出版されるようになってからオーウェルは日本でもいくらか読まれるようになりましたが、文壇や論壇で論じられることはほとんどありません。私が接触した範囲では武田泰淳丸谷才一小松左京丸山真男鶴見俊輔氏等ぐらいでした。この人々は、“オーウェル”といったとたんに鋭い反応を起こし、そして深い思慮のある理解を示されました。丸山真男氏と鶴見俊輔氏は別々の場所でしたが、たしか『鯨の腹のなかで』というエッセイ集のある部分を、ここが大事なんだといって指摘され、それが二人ともピタリと一致していたので、思わず愕然としたことを、よく覚えています。

開高健「権力と作家」;『動物農場 付「G.オーウェルをめぐって」開高健』(ちくま文庫)251-252頁)

1984年当時あまり日本で論じられることの多くなかったというオーウェルだが、「一九八四年」ともども「動物農場」は反共的な小説とされることが多かった。開高健はこの俗論を批判する。以下本書より引用する。

(前略)左翼、右翼を問わず、いっさいの革命の生理をえぐった『動物農場』という寓話は透明さ、簡潔、洞察と暗示の正確さで、彼の初期のエッセイ『象を撃つ』のみごとさに迫る逸品であるが、これはあまりの完璧を唯一の欠点とする傑作であるにもかかわらず、文壇、論壇、かつてどこでも論じられたことがない。

(中略)

 楽しんだあとで批評にふけり、言葉の自動回転のためにとんだ結論を導きだしてしまって、せっかくの味を壊してしまうということがあるが、この作品もよく誤読、誤評されているようである。動物が人間にたいして叛乱を試みるときの哲学とスローガンが似ているために、レーニンスターリントロツキートハチェフスキーの像をそれぞれの動物に読んでしまうわけである。それではこの作品がただのアテコスリや政治漫画にすぎないこととなる。そういう読みかたをすれば、ちょっとスローガンを入れかえてみれば、おなじ動物たちにヒトラーやレームやロンメルを読みとることもできるのだが、気がつかない。孫文蒋介石だって読みとれるのである。これは左右を問わず、あらゆる種類の革命が権力奪取後にたどる変質の過程についての寓話で、寓話であるからには最大公約数なのである。宗教革命史、社会革命史、その時代のどこの国でもいいから一冊ぬきだして注意深く読んでみる。叛乱の発生、爆発、成功、平和の回復、やがてめだたないちょっとしたところから起って全体にひろがっていく変質、そしてやがて気がついてみれば事態が、かつて“敵”としたものにいかに酷似した地点にきてしまったことか。そういう歴史と登場人物たちを読んだあとでこの作品を読みなおしてみると、作者の配慮の周到さに感心させられるのである。(後略)

開高健オセアニア周遊紀行」;『動物農場 付「G.オーウェルをめぐって」開高健』(ちくま文庫)176-178頁)

そう言われてみると、古今東西左右の革命のみならず、およそ「革命」の入り口に立ったとさえいえない民主党の「政権交代」にすら「動物農場」との多くのアナロジーを見出すことができる。「やがて気がついてみれば事態が、かつて“敵”としたものにいかに酷似した地点にきてしまった」というのは、菅直人、さらには野田佳彦が、自民党と変わらない政策を打ち出したことを想起させるし(野田佳彦に至ってはその体型までこの小説を思い起こさせるw)、菅直人と激しい権力抗争を展開した小沢一郎にしたところで、2010年の民主党代表選で菅直人とほとんど違わない政策しか打ち出せず、なすすべなく敗れた。何より小沢一郎およびその一派の権力抗争のやり方はいかにも「動物農場」的である。たとえば、「動物農場」で、不都合なことを何でもかんでも「スノーボウルのせい」にする独裁者ならぬ独裁ブタ・ナポレオンの手口は、小沢取り巻きの植草一秀得意の「悪徳ペンタゴン」の論法とそっくりだ。小沢は2011年6月に菅内閣不信任案を自民党に焚き付けた時、「菅さんでなければ(総理大臣は)誰でも良い」と言い放ったらしいが、小沢にとっては「菅=スノーボウル」であり、逆に菅にとっても「小沢=スノーボウル」だったのが、2011年に民主党の信用を谷底まで突き落とした権力抗争だった。

さて、最後の3冊目は、その民主党政権に深く関わった湯浅誠の著書。



本書は、2009年11月に『岩盤を穿つ − 「活動家」湯浅誠の仕事』と題して文藝春秋から刊行された本を文庫化したもの。当時は「政権交代」の直後で、新自由主義への批判や格差縮小・貧困解消などがしきりに叫ばれ、支持を得た時代だった。

政権交代」は最初の鳩山由紀夫政権で早くもほころびを見せ始めてはいたが、決定的におかしくなったのは、2010年6月の政変で、首相の鳩山由紀夫と一緒に幹事長の小沢一郎が辞任してからだった。以後小沢一郎が「権力闘争の鬼」と化して政争を仕掛けてばかりいる一方、菅直人野田佳彦の政策は前述のように自民党のそれに近づいていった。いや、小沢とて仮に自分が総理大臣になれば菅や野田と同じような政治しかできなかったに違いないのだが、小沢は党内野党という楽な立場に立ったことにより、マニフェストを盾にとって「政争のための政争」に明け暮れたのであった。

その結果、民主党政権は大した成果を上げることなく、民主党は党を割って出た小沢一派ともども、昨年から今年にかけての二度の国政選挙で惨敗した。著者が本書の最初の文章を書いた当時と同じ安倍晋三が総理大臣に復帰し、明らかに著者の主張とは真っ向から反する労働政策、つまり生活保護の水準切り下げや日雇い派遣の再解禁、それに実施見送りが伝えられているとはいえ「解雇特区」の設定などが企図された。政権交代に近づきつつあった頃の著者の高揚感に満ちた文章は、現在読めば空しさが感じられることは否定できない。

だが、本書を書いた当時に著者が挙げる問題点は現在も全く解決されていないか、あるいは当時よりもさらに深刻化している。苦い思いをもってそのことを再確認した次第。

*1:阪神芦屋駅近辺、香櫨園、夙川といえばいずれも村上春樹ゆかりの地だが、村上春樹の作品群からこれらの地域について想起されるのは、いずれも新興住宅街のイメージである。