kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

河井元法相、買収原資は安倍政権中枢からか 4人から6700万円思わせるメモ 自宅から検察押収(中国新聞)/権力者に抗議もせず発言もしない無力ぶりが権力の横暴を招いて独裁者を容認する(オーウェル)

 2019年の参院選広島選挙区で、当時総理大臣だった安倍晋三が2007年頃に自らを批判した自民党宏池会の長老議員・溝手顕正への私怨を晴らすべく大金を投入した挙句に、その選挙で支援して狙い通り溝手候補を追い落として当選させた河井案里と夫の衆院議員にして参院選後に内閣改造法務大臣になった河井克行の両名の逮捕と議員辞職を引き起こすというとんでもない件があった。河井案里議員辞職を受けた参院選補選では自民党候補が敗れ、本選と合わせて保守王国の広島で立民が2019年改選分の2議席を独占する異例の議席配分になっている。

 河井夫妻が罪に問われたのは大規模な買収だが、その原資は1億5000万円であり、溝手顕正を含むその他の自民党候補が党から支給された1500万円の実に10倍に当たる。そんな仕打ちを受けながら安倍晋三の靴を舐め続けたのが現総理大臣の岸田文雄だ。弊ブログの過去の記事に「溝手顕正」の言葉がある記事をネット内検索してみたが、大部分の記事で「岸田は安倍の靴を舐め続けた」と書いていた。それくらい岸田の不甲斐なさの印象は強烈で、私には岸田は総理大臣というより人間としてどうかと思うくらいの軽蔑の対象ですらあるのだが、そんな岸田をたとえば最近ほとんど見に行かなくなった「リベラル」または「都会保守」のブログである『日本がアブナイ!』は支持しているとまでいえるかどうかはわからないけれどもかなり好意的に書いている。この例に象徴される「リベラル」を含む多数の有権者のダメさ加減については後述する。

 河井夫妻に支給された1億5千万円がいわゆる「安倍マネー」であって自民党中央から出ており、要するに安倍晋三や当時幹事長だった二階俊博、それに内閣官房長官だった菅義偉らが河井夫妻の大規模買収を唆して犯罪に追い込んだも同然だったことは公然の秘密だったが、先週金曜日(9/8)に中国新聞がそれを示す河井克行のメモを報じるスクープを発した。

 

news.yahoo.co.jp

 

 残念ながら検察が彼らを罪に問うことがないまま、安倍晋三は昨年7月に暗殺されてしまったが、菅義偉二階俊博は存命で、菅に至っては日本維新の会が今も頼りにする大の新自由主義政治家だ。彼らをこのまま逃げ切らせてはならない。

 本件については中国新聞のスクープ発表の直後にブログ記事にした宮武嶺さんのブログ記事と前記『日本がアブナイ!』の記事を以下にリンクする。

 

blog.goo.ne.jp

 

mewrun7.exblog.jp

 

 宮武さんの記事は岸田文雄

自分の派の古参幹部である溝手氏がこれだけ悲惨な差別待遇を受けて落選したのに、安倍首相らに全く文句を言えず尻尾を振っていた岸田文雄氏もある意味凄い。

と批判しているのに対し、『日本がアブナイ!』の記事には岸田を批判する文言が見当たらないのは残念なことだ。

 私が最近「権力(者)を批判できない人々」について考えさせられたのが『1984』や『動物農場』で有名なジョージ・オーウェル(1903-1950)が生前に遺した発言だ。

 私は先月オーウェルの『カタロニア讃歌』を1992年に出た岩波文庫版(都築忠七訳)で読み、スペイン市民戦争でトロツキストの政党だったPOUM(マルクス主義統一労働者党)*1の兵士としてファシスト軍に喉を撃ち抜かれる貫通銃創を負いながら生き延びる壮絶な経験に圧倒されるとともに、ファシスト軍と戦った共和国軍内において、当時スターリニズムを信奉していたスペイン共産党系のカタルーニャ統一社会党(PSUC)がPOUMやアナキストらを弾圧した経緯に呆れた*2。それとともに年初から日本共産党志位和夫執行部が行って批判を浴びた「分派狩り」を連想した。日本共産党宮本顕治が早い時期にソ連とも中国とも袂を分かって独自路線を進んだおかげで現在まで生き延びてはいるものの、結局はスターリニズム的体質を脱却できていないのではないかと思った。なお私は志位執行部が共産党の古参の大物2人を除名した件よりも、各地で顕在化した同党内のパワハラ問題で同党がパワハラを行った側の肩を持った方がより深刻な問題だと考えている。

 実はオーウェルの『カタロニア讃歌』について書き始めていたかなり長い文章を誤って消してしまった。この本については後日読書ブログで改めて取り上げることにしたい。しかし、同書に書かれたような経験をしたオーウェルが『動物農場』や『1984』を書いたのは必然だったことがよく理解できたので、図書館で『動物農場』のハヤカワ文庫版を借りて読んでみた。私は過去にこの本を3種類の翻訳で読んだことがあるが、これが4種類目の邦訳本であり、訳者は山形浩生だ。

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 訳者の山形浩生に対する私の評価は、肯定的な側面もあれば否定的な側面もあるというものだが、本書の解説文はその前者の例だった。その解説文で紹介されたオーウェルの思想を以下に紹介する。

 

(前略)でも本書の主張をもっと一般化して、ある種の権力の存り方すべてに対する批判をこめた作品だとの見方もできる。実はオーウェル自身がラジオドラマ化にあたり、『動物農場』の意図について、もう少し広いとらえ方を行っている。『動物農場』は、ロシア革命の戯画化として書かれてはいる。でもそれはもっと広く、「無意識のうちに権力に飢えた人々が主導する、暴力的な陰謀革命」は結局はトップの首のすげかえにしか終わらないことを示したいのだ、というのがオーウェルの発言だった。今世紀に入って起きた各国での政治体制転回で、この批判を十分にのがれられているものは、ほとんどないように思える。

 

ジョージ・オーウェル動物農場』(ハヤカワ文庫, 2017)202頁=訳者・山形浩生氏の解説より)

 

 この『動物農場』を読んで、多くの人はそれが高圧的な独裁者(ブタ)たちに対する批判であり、動物たちはそれに翻弄されるだけのかわいそうな存在だと思っている。でも実は必ずしもそれだけではないのだ。オーウェルは、そのラジオドラマ化に際してのインタビューでこう発言している。

「このお話の教訓は、革命から大きな改善を実現するのは、大衆が目を開いて、指導者が仕事を終えたらそいつらをきちんと始末する方法を理解している場合だけだ、というものです」。

 そしてそれに続いてオーウェルは、本書の転回点がブタによるリンゴとミルクの独占なのだ、と語る。それを強調するべく、かれはラジオ脚本において、ブタたちの独占に戸惑いつつも、文句も言わず何もしようとしない動物たちの姿を加筆しようとしたことはさっき述べた。不正をきちんと糾弾しないことで、話は下り坂に向かい始めるのだ。

 つまりここで批判されているのは、独裁者や支配階層たちだけではない。不当な仕打ちを受けてもそれに甘んじる動物たちのほうでもある。(中略)そうした動物たちの弱腰、抗議もせる発言しようとしない無力ぶりこそが、権力の横暴を招き、スターリンをはじめ独裁者を――帝国主義の下だろうと社会主義の下だろうと――容認してしまうことなのだ。

 そう見た場合、この『動物農場』は一般に思われているのとは少し違う様相を見せることだろう。むしろある種の人々の態度と、それがもたらす権力構造全般についての批判でもある。

 だからこそ、「序文案」では進歩的知識人たちの自主検閲に対する批判が執拗に行われていたわけだ。オーウェルから見れば、かれらはソ連が明らかに社会主義の理念を歪曲するような真似をしているのに、それをきちんと批判するだけの意欲もない。オーウェルから見れば、かれらは、『動物農場』の無力な動物たちと大差ないか、それ以下の存在だ。かれらは本来であれば、言論によってブタたちの独裁を阻止すべき立場にあるのに、それを怠っているのだ。そしてその状況は、オーウェルが他界して半世紀以上たった今でも、社会主義支持/不支持に限らないあらゆる場面で続いている。

 

ジョージ・オーウェル動物農場』(ハヤカワ文庫, 2017)203-205頁=訳者・山形浩生氏の解説より)

 

 以上の引用文には、本当にその通りだと強く共感した。

 先に日本共産党の例を挙げたが、同じことは河井夫妻の買収事件に典型的に見られる安倍政権による権力を批判できなかった保守派や、泉健太が維新にすり寄った時には維新を批判できず、今になって躍起になって維新を批判している泉の支持者または信者や、元号を党名に関する政党の独裁指導者を信奉するばかりで一切批判できない信者または支持者などにも当てはまるし、今つけっ放しのテレビががなり立てている芸能プロダクションの件に関するファンまたは信者のあり方にももののみごとに当てはまる。

 たとえば泉健太の支持者たちは、自らが支持するリーダーに諫言する絶好の機会を逃した。彼らが今になって維新を叩いて泉を擁護しても、彼らの主張は私の心には一切響かない。彼らはなぜあのようなまたとない絶好の好機を逸したのだろうか。それができていたら彼らに対する私の評価も現在とは違ったと思うのだが、そうはならなかった。彼らのためにも残念でならない。

*1:オーウェル自身はPOUMに属したのはいきがかり上のことで、自らの心情としてはアナキズムに一番親和的だったという意味のことを書いている。

*2:しかしヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』(1952)はオーウェルとは別の立場、つまりPSUC寄りの立場から書かれているとの情報を得た。当該作品は未読なので、いずれ読まなければならないと思った。