kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

元朝日新聞取締役・現帝塚山学院大教授の「報道貴族」清田治史の責任

昨日(9/6)書いた 「慰安婦問題・池上彰・朝日新聞」騒動に思うこと(超長文) - kojitakenの日記 は、脱線の部分も多々あるが、それも含めて当該の問題に関する私の意見の総まとめであって、さらに「きまぐれな日々」などで続けて取り上げようとは思わない(昨日の記事を書くのに相当消耗してしまった)。

ただ、この件に関して、故吉田清治氏の「証言」が虚偽だったことについては、私が知る限り今まで誰も反論していない。慰安婦問題全体から見れば比重の小さい問題であるのだが、なぜそれが訂正されずにきたかについては、誤報の張本人が誰であったかどうかを含めて明らかにされるべきであるのは当然であろう。

昨日、コメント欄でid:kppressさんから、元朝日新聞記者の長岡昇さんと仰る方が書いたブログ記事の紹介があった。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20140906/1409984945#c1410005341

kppress 2014/09/06 21:09
元朝日新聞記者の証言「慰安婦報道、一番の責任者は誰か」
http://www.johoyatai.com/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=1136

そこで、リンク先の記事を読んだ。以下引用する。

慰安婦報道、一番の責任者は誰か

 古巣の朝日新聞慰安婦報道については「もう書くまい」と思っていました。虚報と誤報の数のすさまじさ、お粗末さにげんなりしてしまうからです。書くことで、今も取材の一線で頑張っている後輩の記者たちの力になれるのなら書く意味もありますが、それもないだろうと考えていました。

 ただ、それにしても、過ちを認めるのになぜ32年もかかってしまったのかという疑問は残りました。なぜお詫びをしないのかも不思議でした。そして、それを調べていくうちに、一連の報道で一番責任を負うべき人間が責任逃れに終始し、今も逃げようとしていることを知りました。それが自分の身近にいた人間だと知った時の激しい脱力感――外報部時代の直属の上司で、その後、朝日新聞の取締役(西部本社代表)になった清田治史氏だったのです。

 一連の慰安婦報道で、もっともひどいのは「私が朝鮮半島から慰安婦を強制連行した」という吉田清治(せいじ)の証言を扱った記事です。1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。

 その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。だとしたら、彼こそ、いわゆる従軍慰安婦報道の口火を切り、その後の報道のレールを敷いた一番の責任者と言うべきでしょう。

 この頃の記事そのものに、すでに多くの疑問を抱かせる内容が含まれています。勤労動員だった女子挺身隊と慰安婦との混同、軍人でもないのに軍法会議にかけられたという不合理、経歴のあやしさなどなど。講演を聞いてすぐに書いた第一報の段階ではともかく、1年後に「ひと」欄を書くまでには、裏付け取材をする時間は十分にあったはずです。が、朝日新聞の虚報がお墨付きを与えた形になり、吉田清治はその後、講演行脚と著書の販売に精を出しました。そして、清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による「元慰安婦の強制連行証言」報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです。

 この頃には歴史的な掘り起こしもまだ十分に進んでおらず、自力で裏付け取材をするのが難しい面もあったのかもしれません。けれども、韓国紙には「吉田証言を裏付ける人は見つからない」という記事が出ていました。現代史の研究者、秦郁彦・日大教授も済州島に検証に赴き、吉田証言に疑問を呈していました。証言を疑い、その裏付けを試みるきっかけは与えられていたのです。きちんと取材すれば、「吉田清治はでたらめな話を並べたてるペテン師だ」と見抜くのは、それほど難しい仕事ではなかったはずです。

 なのに、なぜそれが行われなかったのか。清田記者は「大阪社会部のエース」として遇され、その後、東京本社の外報部記者、マニラ支局長、外報部次長、ソウル支局長、外報部長、東京本社編集局次長と順調に出世の階段を上っていきました。1997年、慰安婦報道への批判の高まりを受けて、朝日新聞が1回目の検証に乗り出したその時、彼は外報部長として「過ちを率直に認めて謝罪する道」を自ら閉ざした、と今にして思うのです。

 悲しいことに、社内事情に疎い私は、外報部次長として彼の下で働きながらこうしたことに全く気付きませんでした。当時、社内には「従軍慰安婦問題は大阪社会部と外報部の朝鮮半島担当の問題」と、距離を置くような雰囲気がありました。そうしたことも、この時に十分な検証ができなかった理由の一つかもしれません。彼を高く評価し、引き立ててきた幹部たちが彼を守るために動いたこともあったでしょう。

 東京本社編集局次長の後、彼は総合研究本部長、事業本部長と地歩を固め、ついには西部本社代表(取締役)にまで上り詰めました。慰安婦をめぐる虚報・誤報の一番の責任者が取締役会に名を連ねるグロテスクさ。歴代の朝日新聞社長、重役たちの責任もまた重いと言わなければなりません。こうした経緯を知りつつ、今回、慰安婦報道の検証に踏み切った木村伊量社長の決断は、その意味では評価されてしかるべきです。

 清田氏は2010年に朝日新聞を去り、九州朝日放送監査役を経て、現在は大阪の帝塚山(てづかやま)学院大学で人間科学部の教授をしています。専門は「ジャーナリズム論」と「文章表現」です。振り返って、一連の慰安婦報道をどう総括しているのか。朝日新聞の苦境をどう受けとめているのか。肉声を聞こうと電話しましたが、不在でした。

 「戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのではないでしょうか」。彼は、吉田清治の言葉をそのまま引用して「ひと」欄の記事の結びとしました。ペテン師の言葉とはいえ、重い言葉です。そして、それは「報道の責任を明確にしない新聞は、再び同じ過ちを繰り返す」という言葉となって返ってくるのです。今からでも遅くはない。過ちは過ちとして率直に認め、自らの責任を果たすべきではないか。
(2014年09月06日 11:49)

赤字ボールドの部分だが、1997年当時は橋本龍太郎を首相にいただく自社さ政権だった。橋本政権は、新自由主義的経済政策をとって失敗し、それが1998年の参院選における自民党惨敗と「自社さ政権」自体の終焉につながったのだが、外交・安全保障政策に関しては、現在の安倍政権と比較してはもちろん、橋本政権のあとごく短い自民党単独の政権運営(小渕政権)を経て現れた自自連立政権、自自公連立政権(いずれも同じ小渕政権)と比較しても穏やかなものだった。自自及び自自公政権においては、小沢一郎の発言力が増したことによって小渕政権が次々と「アブナイ」法案を成立されていったことは(「小沢信者」たちは知らないか、知っていても知らない振りをしているかのどちらかだろうが)よく知られている。

そういう頃に清田治史が書いた記事の誤りをきちんと訂正しておけば、朝日新聞社は現在のような事態は招かなかっただろう。だが、記事によると「彼を高く評価し、引き立ててきた幹部たちが彼を守るために動いた」こともあって、記事の訂正には至らなかったとのことだ。

今回の騒動に関して、右翼週刊誌の記事を立ち読みしていると、朝日新聞の政治部、たとえば前主筆若宮啓文氏のような人は、当時から記事の訂正を要求していたが、社会部閥が受け入れなかったなどと書かれていた。どの新聞社でも政治部と社会部の対立は激しいものであって、読売新聞社ナベツネ渡邉恒雄)の出世を長年阻んできたのも社会部だったし、後年ナベツネが社会部(特に黒田清率いる大阪社会部)を徹底的に弾圧したことは有名だ。

ここに書かれている清田治史の名前は私は知らなかった。誰しも思うだろうが、この名前を目にした印象は、「吉田清治とよく似ているな」ということだ。なにしろ4文字中3文字までもが同じである。しかも「治史」とは何と読むのだろうか。まさか「おさむし」ではあるまいし(それでは手塚治虫になってしまう)、と思って調べてみると、「はるひと」と読むらしい。右翼の間ではある程度知られていたようではあるが、それでもさほどメジャーではなく、Google検索をかけると、筆頭ページにはネトウヨのブログは表示されず、2頁目か3頁目で下記ブログ記事を見つけた。

あとは、清田の著書のサイトとか、帝塚山学院大のサイトとか、「アジア女性基金・日韓学生フォーラム」のサイトなどが見つかるが、そんな中に朝日新聞社で起きたという取材費詐取について立てられた「2ちゃんねる」のスレッドが見つかった。2005年に週刊文春に書き立てられたものらしい。

http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1115040336/

論座】取材費詐取の薬師寺克行編集長【朝日】
 
1 :文責・名無しさん:2005/05/02(月) 22:25:36 id:XuGri3mW
  朝日新聞がモミ消した『論座』編集長・事業本部長「取材費詐欺事件」
  
  週刊文春 2005年5月5日・12日号
  ttp://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/
  
  「論座」編集長のY、
  元ソウル支局勤務・韓国のスペシャリストで今、文化事業担当してるKが、
  国税の査察の結果、領収書を偽造したり二重請求するなどして、
  会社の金数十万〜数百万を騙し取ってたことが発覚したが、
  朝日新聞社が長らくそのことを隠蔽して何ら処罰せず、
  当人らはそのまま出世してるらしい。
  両人とも、週刊文春に直撃取材され、口を濁して逃げまくっていた。
  
  なおYというのは今「論座」の編集長をしてる薬師寺克行氏である。
  横領犯がオピニオン誌の編集長とは片腹痛し。
    
  薬師寺克行(やくしじ・かつゆき)
  55年岡山県生まれ。東大文学部卒。79年から朝日新聞記者。政治部で、首相官邸自民党、外務省などを担当。
  01年6月から論説委員。05年1月から「論座」編集長。
  02年には米国・ワシントンのシンクタンク、スティムソン・センター客員研究員。
  著書に「外務省−外交力強化への道−」(岩波新書)など。
  
  『外務省 ― 外交力強化への道 ―』 薬師寺克行著 (岩波新書
  http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0308/sin_k130.html
  
3 :文責・名無しさん:2005/05/03(火) 08:24:52 id:rfnLFmFD
  K=清田治史

まず最初に連想したのは、例の研究不正事件を引き起こした故笹井芳樹小保方晴子の「出張費」の問題であった。

それから薬師寺克之なら私も知っており、この2ちゃんねるのスレッドも、過去に検索語「薬師寺克之」でネット検索をかけた時に見たことがあった。薬師寺は、2007年にテレビで「改憲派」だと公言していた元朝日新聞記者であり、『論座』編集長時代に五百籏頭真、伊藤元重両氏とともに政治家にインタビューした「90年代の証言」というシリーズの本を出している。そのうち小沢一郎菅直人にインタビューした2冊は私も購入し、主に民主党政権時代、小沢や菅の主張を紹介するのに用いてきた。『論座』は発行部数が低迷したあげく廃刊になったが、その後なぜか薬師寺克之は政治部長に出世した。現在は東洋大学社会学部の教授を務めている。

清田治史は知らなかったが、朝日新聞社の取締役とは、薬師寺克之を上回る出世ぶりではないか。そして薬師寺同様、大学教授様の地位におさまっているというわけだ。清田治史(や薬師寺克之)を形容するのに、「労働貴族」ならぬ「報道貴族」という言葉を思いついた。

この事例から思うのは、いかに「政治的に正しい」主張であっても、嘘や捏造はもってのほかであり、それが虚偽である事実が確定した時のダメージは非常に大きいということだ。「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」という、ナポレオン・ボナパルトが言ったらしい言葉があるが、清田治史は「無能な味方」というより、「筋の通らない味方」というべきであろう。この手の輩こそ、批判するべきまさにそのタイミングにおいて、敵を糾弾する以上の熱心さを持って批判しなければならなかった。そのタイミングを逸した今になって「筋の通らない味方」を批判したところで、敵による批判の奔流に呑み込まれるだけだ。それでも何も言わないわけにはいかないから、ここに清田治史を強く非難する次第である。ろくでもない奴に限って出世するというのは、いかなる時代にあっても、またいかなる組織にあっても変わらないらしい。

この件に関連して思うのは、例によって「『脱原発』『反原発』なら何でもあり」という一部「脱原発(反原発)派」のあり方である。たとえば「なんとかの独り言」のブログ主である九州の医者のごとき(他にもっと大物もいるだろうが、とりあえず思いついたのがこの男だったので書いておく)「筋の通らない味方」を批判できない「脱原発(反原発)派」は、今後必ずや「脱原発運動」に害をなすに違いない。

[PS]
清田治史の事例からもう一つ思い出したのは、文革を礼賛した記事を書く一方で中国で起きた事実を報じなかった朝日新聞の秋岡家栄記者の後ろ盾に、時の朝日新聞社長・広岡知男をはじめとする朝日新聞の経営陣がいた件だったが、文革は今ではそれ自体にネガティブな評価が確定しているのに対し、「慰安婦問題はなかった」という右翼の主張には正当性が一切ないことを考えると、引き合いに出すのは不適当であろう。