kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

お人好し過ぎる想田和弘の思想を批判する

想田和弘池田信夫(ノビー)が何やらやり合っているらしい。ノビーが事実無根の言いがかりをつけたらしいが、ノビーなど論外だし最近はノビーの「信者」の数も激減しているようだからうっちゃっておく*1

ここで取り上げたいのは想田和弘の「成長観」である。これには異を唱えないわけにはいかない。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/372858974229778432

想田和弘
@KazuhiroSoda

反発のほとんどは、経済成長がなければ貧困層が救われない的な論理なんだけど、経済成長(=経済規模を大きくすること)で貧困層が救われるなら、GDP世界一のアメリカで貧困問題は最も少ないはず。しかし現実には米国では格差が凄まじい。貧困は分配の問題なのであって、経済規模の問題ではない。

16:11 - 2013年8月28日


まず、「経済成長がなければ貧困層が救われない」という命題から「経済成長(=経済規模を大きくすること)で貧困層が救われる」を導くことはできない。「逆は必ずしも真ならず」(私は中学校1年生の時に習った)の典型例である。「経済成長がなければ貧困層が救われない」という命題から導かれるのは、その対偶「貧困層が救われるなら経済成長がある」ことである。そしてそれは正しいと私は思う。

ピケティもクルーグマンも経済政策の必要性を力説している、などと書くとあまりに権威主義に過ぎるから私見を書くと、人間というのは強欲なものだから、たとえば経済が縮小していく時に富裕層が取り分を易々と手放すはずはない。取り分を手放したくないことにかけては、貧困層は富裕層よりはるかに切実で、生死にかかわる問題なのだが、政治権力に与える影響力は残念ながら富裕層は強く、貧困層は弱い。特に今の自民党の連中(民主党や維新の党などにもよく見られる)は、何かというとすぐに「頑張った者が報われる社会」という決まり文句を持ち出して、富裕層に安心感を与える。それに対して、経済が拡大していく時に、その取り分をより貧困層に多くする政策なら、経済縮小時に富裕層から多く取り上げる政策よりはまだしもやりやすい。それは単なる比較の問題に過ぎず、アメリカや、自民党民主党右派・維新の党などの支持者が多い日本では、経済成長をしても格差が拡大する可能性が高い。とはいえ、以上述べたような理由によって、アメリカの格差がすさまじいことをもって、「経済成長がなければ貧困層が救われない」という命題を否定することはできないのである。

以上述べた理由によって、想田和弘の下記のつぶやきは意味をなさない。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/372859963900977154

想田和弘
@KazuhiroSoda

つまり、いくら経済規模を大きくしても、富の配分が不公平なら格差はますます広がるってこと。逆に経済規模が小さくても、富の配分が公平なら格差は縮まり貧困はなくなる。奪い合えば足らない。分け合えばあまる。そんなの当たり前だと思うんだが。

16:15 - 2013年8月28日


言っていることはその通りだが、経済規模が縮小していく時に富の配分を公平にすることは、富裕層(というより人間)の強欲さと、富裕層の政治権力に対する影響力の強さを考えると実現不可能なのである。

https://twitter.com/KazuhiroSoda/status/372860901105618944

想田和弘
@KazuhiroSoda

お金の総量が増えれば、貧しい人や自分にもおこぼれが回ってくるだろうという発想は、「金持ちをもっと金持ちにすれば貧困層もそのおこぼれにあずかって潤う」という、いわゆるトリクルダウン理論とも相似形。でも、そんなの嘘だって既に証明されてるよね。

16:19 - 2013年8月28日


「お金の総量を増やす」とか、(想田和弘は言っていないが)「財政支出を拡大する」ことと「金持ちをもっと金持ちにする」こととは全然違う。後者は単なる富裕層への傾斜配分であって、それを信奉するイデオロギーが浸透しているアメリカや日本では、「トリクルダウン理論」などという論外の理屈をほざいている(たとえば甘利明など)だけの話である。

以上、想田和弘のつぶやきを見ていくと、「リベラル」というのは「性善説」を信奉する人たちなのだなあということ。だって、金持ちの善意をあてにしなければ、想田和弘のような考え方は出てこないからだ。想田和弘が革命を想定しているのなら話は別だが。

一方、私は昔から徹頭徹尾「性悪説」に物事を考えている。id:spirit7878なる人間は、自分は性悪説に立ち、私は性善説に立つなどと誤解しているようだが、性悪説に立っているのは私の方である。実は私は「左翼」ではなく「中道」あるいはせいぜい「中道左派」であると自己規定しており、「トリクルダウン理論」に代表される「右」も、想田和弘の思想に「左」が代表されるかどうかは知らないが(むしろ想田和弘は括弧付きの「リベラル」の代表であろう)、プロレタリア独裁なら万事うまくいくと考える「左」も、ともに性善説に根ざしているところに問題があると若い頃から考えていたのである。そんな私から見ると、「安倍談話」に安倍晋三の善意を見ようとするid:spirit7878の方が、よほど「性善説」に立脚した物事のとらえ方をしていると思う。で、現在の私はネットで時に「極左」などと陰口を叩かれるが、世の中が極右化して昔の「真ん中」が相対的に「左」になっただけだと自分では思っているのである。

*1:かつてはそうはいかなかった。ノビーの悪口を書くと、「親衛隊」のすさまじい反撃を食らった時代があった。私は一時期、ノビーに批判者として認識されたこともある。もう忘れられているだろうとは思うが。今は昔である。