kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

角岡伸彦『ふしぎな部落問題』(ちくま新書)を読む

昨日(8/25)読み終えた本。



著者の角岡伸彦は、昨年初めに大センセーションを呼んだ『百田尚樹『殉愛』の真実』(宝島)を構成した主力ライターの1人で、『ゆめいらんかね - やしきたかじん伝』(小学館)も書いている。その著者は兵庫・加古川市被差別部落の出身。

この本の白眉は、第2章「メディアと出自―『週刊朝日』騒動から見えてきたもの」だ。

言うまでもなく、2012年に『週刊朝日』と佐野眞一が引き起こした「ハシシタ」騒動を批判したものだが、著者は『週刊朝日』や佐野眞一のみならず、彼らに先立って橋下徹の「出自」を暴き立てたポスト・宝島・文春・新潮や、それらの媒体で活躍した一ノ宮美成、森功上原善広らのライターをも徹底的に批判している。後述のように、実は『週刊朝日』や佐野眞一は、彼らが敷いたレールに安易に乗っかったに過ぎなかった。しかし、媒体が橋下徹の大嫌いな朝日新聞の系列出版社が出している週刊誌であり、ライターがこの騒動以前には「ノンフィクションの『巨人』」(嫌な言い方だがw)として世の尊敬を集めていた佐野眞一だったことに目をつけた橋下がこれを徹底的に批判し、括弧の有無を問わないリベラルを含めた人たちもそれに同調したという経緯があった。

週刊朝日』と佐野眞一が叩かれたあと、彼らに先行して同種の記事を発表をしていたライター(例えば森功上原善広)もその流れに乗って週朝と佐野を批判し、月刊誌などがその場を提供したが、私はそれに何ともいえない嫌な違和感を感じていた。なぜなら、彼らが書いてきたことが週刊朝日佐野眞一とどう違うのか、いくら彼らがもっともらしく批判しても、私には理解できなかったからだ。

著者の角岡伸彦による先行メディアやライターの批判は、その溜飲を下げてくれるものだった。ああ、この人の書く週刊朝日佐野眞一批判にならうなずける、と得心が行った。著者は、彼ら及び彼らの記事を掲載した先行の雑誌がやってきたことも週刊朝日佐野眞一がやったことと何ら変わらないこと、週刊朝日と佐野はむしろ彼らの仕事を安易に後追いしたに過ぎなかったことを明快に指摘している。著者が特に辛辣をきわめるのは、著者と同じく被差別部落の出身であることを公表しているライター・上原善広に対する批判だ。

また、何よりもうならされたのは、週刊朝日佐野眞一の「差別記事」をとっちめた橋下徹その人の持つ差別意識への切り込みだった。著者の論考の一部はかつて『週刊金曜日』に掲載されたことがあるらしい。以下本書から引用する。

 橋下氏は『週刊朝日』の佐野氏の批判に関して、新聞記者に「政策論争はせずに、僕のルーツを暴き出すことが目的とはっきり明言している。血脈主義ないしは身分制に通じる本当に恐ろしい考えだ」と語っている(『朝日新聞』二〇一二年一〇月一八日)。また、大阪市長選を前にした週刊誌の出自報道に対し、ツイッターで次のようにつぶやいた。

〈実父とその弟(伯父=ママ)がやんちゃくれで実父が最後には自殺したのは事実。僕が小学校二年生の時、物心ついたころには実父は家にいなかったのでほとんど記憶なし〉*1

 父親の出自については、次のように反撃した。

〈妹も初めてこの事実を知った。妹の夫、その親族も初めて知った。妻やその親族も初めて知った。子供に申し訳ない。妹夫妻、妻、義理の両親親族、皆に迷惑をかけた。メディアによる権力チェックはここまで許されるのか〉*2

〈子供は親を選べない。どのような親であろうと、自分の出自がどうであろうと人はそれを乗り越えていかざるを得ない。僕の子供も、不幸極まりない。中学の子供二人には、先日話した。子供は、関係ないやん!と言ってくれたが、その方が辛い。文句を言ってくれた方が楽だった〉*3

 メディアには攻撃的だが、家族や親戚に対しては殊勝な言葉が並ぶ。

 だが、私は思う。なぜ、家族や親戚に迷惑をかけたと言う必要があるのだろうか。子供に謝る必要があるのだろうか。なぜ、子供が〈不幸極まりない〉のか。これでは部落にルーツを持つ者は不幸と言っているようなものである。橋下氏が尋常ではないほど、部落にマイナスイメージを持っていたことを、図らずも露呈している。

 橋下氏のメディアへの怒りは収まらなかった。

〈今回の報道で俺のことをどう言おうが構わんが、お前らの論法でいけば、俺の子供にまでその血脈は流れるという論法だ。これは許さん。今の日本のルールの中で、この主張だけは許さん。バカ文春、バカ新潮、反論してこい〉*4

 橋下氏の過剰な反応は、部落民でないと思っていた者が、「実は……」と告げられた時に見せる激しい動揺である。メディアに対し〈お前らの論法〉と非難しているが、これはメディアだけではなく、世間の見方でもある。

 また、自分が部落民と見られるのはまだしも、子どもにはそうはさせないと憤っている。私は『週刊金曜日』(二〇一二年一一月一六日号、金曜日)に、次のように書いた。

部落民、部落出身者とは、出生地や居住地、あるいは血縁において部落と関係ある者をいう。例えば片方の親が部落出身者であれば、子供もそう見られることがある。橋下氏は、そのように血脈をもって判断すること自体がおかしいと主張している。いつまで部落出身者を後世に残すのかという問題意識は、わからないでもない。

 しかし私は橋下氏に問いたい。では、日本で最も血脈主義が貫徹されている天皇制はどうなんですか? と。私が言いたいのは、日本社会では、よくも悪くも血脈が大きな意味を持ち、だからこそ天皇制と部落差別とが残ったのではないか、ということである。

 血脈報道における橋下氏の過激とも言える反応から垣間見えるのは、子供が部落民であってほしくないという切なる願い。私に言わせれば“部落(民)忌避”である。橋下氏の子供が部落差別に遭う可能性が、ないとは言えない。彼ほどの有名人でないケースも同じである。

 どの親も、自分の子供は差別に遭わせたくないと考えている。大事なことは、万が一、子供が差別を受けた場合、それに対して闘うという姿勢を見せることではないか。人に範を見せるべき政治家であるなら、なおさらである。それを血脈主義はおかしいと主張しても詮なきことであろう。

 いまだに部落差別があることを認識した上で、それにどう対処していくかを考える方が建設的ではないか。わが子の将来に思いをめぐらす橋下氏の親心もまた、血のつながりを重視する血脈主義につながるのだから〉

角岡伸彦『ふしぎな部落問題』(ちくま新書,2016)130-133頁)


以上、長々と引用したが、「ハシシタ」騒動から4年近く経って、ようやく納得できる関係者(週刊誌等の雑誌、佐野眞一上原善広らライター、それに橋下徹)への批判に接することができたと思った。

当ダイアリーの読者の皆さまにも是非おすすめしたい1冊だ。

[追記]

この記事で触れなかった本書の他の章への言及のある下記ブログ記事にリンクを張っておきます。下記記事には、「ハシシタ」騒動についても、やはりこの記事では触れなかった、上記佐野眞一に先立つライターが犯した事実誤認にも言及しています。


また、上記記事からリンクを張られた梶谷懐(かじたに・かい)氏(「関西の大学で中国経済論を教えて」おられるとのこと)の下記ブログ記事を読んで、私の書いた駄文(本記事)のレベルの低さに、われながら嫌になりました(苦笑)。

*1:https://twitter.com/t_ishin/status/130057883579723776=2011年10月29日のツイート。『週刊朝日』と佐野眞一の「ハシシタ」騒動の前年であり、先行メディア(おそらくは上原善広が書いた『新潮45』のルポや、その他『週刊新潮』や『週刊文春』などの記事に対する反応と思われる。以下2件のツイートも同年同月同日のもの=引用者註。

*2:https://twitter.com/t_ishin/status/130070246504677377=引用者註。

*3:https://twitter.com/t_ishin/status/130071270665621504=引用者註。

*4:https://twitter.com/t_ishin/status/131623911975686144=2011年11月1日のツイート=引用者註。