kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

大洋(横浜)とヤクルトの「裏・伝統の一戦」について

季節外れの東京の雪といえば…… - kojitakenの日記(2016年11月24日)に、1988年4月に関東地方で季節外れの大雪が降った翌日に、東京ドームのこけら落としの開幕戦でヤクルトが読売に快勝した思い出話を書いた。その記事へのコメント。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161124/1479999534#c1480034537

id:axfxzo 2016/11/25 09:42

この試合は見たかったが見られなかった。入学式だったので…。


私も生中継は見てません。デーゲームだったので。

帰宅してテレビのチャンネルを合わせたのはテレビ東京だったかな。広島と阪神の開幕戦。北別府と仲田の先発で、広島が3対0で勝ちました。阪神が9回表の攻撃で一死満塁と完封目前の北別府を攻め込み、打者は三番、元祖「打つバース」(日本シリーズで3勝を挙げた「投げるバース」は日本ハムを退団したらしいですが)ことランディ・バース、一発出れば逆転という場面でピッチャーゴロに倒れ、北別府はホームにではなく二塁に投げて併殺をとって試合終了だったことを覚えていますが、それよりも「他球場の経過」で東京ドームのこけら落としの試合にヤクルトが勝ったことを知って狂喜した印象が強いです。

で、その試合は日テレがデーゲームの生中継をやっていたのに加え、「イレブンナイター」だったかな、ダイジェストを深夜にやっていたのでした。ヤクルトがデシンセイのホームランで先制したものの、尾花がクロマティに同点ホームランを打たれ、中畑に勝ち越し二塁打を打たれたあと、7回表に「守備の悪さに定評のある鴻野淳基が、得意の暴投」をやらかしました。これは、この記事を書く前にYouTubeの動画で確認した、プロ野球ニュースでの解説・大矢明彦の言葉です。敵失で併殺を逃れたヤクルトは、このチャンスに内野安打を連発して桑田をKO、焦った王は桑田から角にスイッチしましたが、ヤクルトは三番杉浦に代打・平田薫を送り、その平田のあわやホームランかという大二塁打で決勝点を挙げました。YouTubeプロ野球ニュースの動画を見て、「そうだったな、もうちょっとでホームランだったのに惜しかったなあ、と思った打球だった」と、28年ぶりに平田の打球を思い出して感激を新たにしました(笑)。

平田といえば、1985年9月の後楽園での読売対大洋3連戦に大洋が3連勝した時に、読売の息の根を止めるホームラン打ちませんでしたっけ(調べてみたら、読売の自力優勝を消した試合での満塁ホームランでした)。それを覚えていたので、大洋でもヤクルトでも読売戦でホームランを打ったらもっと格好良かったのに、と思ったのでした。しかもヤクルトで平田が活躍した試合ってこの開幕戦しかなかったんですよ。1997年の開幕戦で斎藤雅樹から3連発を打った元広島の小早川毅彦も似たようなパターンですが、小早川はさすがに平田よりはかなり活躍しました。

コメントの続き。

頭でっかちになってはいけません、
なんて言葉が野球雑誌に載っていたのを記憶する。これは関根さんが尾花投手に言ったことらしい。
デシンセイ、懐かしいな。愚かなメディアどもが一茂を神聖化させようとあれやこれややっていた中で、デシンセイに失礼なことをインタビューしていたが、この助っ人は大人の対応をしていたものだった。
なんで比較するのか、狂気の沙汰である。しかしこの『売らんかな』の体質は小泉の親の物真似倅へのそれと瓜二つでもある。一茂の場合は実力が絶対すぎるこの世界だから、どんなにフォローしようにもだったが政治の場合はテレビが育て上げる。
正に槍中村(菊池寛の『形』という作品。)であろう。


ああ、長嶋一茂ですか。当然ながら私は一茂を嫌ってました。1988年4月下旬の神宮の読売3連戦で、ヤクルトは緒戦で矢野が好投して1対0で完封勝ちしたものの、続く2試合を落としたのですが、その3連戦の3戦目が大敗で、長嶋一茂ガリクソンからプロ入り初ホームランを打ちました。この日のフジテレビが「一茂祭り」だなんだと浮かれていたことに激怒したものです。ヤクルトが負けて一茂が打つという、私にとっては最悪のパターンでしたから。のち1991年にヤクルトが球団記録の12連勝をした時にはその一茂がプロ野球生活唯一の覚醒期を迎えて打ちまくっていたのですが、東京ドームの読売戦で13連勝を目前にして逆転サヨナラ負けした時のアンチヒーローも、エラーをやらかした一茂でした。あのあと中日に引き離されてヤクルトは優勝争いから脱落し、後半戦で広島が一気に中日を抜き去って優勝しました。

コメントの続き。

この頃の私は複雑な心境であった。
少なくともブラウン管からは異色の監督キャラとしか見えなかった関根潤三さん…あの怖い世界で勝とうが負けようが常にニコニコなダンディな紳士…に憧れて大洋ファンになった私としては、アイディアマンでアンチ読売の権化たる近藤貞雄さん、この人もダンディーだったが、彼が勇退させられて大嫌いな赤ヘルの鉄拳指導男に代わった大洋には思想的に(笑)、違和感ありまくりだった。
以前も書いた近藤和彦さんの(何ともダークで不謹慎なものなのだが)『私はこのチームを知っている』というプロ野球ニュース発言通りの展開ともなり…そんな中の『セリーグで次に好きなチーム』の監督に関根潤三さんが、という事態であった。
古葉の後釜の須藤も読売の回し者でもあり、雑な野球ならば大洋に勝っていたであろうヤクルトの方がまだ親近感が抱けたものだった。
関根潤三さんの場合、あれがどんなにチョースケびいきであっても、それを超越するキャラがある。大洋監督時代、抗議ひとつでも(これまたブラウン管からはだが…)紳士然とした姿。指示しても基などが強打してゲッツーとなっても声も荒らげずに『ご随意に』とやる様など、それでいて実はなかなかの頑固者でもあるのはこの世界では異色過ぎ(笑)。
彼がホーナーの件でニュースステーションに呼ばれたのは意外すぎてよく覚えている。なにしろフジテレビ一色の御仁だから(笑)。
チョースケ一人のために阿呆な親会社の思惑で二度も監督に就いた人ではあったが、興行的には貢献した監督さんであったと思う。
この時期の広岡さんの野球中継も心に残っている。ヤクルト対大洋戦で『球団体質に違いが出てきている』とヤクルトを批判していたこと。
勝ち負け以前に誰を指揮官にしているかで、明らかにヤクルトはやる気がないとか。
関根からノムサンに交代した時には夜のかの局の番組で『これで優勝しますよ。三年以内に!』と断言していたことも。広岡にはリップサービスなんてもの、空気を読むなどは無縁なので『そんなにあの時々ホームランかまされる、あの野村スコープが?』と驚いたものだった。南海の優勝なんてものは、あれは死んだふり解散じゃなかった、プレーオフのおかげだし、読売にもこてんぱんに叩きのめされているくらいしか認識してない者としてはだったが(笑)。


「鉄拳指導男」といえば私にとっては憎んでも憎みきれない星野仙一を指す言葉ですが(中日も阪神も星野が監督をやっていた頃にはヤクルトに滅茶苦茶強かったんですわ、これが。その後中日戦の対戦成績は落合監督になって以降良くなりましたが(とはいえ一騎打ちになった2011年には力負けしましたが)、阪神は2003年に甲子園で3度も3タテを食ってそれまでのお得意さまから天敵へと豹変して以来ずっと苦手で、優勝した去年も負け越して、今年はやっとこさ五分でした)、axfxzoさんにとっては古葉竹識だってことですね。私は古葉といえば「スパイ野球」を思い出します。昔の広島市民球場でのスパイ疑惑は根強く語られていましたから。もっともスパイ野球で広島以上に疑惑が取り沙汰されて有名というか悪名高かったのは、大阪球場での野村南海でしたが。南海から阪神に移籍した江本孟紀が、阪神ではそんなことを何もやらないので呆れたとかそんな話がありました。もっとも阪神にものちに星野仙一の手下となった島野育夫(中日−南海−阪神)がいましたが。中日がヤクルトともども読売の槙原寛己をカモにしていたのは島野のおかげだろうと私はにらんでいます。ヤクルトが槙原のクセを熟知していたことは、FA宣言をして読売入りが決まっていた広沢克己日本シリーズ第6戦のゲスト解説で槙原がフォークボールを投げる度にそれを言い当てる形でばらしていましたが、星野が監督になってから急に槙原を打ち込むようになった中日も同様だったに違いないと思っています。ついでにいえば、槙原は世間のイメージに反して阪神をカモにしていましたが(あのバックスクリーン三連発の次の登板から、足かけ4年間で槙原は阪神に8連勝しました。阪神戦の勝率は同僚の斎藤雅樹より高かったはず)、島野が阪神のコーチをやっていた1992〜94年の間は、阪神キラーの槙原にしては阪神戦の成績がいまいちでした(星野の中日復帰に備えて島野が阪神を退団した1995年から、槙原はまた阪神をカモにするようになりました)。島野は2007年に亡くなりましたが、野村克也とも星野仙一ともかかわりのある、ダークサイドの印象の強烈なコーチでした。阪神コーチ時代の1982年8月末に横浜スタジアムで審判に暴力を働いて一度は「永久追放」になったはずなのに戻ってきたことで悪名高い人物でもあります。

しかし、古葉大洋にヤクルトが大負けした印象はあまり持っていません。むしろ、古葉監督1年目の1987年に大洋が10連勝した少しあと、8月末に横浜スタジアムで大洋に3連勝し、大洋の息の根を止めた印象の方が強いです。その緒戦を、当時横浜市民だった私はTVKで見ていましたが、確か19対10とかいうとんでもない乱戦で、2戦目が確か尾花の好投で6対2の快勝(朝日新聞に「大洋の季節 過ぎ去って」だか何だか、2行各5文字の小さな見出しが載ったのを覚えています。「大洋の季節」とは、もちろんあの極悪小説家の代表作のタイトルをもじって、夏の終わりとともに大洋の勢いも衰えた、と言ったものです)、しかし3戦目がまた10対9の大乱戦でした。1戦目と3戦目はともに大量リードから猛反撃を食った試合経過でしたが、内容の悪さはともかくこの年2度目の横浜スタジアムでの3タテで、これで大洋に対する苦手意識も払拭できるかな、と期待したものでした。この年の大洋の勝敗は、下記のサイトで確認できます。
http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/zen87nen.htm

しかし、上記サイトによると、1988年には再びヤクルトは大洋に8勝16敗2引き分けとカモにされ(それで思い出しましたが、今シーズンの最後の最後で阪神に逆転されて5位に落ちたのと同様、88年はずっと4位だったのが最後の最後に大洋に逆転されて5位に落ちたのでした)、大洋が最下位に落ちた1989年にも大洋戦勝ち越しを目前にして逆転され、12勝13敗1引き分けで負け越していたのでした。
http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/taiyakuruto.html
http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/zen88nen.htm
http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/zen89nen.htm

コメントの最後の部分。

しかし今思えば大洋もヤクルトも過渡期だったのだろう。
なぜ松園は読売ファンだったはずなのに?がアンチ読売のノムサンに交代とか、古葉だの須藤だの、おおよそ球団体質からかけ離れた者に監督やらせて、挙げ句は高木豊をはじめとした大量リストラという路線変更か。因みに高木豊選手は大輔さんともども球団随一の職人芸と感謝すらしていたが…。
変わることにはそれ相応の覚悟と創意工夫が必要という点では、万に通じるのですな。変な野球チームを組んで女学生に敗れた奴等にも言ってやりたいものである。そんなにわかでしょうもないチームにすら劣るのが現執行部だから、安倍晋三の天下は続くよ何処までも?


ヤクルトが優勝を狙う球団経営に変わった最大の要因は、ずばり当時のオーナー・松園尚巳(1922-94)の病気だったと思います。Wikipediaを見ると、松園は1988年に病に倒れたとありますが、私の記憶が正しければ、松園が倒れたのはその前年の1987年です。この年にホーナーを獲得したのは、2年連続最下位に落ちたことに業を煮やしや松園が号令をかけたからで、実際松園がホーナーに会った事実をネットで確認しましたが、その後松園が病気で倒れ、公式の場に出てこられなくなったという記事を当時週刊誌で読んだ記憶があります。病名や病状は当時から報じられた記憶がありませんし、今回ネット検索をかけてもわかりませんが、1988年にヤクルト球団社長に就任した桑原潤(1930-2003)が公然とヤクルトの優勝を狙うような人事(野村克也の監督招聘など)をした事実から、松園の病状は相当重かったに違いないと当時から私は推測していました。なぜって、桑原球団社長は読売の優勝を望む松園オーナーの気持ちを忖度する必要がなかったってことですからね。だから、桑原氏が表に立つようになってからのヤクルトには大いに期待したものです。まさか野村監督があれほどの成功を収めるとまでは予想できませんでしたが。

松園が元気だった頃には、「セ・リーグにはフロントが読売の優勝を望んでいる球団が読売以外に2つある。それは阪神とヤクルトだ。だからセ・リーグの野球は面白くないんだ」などと批判されていました。いうまでもなく、阪神は優勝マジックを「1」とした1973年に、優勝を賭けた中日戦に先発した江夏が、試合前に阪神フロントに「勝たなくても良い」と言われたという一件、ヤクルトは1978年に優勝しながら松園が「××が優勝してヤクルトが2位になるのが理想だ」(優勝の前年、1977年はまさにこの順位でした)と言ったという一件が批判されたわけです。

松園の病気がかなり重いらしいことを感づいていましたから、私は野村監督就任には驚きませんでした。おっ、いよいよヤクルトは本気を出してきたな、面白くなるかもな、と思ったものです。そして1992年にそれは現実になりました。しかし1992年にはとんでもない凶報もありました。長嶋茂雄の読売監督復帰です。これは嫌な流れになるかもな、と予感しましたが、それもまた現実になって今に至っています。

大洋監督を務めた須藤豊は、ヤクルトにとっては実にありがたい監督でした。だって、須藤のおかげでヤクルトは大洋に対する苦手意識を払拭できましたからね。もっとも野村監督・須藤監督1年目の1990年でさえ、最後の最後に大洋に負けて5位に終わった記憶がありますが、大洋戦自体は実に9年ぶりの勝ち越しでした(16勝10敗)。
http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/zen90nen.htm
http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/nenndobetuseiseki/taiyakuruto.html(再掲)

同じサイトによると、ベイスターズホエールズ)対スワローズ(アトムズ)の2015年までの通算成績は、ベイスターズホエールズ)795勝、スワローズ(アトムズ)844勝で55引き分け。今年がベイスターズの14勝11敗だったので、それを合わせるとベイスターズホエールズ)809勝、スワローズ(アトムズ)855勝で55引き分けとなります。

以下、上記のサイトより引用。

長年にわたって低迷していた両チームだけあって、互いにココに負け越したら最下位になるとばかりに互角の成績を演じてきたが、82年に遠藤が6勝1敗を挙げチームも18勝6敗と大きく勝ち越すと、遠藤は翌年からもヤクルト戦で無類の強さを発揮し、80年代は142勝105敗と圧倒した。
が、90年代に入るとヤクルトが、いつの間にか常勝チームと姿を変え、93年に4勝22敗を記録するなど完全に水を開けられ、01年に通算成績で負け越し、これでセ5球団全てに負け越すことになった。


実は、私は昔からこの「裏・伝統の一戦」の通算対戦成績を追いかけていました。

ヤクルトが横浜を(今のところ)完全に抜き去ったのは上記の通り2001年ですが、80年代に抜かされて差をつけられたあと、最初に追いついたのは1994年の開幕直後でした。この年の1,2回戦でヤクルトが横浜に連勝して対戦成績が並びました。前年に22勝4敗だったのと合わせて、一気に20ゲーム差を追いついたのです。しかし追い抜くことはできませんでした(この年はそのあと横浜戦9勝15敗)。その後、1996年に今度は追い抜いて4勝差をつけましたが、マシンガン打線大爆発の1998年に再び追い抜かれ、99年にまた追い抜いたものの2000年にまたまた逆転されるという熾烈な戦いが続きました。そしてベイスターズホエールズ)勝ち越しで前世紀を終えたわけです。現在の46勝差は、今世紀最初の2001年からの4年間でヤクルトが大きく勝ち越した貯金がものを言っています。森祇晶山下大輔が監督の頃です。

大洋・横浜のスワローズ戦最多勝は、45勝32敗の秋山登のようですが、この人の現役時代は知りません。知っている範囲では平松政次38勝34敗、遠藤一彦37勝18敗、三浦大輔34勝38敗、斉藤明雄30勝20敗などとなります。90年代の投手では、斎藤隆18勝12敗、川村丈夫14勝9敗、野村弘樹9勝16敗など。同じ投手たちの読売戦成績は、平松51勝47敗、遠藤21勝37敗、三浦13勝39敗、斉藤明31勝35敗、斎藤隆19勝17敗、川村13勝8敗、野村弘25勝17敗。また読売戦では土肥義弘11勝3敗が忘れられません。読売キラーの土肥が西武にトレードされた時、私は激怒しました。さらに同じ投手たち(土肥を除く)の阪神戦成績は、平松41勝47敗、遠藤25勝24敗、三浦46勝32敗、斉藤明30勝26敗、斎藤隆18勝15敗、川村13勝13敗、野村弘18勝18敗。これらを見ると、読売には強かったものの阪神戦を苦手とした平松は、ヤクルト戦の登板が比較的少なく勝率も弱小球団相手としてはかなり悪い一方で、遠藤は読売が苦手で、阪神戦もやっとこさ貯金1なのにヤクルトをカモにしまくったこと、三浦は読売戦が極端に苦手な一方阪神戦では平松を凌ぐ球団史上最強の阪神キラーだったこと(但し2010年以降は一転して阪神を苦手としました)、野村弘樹土肥義弘などのように、読売戦に突出して強い投手がいたことなどがわかって面白いです。私は1982年からの5年間、ヤクルトが6位、6位、5位、6位、6位だった時代を「ヤクルトの暗黒時代」と勝手に呼んでいますが(ちなみにそのあとの5年間の阪神の順位が全く同じ6位、6位、5位、6位、6位でした。1992年はその新旧の「暗黒時代球団」が優勝を争ったわけです)、その頃の最大の天敵が遠藤でした。遠藤には1984年の開幕戦で勝っていますが(横浜スタジアム)、1週間後の神宮で遠藤にリベンジされた時の取材で、遠藤は「(相手が)ヤクルトですからね」とヤクルトを見下す発言を連発していたと、スポーツ紙で読みました。当時の私はまだヤクルトファンではありませんでしたが、ひどい言われようだなあと思ったものです。この年の一番の思い出は、8月上旬に神宮で読売を3タテした時でした。当時のスポーツ紙が激怒の見出しを掲げていたので「ざまあ」と思ったものです。当時、完全な死に馬だったヤクルトが、それでなくても広島と中日に引き離されていた読売の息の根を止めたのでした。そのあたりから徐々にヤクルトに気持ちが傾いていきました。

なお、ヤクルトの主力投手たちの大洋(横浜)戦の成績を最後に上記サイトに今年の成績をプラスして記録しておきますが、昔の金田や松岡は別格ですが、現役では石川雅規、少し前に遡っても石井一久を除いて概して良くありません。

金田正一77勝54敗、松岡弘49勝33敗、尾花高夫25勝29敗、石川雅規31勝20敗、伊東昭光21勝15敗、安田猛27勝13敗、藤井秀悟11勝11敗、石井一久21勝11敗。表には出ていませんが、読売キラーで鳴らした川崎憲次郎がもっとも苦手としたのが横浜でした。確か勝率は3割ちょっとで、1勝2敗ペースをも下回っていたかと記憶します。