kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

マット・キーオ死去

 プロ野球阪神タイガース投手のマット・キーオ氏が死去した。

 この選手には強い印象が残っている。以下朝日新聞デジタルより。

 

www.asahi.com

 

阪神エースのキーオさんが死去 64歳、低迷期支える

 

 プロ野球阪神の元エースで、4シーズンで通算45勝(44敗)を挙げたマット・キーオさんが死去したと、大リーグ・アスレチックスの公式サイトが2日(日本時間3日)、伝えた。64歳だった。死因は明らかにしていない。

 アスレチックス、ヤンキースなどで大リーグ通算58勝を挙げ、1987年に来日。いきなり開幕投手の大役を務めた。同年から11、12、15勝と3年連続で2桁勝利をマークし、3年ともチーム内では最も多く勝ち星を挙げた。4年目は7勝に終わり、この年限りで退団した。

 チームは85年の日本一の後、下降線をたどっていた。キーオさんの在籍中、成績は6位、6位、5位、6位とふるわなかったが、エースとして苦しい時代を支えた。日本では野手が背負うことが多い背番号「4」で奮闘する姿がファンに印象を残した。

 

朝日新聞デジタル 2020年5月3日 16時38分)

 

出典:https://www.asahi.com/articles/ASN535G0SN53PTQP001.html

 

 キーオが1987年に開幕投手を務めた時の相手はヤクルトで、球場は阪神の本拠地である甲子園。ヤクルト先発の荒木大輔が好投し、7対1でヤクルトが勝った。やはり今年亡くなった関根潤三氏のヤクルト監督としての初戦だった*1。翌日はその前の2シーズンで阪神に1回も勝てなかった尾花高夫が好投してヤクルトが連勝した。3戦目に負けて開幕戦3タテとはならなかったが、最下位の定位置がヤクルトから阪神に交代する節目の開幕シリーズになった。その前の1982年からの5年間で、ヤクルトの順位は6位、6位、5位、6位、6位だったのだ。87年からの5年間での阪神と同じだ。

 キーオの来日初戦こそヤクルト戦だったが、まさかこの試合で打たれたからでもあるまいが、その後のヤクルト戦でのキーオの印象はあまりない。キーオといえば読売戦に必ずといって登板する投手というイメージがあった。そこで、実際の数字はどうだったかと思い、熱心な阪神ファンのサイトで記録を調べてみた。たとえば下記のURLで1987年の阪神の勝敗と責任投手、本塁打を打った阪神の選手が確認できる。

http://www.genmatsu.com/nendosiai/1987.html

 

 1987年の阪神は41勝83敗6引き分けで最下位。その2年前、日航123便墜落事故で球団社長を失った1985年に日本一になり、翌86年にも2年連続三冠王の猛打を誇ったバースを軸とする猛虎打線が猛威を振るった阪神にヤクルトは歯が立たなかったが、一転して87年にはネコ打線になってしまった。まだバースも掛布もいたにもかかわらず*2

 上記サイトの一覧表を見ると、キーオは阪神の9連敗を2度も阻止したことがわかる。一度目は5月3日の大洋戦で、二度目は10月7日の中日戦だ。キーオに負けた相手投手の木田勇と近藤真一の名前も懐かしい。ともに初年度に華々しくデビューしたもののその後が続かなかった投手だった。この年には他にも中日戦で3度、読売戦で1度チームの連敗を止めている。初年度は特に中日戦で活躍したようだ*3。にっくき星野仙一率いるドラゴンズに立ちはだかった投手だった*4

 キーオの87年のヤクルト戦は2勝2敗で、2敗したあと2勝した。2勝は8月9日と9月8日に荒木大輔に投げ勝った試合で、開幕戦の借りを返してお釣りまでつけた。しかし阪神在籍4年間のヤクルト戦通算成績は5勝6敗であって、阪神在籍時の通算成績45勝44敗と比較すると、勝ちも負けも少ない。これは5球団のうちもっとも少ない数字だ。

 キーオの登板が多かったのはやはり読売戦で、4年間で13勝12敗の成績を残した*5。これは10年前に56歳で早世した小林繁の5年間での読売戦13勝15敗を上回るといえる。小林は初年度で燃え尽きてしまったものか。

 どうやら1987年5月31日に後楽園球場で西本聖に投げ勝って完封した試合がキーオの読売戦初登板だったようだが、この試合はテレビで見ていた。この試合には読売のリリーフエースだったサンチェ*6がリードされている試合なのになぜか登板して派手に打たれ、翌日の日経新聞で名物記者の浜田昭八がキーオを絶賛してサンチェをこきおろす記事を書いたのではなかったか。

 キーオは西本聖には次の対戦で借りを返されてしまったが、この年で引退した江川卓とのただ一度の対戦には勝った。そしてキーオの読売キラーとしての本領は翌1988年に発揮される。

http://www.genmatsu.com/nendosiai/1988.html

 

 キーオは4月14日の甲子園と5月3日の東京ドームでたて続けに桑田真澄に投げ勝った。前年の初対戦では投げ負けたが、荒木大輔に対した時と同様、またも倍返ししたのだ。そしてこの年の読売戦でのキーオの成績は5勝2敗だった。中でも桑田との投げ合いが多くて4勝1敗だった。唯一の黒星は甲子園で0対1の完封負けを喫した試合だったが、次の桑田との対戦となった東京ドームの試合では逆に1対0で勝っている。その後の桑田との投げ合いは89年が1勝1敗、90年が1敗で計5勝4敗だった。桑田は当時の読売が誇った三本柱(他に斎藤雅樹槙原寛己*7)の中で、唯一阪神を苦手とした投手だったが(通算34勝35敗)、それには若い頃にキーオによく負けたことからくる苦手意識もあったかもしれない。他にデビュー戦で投手のリッチ・ゲイルに本塁打を打たれたこともあったが(笑)。

 

 あと、数年前にキーオの印象を語った元中日投手・山本昌日経新聞のコラムが印象に残っているのでネット検索をかけたら、それを記録したブログ記事が見つかった。

 

hamlineamericanlegionbaseball.org

 

 以下引用する。

 

2016.5.24の日経朝刊の山本昌本人のコラムから。

加速しながら落ちて決まったカーブに、若かった私は打席でぶったまげた。次の1球も途中まではよく似た軌道。バットを出すと、今度は顔の前を過ぎるストレートだった。私に「球のキレ」とはどういうものかを教えてくれたのは阪神マット・キーオ投手だ。

こんなところで、懐かしいキーオの名前が出てきたので嬉しくなってしまった。キーオが特別球のキレが鋭い投手だった印象はないが、セ・リーグのトップ5には入る力は確実に持っていたから、山本昌がそう感じても不思議はない。

逆に、今活躍している選手の中にも、山本昌にキレとは何かを打席で教えられた選手がいるんだろうな、間違いなく。

 

 元読売(のちDeNA監督)の中畑清も、山本昌と同じようなことを言ってキーオの「ナックルカーブ」を絶賛したばかりだったという*8。中畑は2日放送のテレビ東京の番組で「バッターの顔に向かってくるわけよ。思わず逃げたが、ブレーキが良く、見送ったボールがストライク。こんなバッターは使えませんよということで翌日から、私は先発を外れました。彼のおかげで現役が短くなりました」と語ったとのこと。

 前記阪神ファンのサイトからキーオが山本昌の度肝を抜いた試合を推測すると、それは1989年7月12日に甲子園球場で行われた試合だろう。阪神はこの試合に1対3で負け、勝利投手山本昌、敗戦投手キーオだった。この試合に限らずキーオには打線の援護に恵まれない試合が多かった。しかもヤクルト戦の登板が少なかったからやられた記憶も少なく*9、だからこそ他球団のファンであっても「弱い球団を支えたエース」に熱くなれるのだった。ヤクルトでいえば2001年の優勝の直後に入団した石川雅規に当たるか。タイプは全然違うけれども。2015年の終盤に、石川が5イニングしか投げなかったとはいえ東京ドームで菅野智之に投げ勝ってヤクルトが優勝を確実にした試合があったが、あれほど心から良かったと思った試合はない。あれは実に入団から14年目の石川の快挙だったが、キーオにはそれさえなかった。

 村山監督の後任だった中村勝広監督(この人も村山実同様故人だ)はキーオを買わなかったらしい。実際1990年にはあまり良い成績を残さなかった。1991年には阪神はキーオと契約せず、この年後半に台頭した若手投手たちが、翌1992年にヤクルトと死闘を展開して最後に負けたのだが、それにキーオは加わっていない。

 キーオ氏の早すぎる死に、心よりお悔やみ申し上げます。

*1:関根氏はその前の1982年から3年間、横浜大洋ホエールズの監督を務めていたことがある。

*2:バースは1988年に息子の脳腫瘍治療のために帰国したあと、阪神球団と契約のトラブルになって退団してしまった。これが球団代表の自殺という悲劇につながった。また同じ年に掛布雅之が若くして引退した。掛布は87年のシーズン前に酒気帯び運転を起こしてオーナーに罵倒され、88年には村山実監督との反りが合わなかったようだ。もちろん掛布自身の故障の影響が大きかったには違いなかろうが。

*3:1987年は中日戦4勝2敗で、4勝はすべてチームの連敗を止める白星だった。

*4:但し中日が優勝した翌1988年には0勝3敗だった。

*5:他の3球団との対戦成績は、広島戦8勝10敗、中日戦8勝8敗、大洋戦11勝8敗。

*6:サンチェスと読むはずなのになぜか読売球団は登録名を「サンチェ」にした。理由はよくわからない。

*7:槙原はバックスクリーン三連発の印象が強いが、阪神戦通算は38勝10敗とめちゃくちゃな阪神キラーだった。槙原は阪神戦に限っては悪運が強く、1995年にはリードされてマウンドを降りた直後に打線が逆転して勝利投手になった試合が二度もあった。例の敬遠球を新庄に打たれてサヨナラ負けした試合も、責任投手は槙原ではない。

*8:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200503-00000093-dal-base

*9:もちろん、それだけ黄金期直前の弱いヤクルトが軽く見られていたからではある。当然ながらヤクルト戦の登板が多ければ、キーオの勝ち星はもっと多かったに違いない。