kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

西城秀樹死去

今週は目が回るほど仕事に追われたので記事を書くのが遅れたが、西城秀樹が亡くなった。63歳だった。

少し前から病気がちであるのは知っていたが、二度病に倒れたあとリハビリをして復帰した彼のコンサートを伝える映像を見て、そのプロ根性には頭が下がる思いがした。死の直前に歌った映像が伝えられた島倉千代子(2013年に75歳で死去)を思い出した。

西城秀樹のデビューは1972年3月だった。私はその2年ほど前から東条英機(1884-1948)の名前を知っていたから、なんて芸名だと思った。本人は広島出身の在日コリアンだったが日本に帰化した人だったと聞く。

彼がもっとも華々しく活躍したのは、デビュー直後から80年代初め頃にかけてだろう。もっとも売れた曲は「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(1979年)だった。これに関連して、プロ野球の読売軍にヤングマンという投手がお悔やみのメッセージを出していた(私は読売にそんな名前の選手がいることを初めて知った)。

西城氏名曲使用の巨人ヤングマン「残念。寂しい」 - プロ野球 : 日刊スポーツ

西城氏名曲使用の巨人ヤングマン「残念。寂しい」

 巨人のテイラー・ヤングマン投手(28)が17日、逝去した歌手の西城秀樹氏へ哀悼の意を表した。自らの名前にかけ、登場曲として同氏の名曲「YOUNG MAN」を使用中。訃報に接し「非常に残念。寂しい。登場曲に使わせてもらって光栄だし、上に上がって登場曲を使って、チームに貢献することが仕事だと思っています。幼い頃からアメリカでも英語版の曲は有名で、聞きながら成長してきた。(来日して)名前が一緒で声をかけられた」と注目を浴びるきっかけに感謝し、残念がった。

(日刊スポーツ 2018年5月17日16時14分)


しかし、前年(1978年)にヒットしたヴィレッジ・ピープルの怪しげな歌から毒をきれいさっぱり抜いたこの歌が「代表曲」とされたことに、西城秀樹本人は不本意だったのではなかろうか。そういえば、二匹目のドジョウを狙ってピンクレディーヴィレッジ・ピープルの "in the Navy" をカバーした「ピンクタイフーン」など、恥さらしもいいところだった。

なぜって、私は "in the Navy" を初めて耳にした時、"in the Navy" が「ピンクレイディー」に聞こえてしまったのだが、同じ空耳をしてしまった人が便乗したんだな、とすぐにピンときたからだ。そして、まともな英語の発音であれば、あの歌の "in the Navy" を "pink lady" に置き換えることは絶対にできない。なぜなら、あのメロディーは「ソーーファミードー」で、"in"に「ソ」、"the"に「ファ」、"Navy"に「ミードー」の音を当てている。一方、「ピンクタイフーン」は「ピン」に「ソ」、「ク」にファ、「レイディー」に「ミードー」を当てているが、これだと "pink lady" ではなく "pinku lady"になってしまう。英語の歌では、子音に音程を当てることはできないのだ。私自身や、「ピンクタイフーン」のカバーの発想を得た人は、「ジャパニーズイングリッシュ」の耳しか持っていなかったから、「ピンクレイディー」と聞こえてしまったともいえる。

だから、そんな恥ずかしいカバーをするなよ、とあの当時高校生だった私は思ったものだ。しかもそのピンクレディーは一時アメリカに進出した。「ピンクタイフーン」もアメリカで歌ったに違いないが、アメリカ人は "pinku lady" の発音を聞いてどう思ったのだろうか。

結局、「ピンクタイフーン」はピンクレディーの人気凋落を印象づけた歌に終わってしまった。二匹目のドジョウはいなかったのだった。

話が逸れたが、西城秀樹にはもっと良い歌がたくさんあるのになあ、と思ったのだった。何でこの歌が代表曲なんだ、という例としては、アニメの主題歌「タッチ」が代表曲になっている岩崎良美もいるが、彼女の場合はあの歌がなければ歌謡曲史上に名前が残らなかった*1。しかし西城秀樹はそうではなかった。ところがあの歌が最大のヒット曲になってしまった*2ので、読売のアメリカ人投手からメッセージをもらうエピソードが生まれることになった。

私がむしろ思い出すのは、前年の1978年にリリースされた「ブルースカイ ブルー」だ。同じ思いの人が少なくなかったらしいことは、下記「報知スポーツ」の記事からうかがわれる。

西城秀樹さんのシングルが圏外から急浮上 デイリーランキングTOP10に2曲 : スポーツ報知

西城秀樹さんのシングルが圏外から急浮上 デイリーランキングTOP10に2曲

 16日に急性心不全で死去した歌手・西城秀樹さん(享年63)の代表曲「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」や、「ブルースカイ ブルー」など5曲が、デイリーデジタルシングルランキングで圏外からTOP50に急浮上したことが18日、わかった。オリコンが発表した。

 「ブルースカイ ブルー」が5位、「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」が9位と2曲がTOP10入り。14位にアニメ「∀ガンダム」の主題歌「ターンAターン」、32位に「傷だらけのローラ」、42位にも「ギャランドゥ」が入り、TOP50に5曲が急浮上でランクインした。

 西城さんが初めてオリコンTOP10入りしたシングルは1973年の「情熱の嵐」で、1位を獲得したのが同年の「ちぎれた愛」。また、最も売り上げたシングルは79年の「「YOUNG MAN」で80.8枚を売り上げた。(オリコン調べ)

(スポーツ報知 2018年5月18日17時30分)

1970年代というのは、明治維新以来100年かけて続いた日本の大衆音楽の西洋音楽化が最終的な完成形に到達した時代だと私は考えている。特に「ブルースカイ ブルー」がリリースされた1978年頃がその頂点だった。「青空の憂鬱」とでもいうべき歌詞を持つあの歌に長調の曲をつけ、曲の前半は細かい音符で構成され、後半はゆったりしたメロディーを当てる。当時のポップス系日本歌謡曲の洗練はたいしたものだった。この歌を歌った当時の西城秀樹は23歳だった。

女性歌手では、前記岩崎良美の姉・岩崎宏美は22〜23歳の頃に歌った「すみれ色の涙」(1981年*3)で、一度だけ出てくる最高音(E♭)にだけファルセットを当てる一方、「聖母たちのララバイ」(1982年)は全曲が地声で歌われた。なぜそんなことをしたかといえば、歌詞に合わせて歌唱を変えるためだ。「胸に甘えて」の「胸」で声が裏返ってしまったら、「傷を負った戦士」が「甘える」ことなどできない。「聖母たちのララバイ」の最高音はDだが岩崎はこの音を地声で出すのが苦しいので多くの場合キーを半音下げて歌っていたらしい。その場合、最高音は「すみれ色の涙」より長二度低いDフラットになる。「聖母たちのララバイ」に関しては、下記ブログ記事を参照した。

聖母たちのララバイ | あなたは「幸せ」ですか それとも「不幸せ」ですか・・・ ニコラスの呟き・・・(2012年5月31日)より

この曲のオリジナル・キーはBm(ロ短調)で、最高音がDであり、これは当時の岩崎の地声の音域ギリギリであった。そのため、テレビやライブ等生で歌う際は半音下げてB♭m(変ロ短調)で歌っていた。オリジナル・キーのカラオケを使用して歌う場合には、サビでファルセットを用いていた。これが当時オリコン誌上で、「半音下げたりファルセットを用いたりすると緊張感に乏しく、良い歌に聞こえない」と論争を呼んだ。その後現在に至るまで、B♭mで歌っているが、1985年頃から、半音下げたキーでもサビにファルセットを用いるようになった。アルバム『誕生』以降の別バージョンは、全てファルセットを用いて吹き込んでいる。


「すみれ色の涙」は半音下げた「聖母たちのララバイ」と同じ「B♭m(変ロ短調)」なので、比較が容易になる。「すみれ色の涙」は1968年の歌だが、メロディーが実に良くできていて、気持ちが高ぶって行くにつれ音程が上がっていく。「さみしかったから」は最初が「ラシドシーラシシー」、次が「シドレドーシファファー」、最後が1オクターブ高く音価が2倍に伸ばされた「ラーシードー」で、そのあと前の二度では音程が下がっていたのに、三度目にはさらに高く「レ」(B♭mではE♭)に到達したところでファルセットに裏返り、以後「(さみし)かったから あなたにさよならを」に「レドシラシ シラソーソソファミレミ」(ソは半音上げる)と下降音階をたどる。この作りもみごとだが、1981年の岩崎宏美バージョンでは、最高音にだけファルセットを当てるという技巧を使っている。これが画竜点睛の効果を発揮し、「すみれ色の涙」はヒット曲になった。

一方、「聖母たちのララバイ」は、実は私の大嫌いな曲なのだが(「すみれ色の涙」は好きな曲だ)、あの曲では「半音下げたりファルセットを用いたりせずに、Bmで最高音のDを出す」ことが岩崎宏美に課せられていたのでなかろうか。それが、彼女の喉の酷使につながり、上記引用記事にもあるように、「聖母たちのララバイ」のサビでもファルセットが当てられ、当然ながら「すみれ色の涙」でもファルセットを当てる音の数が増えたのだろうと想像される。作り手は効果を狙って「あの曲はサビでファルセットを使うけど、この曲は全部地声で」などと好き勝手に支持していたのかもしれないが、歌手は生身の人間だった。岩崎宏美は決して、聖母ではなく、それどころか「傷を負った戦士」の方だったのだ。

そう、「聖母」自らも業界に酷使されていたのが70〜80年代の歌謡界だった。だから1977年にキャンディーズが反乱を起こした。「聖母たちのララバイ」が流行した頃を境に、私は日本の歌謡曲を聴く習慣を徐々になくしていった。

西城秀樹が48歳の2003年に脳梗塞を患ったことにも、若い頃からの酷使が影響したことはほぼ間違いないだろう。あの70年代後半から80年代に前半にかけての、日本のポップス系若手による歌謡曲の世界の洗練には、豊かな才能を持った彼らの酷使という負の面があったわけだ。それを忘れてはならないと思う。

西城秀樹の病気も死も、あまりにも早すぎた。心よりお悔やみ申し上げたい。

*1:デビュー時に「岩崎宏美の妹」として売り出させてもらって紅白歌合戦にまで出場した経緯はあったが、ヒット曲と言える歌はなかった。

*2:それどころか、野口五郎郷ひろみを合わせた「新御三家」でも最大の売れ行きだったらしい。

*3:オリジナルは1968年に、ジャッキー吉川ブルーコメッツがリリースした「こころの虹」のB面に収録された曲(Wikipediaを参照した)。