現在、読書ブログに書くべき案件(といってもエンタメ関係だけど)をどうまとめようかと思案していて、こちらに公開する記事に力が入っていないのだが、下記醍醐聡氏のツイートに「わが意を得たり」と強く共感したので紹介する。
①確かに。しかし、大切なことは「投票権を行使すること」だけが「参政」ではないということ。投票行動で尽くせない政党への異議を、日常、発信するのも重要な「参政」。
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) April 6, 2019
どの政党の党員、支持者であれ、疑問、異議を棚上げして、その政党に尽くすのは理性的な参政ではなく、信仰の世界の「帰依」 https://t.co/PnlQTAGdWW
どの政党の党員、支持者であれ、疑問、異議を棚上げして、その政党に尽くすのは理性的な参政ではなく、信仰の世界の「帰依」。本当にその通りだ。
こんなことは政治的な意見発信における「きほんの『き』」だと私は思うのだが、それができていないどころか、そういう姿勢を見せる人間を排除する、どうしようもない「同調圧力」が、「リベラル・左派・左翼」と「ネトウヨ」の双方のクラスタの内部に強く働いている。そうとしか私には思えない。だから私は彼らを「小沢信者」、「立民(枝野)信者」、「共産党信者」、「安倍信者」などと呼んで強く批判するのだ。
②政党に思うこと。
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) April 6, 2019
自党が得た得票を「全面支持」と勘違いしていないか?
与野党を問わず、得票を「数」としかカウントせず、言葉は悪いが「鼻をつまんで」自党に投票した有権者がいかに多いか、そうした有権者の異論に向き合う、主権者に対する畏怖を持ち続ける国会議員がどれくらい、いるか?
そんな国会議員などほとんどいないと私は断言する。それは、国会議員の側にも問題があるが、それ以上に議員たちを甘やかす支持者の側に大きな問題がある。彼らは、支持政党やそれに属する議員を批判するよりも、政党や議員に意を唱える意見を発信する者を批判する方を優先させるのだ。はなはだしい人間に至っては、「鼻をつまんで」投票するという行為自体を批判する。この「鼻をつまんで」という表現を私も多用するのだが、ある時、既にこの日記のコメント欄から離れたかつての某常連が、「あいつは尖鋭化しすぎて『鼻をつまんで』という言い方しかできなくなっている」というような私に対する陰口をたたいていたのを目撃した。この物言いをした人間は2,3年前の小池百合子人気の全盛時に小池を強く批判していた人物なのだが、その人物にしてそんなことを言うとは、現在のこの国における「同調圧力」の強さが、政権支持側・反政権支持側を問わずにいかに強いかを物語る。
これこそ、「異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』」における人間のありようだ。まずこれを克服しなければならない。現在の日本には「批判=悪」であるかのような風潮があるようだが、これこそ最大の誤りだ。現状の問題点を把握してそれを批判することはあらゆる改善の出発点だ。「批判=善」なのである。