kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

山本太郎自身に促されても「父殺し」ができない支持者たち。ましてや「天皇制の克服」など夢のまた夢か

 昨日の下記エントリにいただいたコメントより。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

id:redkitty

 

そしてついには日本の<父>殺しが行われる日がきますように。これなしに日本社会の変革は完成しないし、日本社会の変革は人々がこの<父>殺しを行えるまでの内的変革の果てに達成されるのだと思います。

  

 これはもちろんその通りだと私も思います。

 

 しかし、「平成」の30年間、特にその後半で日本の社会に起きた現象は、その方向とは逆方向に向かうものでした。「リベラル」の間に天皇に対する依存心が増し、近年は前天皇に依存して安倍晋三に対抗しようとする情けない「リベラル」が異常増殖しました。

 そして、そんな「リベラル」たちの依存の対象として現在もっとも熱い視線を注がれているのが山本太郎だといえましょう。

 その罪は、山本太郎本人よりも支持者の方がはるかに重い。そう思わせるのが下記のツイートです。

 

 

 「たかだか山本太郎です」「私のこともどうか疑って下さい」と訴える山本太郎は、「私(山本太郎)に対する『父殺し』も行って下さい」と言っているように私には思われます。

 しかし、山本太郎を押し立てて安倍晋三に対抗しようと考えているであろう呟きの主には、山本太郎に対する強い依存心が感じられます。

 現在、山本太郎をめぐるネット言論を見て私がもっとも強く危惧するのは、山本に対する批判を一切受け付けず拒否しようとする山本支持者あるいは「信者」のありようです。それはかつての「小沢信者」と同じだし、もっと前の「小泉信者」とも同じです。

 村上春樹の『騎士団長殺し』でも、その核心部では絵から抜け出た姿として具象化された「イデア」である騎士団長の方が「私」に「あたし(騎士団長)を殺すのだ」と促します。「諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ」と言い、それに促されて「私」はようやく「騎士団長殺し」をなし遂げます。そして小説の結末では「私」が父になり、「私」と同様に「父」になろうとした登場人物である免色渉とともに(書かれていない小説の続きを想像するならば)「私」は将来的には間違いなく娘に「殺される」存在であることを暗示しつつ物語は閉じられます*1(このような続きしか想定できない以上、この本の読者たちの間で話題になったらしい、この小説の「第3部」が書かれることはあるまいと私は考えています)。

 これは2010年代の日本で書かれるにふさわしい小説だったと思います。「父」に促されてしか「父殺し」ができないのが今の日本に住む人々であり*2、そんな「父殺し」なんて真っ平御免だと考えているのが、山本太郎の支持者であり、ことに「信者」たちであろうと私は思うのです。

 そんな人たちに支えられた現在の山本太郎と彼の政党は、やはり過渡的な存在にとどまらざるを得ないでしょう。

 山本太郎をめぐってさえこんなありさまですから、ましてや天皇制の克服など、本当にできる日がくるのだろうかと思います。少なくとも私の目の黒いうちには絶対に無理で、そんな日が来ることを願いつつ死んでいくしかないんだろうなと思ってますけど。

*1:村上春樹は「父」である著者(村上自身)を殺せ、と読者に向かって呼びかけていると読める。

*2:これは村上春樹自身の弱点でもあると思うが、全く同じ弱点を私自身も抱えていることを自覚している。