kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「宇高航路」109年の歴史に幕へ 背景に利用客の減少(NHK)

 宇高連絡船がついに廃止されるらしい。「ついに」と書いたのは、以前にも一度完全廃止されそうな話があったからだ(後述のWikipediaを参照)。

 以下NHKニュースより。

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191109/k10012171331000.html

 

「宇高航路」109年の歴史に幕へ 背景に利用客の減少

 

香川県高松港岡山県玉野市宇野港を結ぶ「宇高航路」と呼ばれる海の便で唯一、フェリーの運航を続けていた高松市の四国急行フェリーが、瀬戸大橋の開通などによる利用客の減少から、近く、この航路での運航を終える方針を固めたことが分かりました。明治43年に開設された宇高航路は109年の歴史に幕を下ろすことになります。

宇野港高松港を結ぶ宇高航路は明治43年鉄道連絡船として開設され、昭和60年代には、旧国鉄の連絡船と3つの会社のフェリーが24時間、1日に150往復以上運航していました。

しかしその後、瀬戸大橋の開通などで利用客が減少し、現在は高松市に本社がある四国急行フェリーだけが1日5往復を運航していますが、会社の関係者によりますと、四国急行フェリーはこの航路について、利用者の減少に歯止めがかからず収支の改善が見込めないとして運航を終了する方針を固めました。

近く、四国運輸局に航路の休止を届け出るということです。

四国急行フェリーには香川県岡山県、それに高松市玉野市平成27年度から財政支援を続けていましたが、ことし運航が終了すれば、明治43年に開設された宇高航路は109年の歴史に幕を下ろすことになります。

 

NHKニュースより)

 

 こういう記事を読むと、元号とはなんて不便なものなのかと改めて思う*1

 私は2000年代には宇高連絡船の航路を挟む両岸である岡山県香川県に居住経験があるが(2002年末まで岡山、以後2009年まで香川)、宇高連絡船を使った経験は数えるほどしかなく、一度を除いていずれも遊びで使った。瀬戸大橋は自動車道路とマリンライナーを仕事にも遊びにも数え切れないほど使ったが。

 1988年に瀬戸大橋ができる前、最初に旅行で四国に行った時も大阪南港から高知港への夜行で行ったし、帰りには高松から小豆島を経由した。結局最初に宇高連絡船に乗ったのは2002年4月の最初の日曜日だった*2。この日の帰りはマリンライナーを使った。

 その後は高松市在住時代に二度、自転車で宇野から高松まで渡るのに使った。行きは愛媛県今治から広島県尾道までしまなみ海道を渡ったが、自転車は瀬戸大橋を渡ることはできない。それで宇高連絡船を使ってループを閉じたのだった。

 瀬戸大橋はよく強風で通れなくなるので連絡船は貴重だったという話もあるが、一度台風の時に連絡船も運行休止になって高松に帰れず、結局倉敷に泊まったことがあった。まあ廃止は時の流れで仕方ない。高松は1988年4月の瀬戸大橋開通とともに四国の玄関口としての地位を失ったといえるのではないか。

 ただ、宇高連絡船廃止後も直島経由でフェリーを乗り継いで行くことはできるようだ。

 以下、Wikipediaより抜粋。

 

ja.wikipedia.org

 

概要

1903年明治36年3月18日山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した、岡山港 - 高松港間および多尾連絡船(多度津港 - 尾道港間)を前身とする。元々は玉藻丸は岡山港-高松港間に、児島丸は多尾連絡船に就航していた。岡山港 - 高松港間航路は、浅喫水船で岡山を出て途中三蟠港で玉藻丸に乗り換え。利用客が低迷したために、同年8月に九蟠、9月に土庄(小豆島)も経由する様に改められた。また、多尾連絡船は当初は直通だったが、1906年明治39年)6月に鞆港を経由する様になった。両航路とも、1906年明治39年)の鉄道国有化で国鉄の航路になり、宇高連絡船就航前日まで就航した。

山陽本線を建設した山陽鉄道は、予讃線土讃線の一部を建設した讃岐鉄道1904年明治37年)に買収した時点で宇野 - 高松間航路の計画を立てていたが、実現したのは同社が鉄道国有法に基づき国有化された後のことだった。

1910年明治43年6月12日宇野線が開通。これまでの山陽汽船商社が開設した、多尾連絡船(尾道 - 多度津間)及び、岡山 - 高松間航路を統合し、宇野 - 高松間の航路が開設された。船舶は、2航路で使われていた船舶2隻(玉藻丸児島丸)を転用した。

以後、本州四国を結ぶ幹線交通路として重用されてきた。1972年(昭和47年)11月8日からは急行便としてホーバークラフトが運航され、さらに1985年末からは、多客期などの臨時急行便として高速艇も運航された。

1988年(昭和63年)4月10日本四備讃線瀬戸大橋線)が開業したことから、前日限りで連絡船とホーバークラフトは廃止され、宇野周辺の利用者のために残された高速艇の運航も1990年(平成2年)3月に休止、翌1991年(平成3年)3月に廃止となった[1]

なお、瀬戸大橋の通行料が高額であったことなど事情から、フェリー各社(四国フェリー宇高国道フェリー・本四フェリー[注釈 1])の宇高航路は、瀬戸大橋開業後も運航を続け、21世紀初頭でもトラックドライバーの利用が多かった[注釈 2]。しかし、明石海峡大橋の供用開始、本四高速などの通行料金値下げ、燃油価格高騰などが原因で利用者が減少、徐々に減便を余儀なくされる。

2009年(平成21年)4月1日に津國汽船の本四フェリーが廃止撤退[注釈 3]2010年(平成22年)2月12日には、宇高国道フェリー四国フェリーが宇高航路での運航を3月26日限りで廃止すると四国運輸局に申請したが[2]、岡山・香川の両県議会や玉野・高松の両市議会から存続要請がなされた結果、宇高国道フェリーは同年3月4日に、四国フェリーは同年3月11日に廃止申請を取り下げて当面の運航継続を決めた。最終的に宇高国道フェリー2012年平成24年10月17日をもって運航休止となり、その後再開されていない。現在、宇高航路は四国フェリー1社による運航となっている。

強風などで本四備讃線の瀬戸大橋橋上区間児島駅 - 坂出駅・宇多津駅)に通行規制がかかった場合は、快速電車マリンライナーが宇野行に臨時変更され、宇野から高松へフェリーによる代行輸送が行われていたが、四国フェリーが深夜便を廃止し日中の運航も5往復にまで減便されたため、代行輸送契約は終了となった。

 

Wikipediaより)

 

 

*1:なにしろ記事に明治、昭和、平成の3つの元号が出てくる上、記事には出てこない大正、それに某政党の名称に用いられている現元号があり、NHKの流儀だと廃止年はその現元号で表されるのだ。「明治43年」が何年前なのかは簡単には計算できない。

*2:船内のテレビにNHKが中継するヤクルト対阪神のデーゲームが映し出されていたのを覚えている。その試合は、故星野仙一阪神の監督に就任して阪神が開幕7連勝したあとの8戦目であり、神宮球場のスタンドは阪神ファンだらけだったことに(いつものことではあるが)むかついた印象が強く残っている。この日の阪神の先発は新人の安藤だった。試合はヤクルトが逆転勝ちして、開幕戦以来続いた阪神の連勝を止めたが、その肝心な場面を見ることはできなかった。