kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

1943年に後藤新平の「大亜細亜主義」を賛美する本を出して共産党に「筆誅」を加えられた『長周新聞』の「死んでも編集主幹」福田正義

 山本太郎と×××新選組を全力で応援している『長周新聞』は、今なお2001年に亡くなった福田正義を「編集主幹」としているらしい。その福田正義について、Wikipediaに面白い記述があるのをみつけた。

 

生涯[編集]

山口県下関市出身。1928年昭和3年)3月、下関商業実践学校を卒業。 1939年昭和14年)頃から満鉄社員会で左翼活動。1943年昭和18年)、日本の植民地政策を賛美した本『後藤新平』を上梓。同書を上梓した過去を隠し通したことから、のちに日本共産党から筆誅を加えられた[1]1945年(昭和20年)、日本人民主連盟在華共産主義者同盟に参加。 1947年(昭和22年)1月、帰国し、全駐留軍労働組合で活動。

1947年、日本共産党に入党し、党山口県西部地区委員長。 1948年(昭和23年)、党山口県委員。

1949年(昭和24年)、党山口県常任委員、党中国地方常任委員。被爆まもない占領下の広島で原水爆禁止運動を開始。当時共産党中央はアメリカ占領軍を解放軍と規定していたためこの運動を非難した。

1950年(昭和25年)8月、戦後初の原水爆禁止の集会を決行(当時非合法であったこの集会の模様は詩人・峠三吉の詩『1950年8月6日』に記されている)。翌年からは合法的に原水爆禁止広島集会が開催され、数年後には世界大会が開催されるようになる。

1950年、いわゆる「50年問題」の際、日本共産党臨時指導部より除名される。1951年、『平和と独立』編集部に在籍。 1952年(昭和27年)、『アカハタ』中国総局長に就任。

1952年、福田の指導により劇団はぐるま座結成。1955年(昭和30年)、『長周新聞』を創刊。 この間、毛沢東思想に傾倒する。1966年(昭和41年)9月、日本共産党から分裂し、日本共産党山口県委員会(左派)を結成。 1969年(昭和44年)11月、同じく親中国派である寺尾五郎らとともに日本共産党(左派)を結成し、中央委員会議長に就任。

1970年代に中国とアメリカの関係が改善し始めると、中国を批判するエンヴェル・ホッジャに傾倒。その影響で、共産党左派もアルバニア派となった。ホッジャ死去後は再び毛沢東主義に戻った。

2001年(平成13年)12月、心不全により死去。90歳。福田の営為は長男である福田槐治が継承した[2]。福田槐治は、北京空港事件の下手人とされている。

 

出典:福田正義 - Wikipedia

 

 ここで私が注目したのは、

日本の植民地政策を賛美した本『後藤新平』を上梓。同書を上梓した過去を隠し通したことから、のちに日本共産党から筆誅を加えられた[1]

というくだりだ。Wikipediaから張られたリンクは下記。

 

 タイトルは毛沢東盲従集団―福田一派の虚像と実像』[日本共産党中央委員会出版局発行(1972/03/25)]となっている。

 下記引用文が戦前に福田がやらかした悪行に共産党が「筆誅」を加えた箇所だ。

 

4.福田正義という男――中国侵略共犯者の前歴かくす


干渉者にもいえない顔

 

 時は昨年の九月二十日夜、ところは北京の迎賓館。福田正義は日本の反党盲従集団の代表団長として周恩来らと会見、「日本の真の革命政党の代表」「不屈の革命戦士」などともちあげられ、「わが生涯の最良の日」とばかり得意満面でした。

 福田正義。一九一一年(明治四十四年)一月一日、山口県下関市の商人の家の生まれ、六十一歳。一九六六年九月、日本共産党山口県委員会常任委員だったかれは、中国の干渉者たちのさし図にしたがって公然と反党活動を開始し、祖国の人民と党を売った最悪の裏切り者として日本共産党を追放されました。その後、党転覆の策動をつづけ、一九六九年には「日本共産党(左派)」などという荒唐無けいで許すことのできない看板をかかげ、その「中央委員会議長」の座におさまっています。ここには、外国に魂を売って、五十年の日本の革命的伝統を裏切り、その転覆をはかる反党分子の醜い顔があります。

 そしてこの顔は、中国の干渉者にもいえないもう一つの福田の顔と深いところでつながっています。

 

「大亜細亜主義」を賛美

 ここに『後藤新平』という一冊の本があります。「満州日日新聞東京支社出版部」、昭和十八年発行、B6判三百八十九ぺ-ジのこの本の著者が福田正義です。

 後藤新平といえば、「満州」の植民地支配にらつ腕をふるった初代「南満州鉄道」総裁。福田は若いころ山口県でプロレタリア文化運動に関係していましたが、やがて逃亡するように「満州」に渡り、御用新聞満州日日新聞」(のち「満州日報」と改称)の記者になりました。そしてみずから後藤新平を礼賛する伝記を書き、日本帝国主義の中国侵略戦争、中国東北地方の植民地支配に積極的に協力しました。

 福田はこの伝記の目的を、「彼(後藤新平)が熱情をこめて主張した大亜細亜主義」「日本の大陸雄飛の先覚としての後藤新平」を描きあげることだとのべています(「まえがき」)。ことばのとおり、その内容も、「王道の旗をもって覇術を行なう」という後藤の主張を「高邁にして毅然たる精神」ともちあげ、日本帝国主義の侵略政策の推進者後藤を徹頭徹尾賛美したものです。しかも福田は、「後藤新平は、いまも、満州に生きている」「彼を正当に評価し、讃えるものは、彼の『屍を乗り越えて』すすまねばならぬのである」と、後藤につづいて残虐な侵略拡大の道へすすむことを国民にもとめていました。これは福田が最悪の転向者であり、中国人民への凶暴な支配と侵略の積極的な共犯者であることをしめしています。

 福田は、かつて党に提出した文書のなかでも「敵に屈服したことはなかった」と侵略協力の前歴をかくしつづけ、ごく親しいものにもこの「満州時代」については口をとざして語りませんでした。そしていま、かつて中国侵略のお先棒をかついだ福田は、 "不屈の革命戦士 "として中国側に売りこみながら、その黒い前歴があればこそ、一転して盲従とへつらいにつきすすんでいったのです。

 党の戦列に属しながら、ついに福田は、中国侵略戦争に一貫して反対し、日中両国人民の連帯のために不屈にたたかった日本共産党の誇りをともにすることができませんでした。そして福田のこの二つの顔は、党にたいしてもおもてむきの忠実と裏切りのニつの顔をつかいわけさせることとなりました。そうした "本領 "がいちばん発揮されたのが、一九六五年から六六年の時期に、中国の干渉者に賭けてわが党にたいする裏切り行為を公然化させつつあったときです。

「王道の旗」から「盲従の旗」へ

 当時、すでに対外追随の教条主義極左日和見主義の芽をふきださせていた福田らは、一九六四年の第九回党大会でこの点を全党から批判されました。これにたいして福田は、対中盲従の誤りを認め、「自己批判」をしてみせました。

 たとえぱ、六五年二月十六日、福田は、「国際共産主義運動の中の意見の相違が表面化するにしたがい、……次第に私自身、わが党がこの問題で中国共産党のような方法で闘争すぺきだと考えるようになった。このことはわが党の路線に反しており、他国の党の路線をうけ入れるという現代教条主義の誤りである」と誠実そうに反省してみせました。

 しかし、これが全党をだまし、その同志的批判をそらす口先だけのものであったことは、わずか一年後にかれが公然と反党策動に走った事実がしめしています。

 かつては中国侵略の「王道の旗」に賭け、いまは「盲従の旗」に賭けて反党策動にあけくれる卑劣な野心家――それが二心者福田正義の一つの素顔にほかなりません。

 

出典:http://maoist.web.fc2.com/jcp/jcf004.htm

 

 この文書が発表されてから既に50年が経過しているが、今も日本共産党による福田正義及び「日本共産党(左派)」に対する分派認定が変わっているとは思えない。

 その福田の没後20年以上も経つ今も「編集主幹」として崇め奉っている『長周新聞』が全力で応援し、かつ2019年当時に毛沢東主義系の新左翼・斎藤まさしがバックにいるとの説が有力だった×××新選組山本太郎が独裁党首を務めている)と共産党が連合政権協力合意を結んだことの当否は、現在問い直されて然るべきなのではないか。

 なにしろ党執行部が「分派」とつながりのある可能性のある政党と連合政権の協力合意をしたのだから、その意味合いは決して小さくないはずだ。

 蛇足だが、引用した共産党の福田正義批判を読んで、創価学会日蓮正宗批判を思い出した。いずれも不倶戴天の敵を攻撃する文章の典型だ。