kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

戦争によらない富の平準化を追求するピケティ的な考え方が日本の「立憲野党」支持者たちに求められるのではないか

 シゲ氏や、氏がよく「ブースト」する「うだ」氏の発信を見ながら、右や左の「減税真理教」信者たちもひどいけれども、泉立民支持層に少なからず、というより明らかに多く見られる「消費税万歳派」ともいうべき人たちも大いに問題含みだよなあと痛感した。

 それでシゲ氏のマストドンをまた取り上げようと思って眺めていたところ、下記マストドンのブーストが面白かったので、まずこれを取り上げる。

 

toot.blue

 

 大阪万博八甲田山になぞらえられている。私は映画を見たことはないが新田次郎の小説には大いに引き込まれた。題材となった遭難事件について書かれた本まで図書館で借りて読み、読書ブログに下記記事を書いて公開したことを懐かしく思い出す。下記は2019年に公開した記事へのリンク。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 それはともかく大阪万博は間違いなく維新を攻撃する急所であることは間違いない。大阪万博を批判する攻撃の手を緩めてはならないことはいうまでもない。

 本題のシゲ氏のマストドンだが、たとえば下記などは全く問題ない。

 

toot.blue

 

 「無税国家」なるものは、かつて故小田実北朝鮮がそういう国家であるとして大いに持ち上げる醜態を晒したことがあると昔(2010年頃だったと記憶する)ブログのコメント欄で教えていただいたことがあるが、「無税国家」あるいはそれに近い税制のあり方は、いうまでもなく無修正資本主義そのものだから論外であって、無税国家論者イコール新自由主義者だと断定して良い。民主・民進系政治家でいえば小沢一郎野田佳彦がかつて好んで口にしていた「民のかまど」論がそれに当たるのではないか。

 私がシゲ氏のマストドンで一番引っかかったのは下記だ。

 

toot.blue

 

 「世界的にも1970年代ごろまでの所得税率の最高税率の高さは戦時中に国防費(戦費)調達のために税率を大幅に引き上げた名残り」というのはその通りで、これこそトマ・ピケティが日本でも2014〜15年に大きな話題となって議論を呼んだ『21世紀の資本』で豊富なデータをもって実証したことだ。

 ただ、ピケティとシゲ氏には決定的な違いがある。

 ピケティは1970年代以降に所得税率等が引き下げられた結果、格差が拡大したことを「課題」としてとらえている。そして、世界史を概観しても過去には大きな戦争以外で格差が縮小したことがないことを示し、戦争によらずとも格差を縮小する方策を模索し提言している。その結果資産課税の強化やグローバル課税の必要性を論じている。

 しかしシゲ氏にはピケティのような観点が全く欠如している。「第二次世界大戦の戦費調達のために引き上げられた税率に戻すことなど現実的でない」と言い募るだけだ。

 そんなあり方では格差の拡大を座視し、階級の固定化を追認することにしかならないか。そういう考え方が立憲民主党主流派の代表的な意見なのかと愕然とする。

 私は決して結果平等論者ではなく、それどころか非常に強い機会平等論者である。ピケティも同様だと認識している。なぜ富の平準化が求められると強く主張するかというと、富が平準化された社会でなければ機会平等は実現されず、その結果ある分野で卓越した才能を持った人たちが埋もれてしまうからだ。機会平等論は相当程度の結果平等なくして実現できないことは明らかであるからこそ、私は富の平準化を強く求めるのだ。機会平等と結果平等とは切っても切れない関係にある。この事実くらいは社会の共通認識になってもらいたいものだ。

 機会不平等の最大の好例はいうまでもなく政界だ。自民党支持者たちや、泉健太の批判くらいならできる「都会保守」たちは、岸田文雄やドリル小渕優子のような世襲貴族たちが労せず、たとえばドリルに至っては2000年5月に父親の元首相が死んで6月には衆院選に26歳で立候補して当選してしまったことをおかしいとは思わないのか。

 政界ほど機会平等の理念からかけ離れた世界はない。しかしそれを批判する勢力としてもっとも支持されているのが獰猛な弱肉強食勢力にして、そのくせ大阪万博に典型的に見られるように自らが確保した権益だけは固定しようとする維新のような新自由主義勢力だ。

 こんな現状で良いのか。「立憲野党」支持者たちには、もっとシビアな現状認識と批判精神が求められると強く訴える次第だ。