kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

そもそも野村克也は投手の分業制を確立さえしていなかった

野村克也が過大評価されかかっている - kojitakenの日記 に対し、はてブコメントで、id:asa-mineさんから疑義のコメントをいただいている。

asa-mine うーん 導入と確立ってけっこう違うと思うんだが。管理とIDも生活の管理≠プレイングの管理だろうし。 2009/10/27

そこで、反論をかねてもうちょっと突っ込んで書いておきたい。

投手の分業制に関しては、宮田征典を抑えの切り札に使った川上巨人は確かに一過性の起用法で、V9時代後半には堀内や高橋一三を酷使していた。堀内が早く衰え、高橋一三も巨人時代末期から日本ハム時代の前半にかけて長い間低迷したのも、川上の酷使のせいだろう。

当時、投手の分業制を確立したとして名高かったのが中日ドラゴンズである。「導入」ではなく「確立」である。前のエントリで書いた権藤博コーチのほか、近藤貞雄コーチ(のち中日監督として1982年にリーグ優勝)が分業制の実践者だったことを思い出した。

一方、野村克也はどうだったかというと、1992年にヤクルトを14年ぶりにリーグ優勝に導いた時でさえ、分業制を確立などできていなかった。この年、大車輪の活躍をしたエースは岡林洋一だったが、野村監督は阪神との大一番で同点の7回から岡林をマウンドに送り、そのまま両チームは得点を挙げられず、延長15回を戦って引き分けたのだが、なんと岡林はその間ずっと投げ続けた。9イニングを0点に抑えたのだから完封相当である。ところが、その2日後の同じ阪神戦で、またしても野村監督は同点で迎えた延長戦に岡林をリリーフさせた。この時は広沢克己のサヨナラエラーでヤクルトが負けたが、岡林の投球過多を抑えるにはその方が良かったのかもしれない。しかし結局岡林は故障し、一軍選手登録を抹消された。ところが、復帰するやいなや、広島市民球場で二度同点の延長戦で救援させられて、ともにサヨナラ負けを喫した。エースでこれだけ負けても、ヤクルトと競り合っていた阪神と巨人がともにもたついたために、ヤクルトは優勝争いから脱落せずに済んだ。このあたり、野村監督はなかなか強運の持ち主だといえた。そして、大詰めの阪神との首位攻防戦に先発した岡林は、今度は阪神を完封し(広沢が仲田幸司からホームランを打って、1対0の勝利だった)、翌日もヤクルトが大逆転サヨナラで阪神に連勝したことによって、ようやくヤクルトがリーグ優勝にこぎつけた。この優勝の過程で、野村監督はひたすら岡林を先発にリリーフにと酷使し、それが岡林の選手寿命を縮めてしまったのである。野村監督は、翌年にも伊藤智仁が延長13回を投げて引き分けたあと、中4日で巨人戦に先発させ、伊藤は巨人を完封したものの(この試合がまた0対0からの9回裏サヨナラ勝ちだった)、その試合で肩を故障してしまった。結局、伊藤も岡林同様、選手寿命の短かった名投手として記憶されることになってしまった。野村監督が分業制を確立したといえるのは、その伊藤を抑えに使って優勝した1997年のことだったと思う。この年のヤクルトは完成度の高いチームで、野村采配は冴え渡り(たとえば巨人との開幕戦で広島から獲得した小早川毅彦が巨人の大エース・斎藤雅樹から3打席連続ホームランを放った試合など)、そこには呪術的な魅力、というより魔力があったのだが、だからといって野村監督が日本プロ野球界でいち早く投手の分業制を確立したわけではなかった。むしろ、川上巨人のV9時代のような時代遅れの投手起用をしていたのである。1992年の西武との日本シリーズで、1勝3敗と追い込まれてから、第5戦、第6戦をともに延長戦で勝って五分に追いつき、逆王手をかけた時、野村監督は「野球はデータじゃない、勢いだ」とか、確かそんな意味のことを言っていたと記憶しているが、私は野村克也というのは、実は「知」よりも「情」の方に傾いている人なのではないかと思う。なお、1992年の日本シリーズにも岡林洋一は3試合に先発し、計30イニングを投げている。近年の日本シリーズで、こんなに多くのイニングを投げた投手なんて誰もいないのではなかろうか。

なお、野村克也より14年早くヤクルトを優勝させた広岡達朗は、何も選手の私生活だけを管理していたのではない。ヘッドコーチに森昌彦を起用し、データ重視の野球をやっていた。野村の「ID野球」の中身は、広岡−森体制の「管理野球」と何ら変わらなかった。野村克也森祇晶(昌彦から改名)の2人の知将は、1992年と93年の2度顔を合わせ、92年が4勝3敗で西武、93年が4勝3敗でヤクルト、計7勝7敗で勝負は決着つかずといったところだったが、とりわけ4試合が延長戦にもつれ込んだ1992年は、プロ野球の歴史に残る名シリーズだったと思う。