故星野仙一が中日ドラゴンズの監督を務めていた頃に暴力をふるいまくったことはあまりにも悪名高いが、長嶋茂雄も星野に負けないくらいひどい暴力人間であることはあまり知られていない。
以下、ツイートのツリーより。
鉄拳制裁の常習犯だった星野仙一が、いまだに「闘将」と美化される日本のスポーツ界の異様さを思わずにはいられない。逆に、鉄拳制裁を禁じた落合博満が嫌われている。これでは、いつまで経っても暴力体質が変わらないのではないか。https://t.co/VuaJWOSYpx
— 神子島慶洋⊿ (@kgssazen) 2021年6月13日
以前、西本聖元投手が「長嶋さんの往復ビンタ」と鉄拳制裁を肯定的に語っていましたが、長嶋の暴力がいかにひどかったかが窺い知れる話だと思います。
— 神子島慶洋⊿ (@kgssazen) 2021年6月14日
西本だけではなく定岡も新卒の時に長島に挨拶に行ったら髪の毛を引っ張られて、色気づくのはまだ早い、髪の毛を切って来いと言われたらしいです。
— ヘンリー・クレイ (@henry_clay2017) 2021年6月14日
西本がタコ殴りにされたのは衣笠を骨折させたうえで負けた試合のことでしたが「ほかの選手もやられていた。長嶋に殴られてようやく一人前」と西本は言っていました。
— koyama (@itten10) 2021年6月14日
悪いがその試合は残念ながら読売の負けではなく引き分けだ。但し衣笠が受けた死球で燃え立ったカープ打線が西本をKOし、救援に立った角三男も打ち込んで、6点のビハインドを引き分けに持ち込んだ試合だった。だから、試合後に長嶋に殴られたのは西本だけではなく、角も西本と同じくらいひどく殴打され続けた。あの当時、長嶋は球界でも最悪の「暴力王」だったのだ。
この年はこの頃からカープが快進撃を始めて首位に立った。そのカープを猛追したのが千葉の神野寺から虎が脱走して以来調子を上げた阪神だったが、虎が捕まって射殺されるとタイガースの勢いも止まり、高校野球が終わって本拠地に戻ってきた月末にカープに3タテを食らってセ・リーグの優勝争いは決着した。阪神は最終的に4位に落ちたが、その阪神に移籍した小林繁に負け続けた読売は阪神をさらに下回る5位だった。最下位球団の名前は出さないでおくが、前年に初の日本一に輝いていた。「××さんは○○○○ズを最下位にもした」のだった。
それはともかく、星野仙一と落合博満、長嶋茂雄と野村克也は本当に対照的だった。ただ、この2組で大きく違うのは、中日で星野が一方的なヒーローで落合が一方的な悪役にされたりまではしなかった(監督時代の中日の成績では、落合が星野を圧倒しているためだろう)のに対し、東京ダービーで毎年優勝を交互にしていた読売の長嶋が批判がタブーされる神聖不可侵の「善玉」としてテレビ等に扱われた一方でヤクルトの野村には徹底的に悪役が割り当てられていたことだ。
90年代のセリーグは長嶋巨人と野村ヤクルトがしのぎを削っていたが、長嶋が善玉でノムさんが悪玉という構図をマスコミがつくり上げていたように感じる。しかしその実、他球団から主力を買い漁って補強を繰り返した長嶋巨人に対して、野村ヤクルトは現有戦力をやりくりして互角以上に戦っていた。
— 神子島慶洋⊿ (@kgssazen) 2021年6月14日
当時のヤクルト対読売は死球合戦がしょっちゅう起きていた。危険球退場の制度ができたのも、1994年の神宮球場でのヤクルト対読売戦がきっかけだが、読売の打者に頭部死球を与えた西村龍次は前年から調子を落としていて、1994年当時にはすっぽ抜けの球が多い投手だった(今なら阪神の藤浪晋太郎がそのような投手だ)。一方、読売の投手は概ねコントロールが良かったはずだが、長嶋が「目には目を」などと公言して、故意死球の指示を自軍の投手に出していたことを認めたも同然だった。
私はヤクルトには落ち度はなかったなどと言うつもりなど毛頭ない。当時、テレビの生中継がないイースタンリーグでのヤクルト対読売戦では、一軍戦の比ではないくらいひどい報復合戦が繰り広げられたと聞くから、球団の暴力体質ではヤクルトも読売といくらも違わなかった。だが、少なくとも「××軍は紳士たれ」などという言葉が実態から呆れるほど乖離していたことは間違いないし、当時の死球合戦で野村克也と長嶋茂雄のどちらがより悪質だったかといえば、それは文句なく長嶋だったに違いないと今でも思っている。長嶋には現役時代の1968年に甲子園でバッキーと荒川博が殴り合いをやった試合でも、感心しない言動があったという。私は長嶋が極悪人だとまでは思わないが、普通の人間と同じように欠点も多数持った人であって、その人に対する批判をタブーにするなどということは決してあってはならない。
真にたちが悪いのは長嶋個人よりも読売球団の体質であって、90年代で思い出しても腹が立つのは広沢克己とジャック・ハウエルが相次いで読売に移籍したことだ。長嶋が読売の監督を辞めたあとでも、ペタジーニ、ラミレス、グライシンガーなどが次々と読売に強奪された。あの当時は、ヤクルトは読売の二軍で、広島は阪神の二軍か*1、などと言われたものだ*2。特に野村克也がヤクルトを退団したあとは「金の力に屈した」イメージが強い。
長嶋茂雄は、読売の金権補強が全盛期の頃、無邪気に「誰それがほしい」と言っては球団に獲ってもらったものの、その選手の力を生かし切れずに負けるダメ監督だった。
「名選手必ずしも名監督ならず」の見本のような人間、それが長嶋だ。