kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

1993年に小選挙区制を批判した佐藤毅・東京新聞元編集局長は元中日ドラゴンズ球団社長だった

1993年から94年にかけては、人生最大の多忙期だった。この期間に多くのものを失い、最後には1995年に過労と因果関係があるかもしれない大病を得たのだった。時あたかも阪神大震災地下鉄サリン事件のちょうど間。入院前に阪神大震災一色だったマスメディアの報道は、退院してみるとサリン事件とオウム真理教一色だった。退院後もしばらく自宅療養していたので、1995年4月は人生でもっとも多くテレビのワイドショーを見た時期だった。上祐史浩江川紹子有田芳生の顔を見ない日はなかった。プロ野球セ・リーグでは、前年の優勝チームにして下馬評が高かった読売と開幕3連戦を戦ったヤクルトが、開幕戦では斎藤雅樹に完封されたものの第2戦で9回に完封目前の読売・桑田の危険球退場を機に一挙5点を挙げて逆転勝ちすると次の3戦目にも勝ち、続く神宮球場に前年読売との最終戦決戦に負けて2位だった中日を迎えた3連戦に3連勝すると(その初戦で前年の最多勝投手・山本昌をKOして勢いに乗った)、そのまま首位をひた走った。中でも痛快だったのは、神宮での対読売4回戦で近鉄から移籍した吉井理人槙原寛己に投げ勝った試合だ。吉井が後年メジャーリーグでも結果を残せたのは、この年の劇的な復活あってのことだった(裏を返せば、1994年まで近鉄の監督を務めた鈴木啓示がいかにひどい監督だったかということでもあるが)。そのひどさはイチローを冷遇したオリックス土井正三(故人。元読売)と並び称されている。後年両球団が合併に追い込まれたのは、鈴木と土井という2人の兵庫県出身の無能監督の寄与もあったかもしれない。

とまあ例によって脱線してしまったが、「メークドラマ」を長嶋茂雄が言い出したのが実はヤクルトに9勝17敗と大敗して3位に終わったこの1995年であり、当時ヤクルト監督の野村克也がこれを「負けドラマ(make drama)」とローマ字読みして馬鹿にしていたことは、2001年まで長島が監督を務めていた時代には「なかったこと」とされ、ネット検索をかけてもなかなか引っかからなかったくらいだ。なお、現在では「メークドラマ 負けドラマ」でググると、筆頭に表示されるメークドラマ - Wikipedia

メークドラマ」は1995年に低迷する巨人のナイン(選手)に奮起を促すため、あるいはマスコミに対して逆転の意志を表すために、監督の長嶋によって使われ始めた。しかしこの年は結局ペナントを逃し、リーグ優勝したヤクルトスワローズ監督の野村克也からは、ローマ字読みにひっかけて「負けドラマ」と揶揄されていた。

という正確な情報を得ることができる。なお私は、野村克也が言い出す以前、長嶋茂雄が最初に「メークドラマ」と口走ったときに、「何言ってやがる。『負けドラマ』だろうが」と直ちに思った*1。野村が「負けドラマ」と言ったと知ったときには、「やっぱりノムさんも同じことを考えるんだなあ」と思った。勝手な想像だが、ノムさんや私と同じことを考えたヤクルトファンは多いのではないか。というのは、当時の首位はヤクルト(2位は広島)だったから、「メークドラマ」をやられたらヤクルトが負けの当事者になってしまうからだ。そんなことになってたまるかと敵をこき下ろすのは当たり前なのである。

だが、私が自宅でもインターネットをやるようになった1997年以降のある時期には、ほんの少し前の野村克也の「負けドラマ」発言さえなかなかネット検索で引っかからないくらいだった。だから、ネット検索は過去の出来事に弱いことに私は早くから気づいていた(ネット検索をかけた時点で話題になっていることに関しては滅法強いが)。

今は当時より少し前の過去の出来事のネット検索で情報が得られることが多くなった。従来それが苦手だったのは、マスメディア各社の記事のリンク切れが早いことと関係があるかもしれない(新聞社もリンク切れが早いが、放送局はもっと早い)。個人ブログその他はブログの閉鎖やブログサービスの停止がない限りリンク切れにはならないので、手前味噌だが「稲田朋美加藤紘一の実家の放火を笑いものにした」2006年の一件なんかも、この日記の記事で発掘されたりもする。

だが、少し前の90年代あたりの出来事になるとそれも難しい。だから、1993年に東京新聞元編集局長・佐藤毅氏が紙面に小選挙区制を「平成最大の愚挙」として批判するコラムを書いていた情報も、以前ネット検索をかけた時にはみつけることができなかったのだった。

以上は長い長い前振りで、やっと本論につながった。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20170109/1483932978#c1484197842

id:axfxzo 2017/01/12 14:10

見つけた。
何のことはない。搦め手から攻めればよいだけだった。
國弘さんの発言、つまり雑誌『世界』を見ればよい。
タイムカプセル(段ボール)を開けてみたらやはりあった!
94年の2月の世界である。
『私がガンバル理由』という先生の
お話に何年何月何日とまで明示されていた。
『平成最大の愚挙』
(93年11月16日)

東京新聞編集局長、佐藤毅さんのコラム、ソノモノズバリの評語(by國弘さん)である。インタホンという編集局長のコラムであった。(後略)


http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20170109/1483932978#c1484199323

axfxzo 2017/01/12 14:35

あったあった!
社説のとなり、投書欄のど真ん中に縦にデカく『平成最大の愚挙』と、編集局長自らが手厳しく順序立てて批判しております。
当時、オックスフォードからレクチャーと選挙制度事情の取材で半年ほど市ヶ谷から消えていた真澄さんが帰国したら『守旧派が帰ってきた』と会社で揶揄されたとか言われていた。その彼くらいしか明確に筋道立てて『反対』のコラムをやらなかった。社説はもちろん、そこかしこに時代の流れなんだからの考えでもって『選挙制度こそが本丸』と細川さん万歳!豪腕小沢や鼠小僧書記長の挙動を面白おかしく伝える風潮だった。先年になくなった加藤さんなどは『熱病』と評していた。
そんな時代、火曜の朝日『現在史ウォッチング』はアカデミックジャーナリスト石川さんのレクチャーの場所であり、多分に学ぶところあり…殆ど唯一のこの問題のオアシスみたいなものでもあった!
それだからこそ、この佐藤毅さんの主張は強烈なインパクトだった。
しかも編集委員ではない。この新聞社のキャップ、局長のコラム!
これは現在、副主幹というお偉い肩書きの長谷川幸宏とは雲泥の差であると言えよう(笑)。
もちろん、東京新聞も中日も第八なんとかのお仲間であり、当然、小沢たちの『改革』のパシりに過ぎないのだが、祖式ということを思えば、重役待遇(by真澄さん)の編集委員
のもの申すとは異なる緊張感もあったろう。まして、繰り返すがあの時代のことである。(後略)


貴重な情報提供ありがとうございます。上記記事は中日新聞縮刷版の1993年11月16日付記事に載っているとの認識で良いでしょうか。

なお、ネット検索で佐藤毅氏について検索してみると、佐藤氏は1931年生まれの85歳で、一昨年に下記の発言をしている。
【15.09.10】佐藤毅さん(元東京新聞編集局長)―真実の報道に徹しなければ:革新・愛知の会

 最近、権力者の発する言葉がとみに「空疎」に感じられてならない。折角の国会中継なども、まったく真実性が感じられず、空しくなって切ってしまうことが多い。
 昔から「政治的発言」と言って、政治家の発言はあまり信用できないものとされているが、それにしても今の権力者の発言は「三百代言」に近い。狙いは初めから決まっており、後は国会で「どうごまかすか」「どう言い逃れるか」だけだから、答弁は自ずから空疎になってしまうのだろう。
 いや、もう一歩突っ込んで言えば、官僚作文を上手に使って、空疎な饒舌で審議を空転させ日程を消化することが、権力者の政治的手腕と目されているとも解釈できる。野党の論客たちはこの議論の空転を打破することができず、堂々巡りの質疑応答を繰り返す。「もう、いいジャン」、権力者の口からこんな低俗な野次が飛び出すのも、自公連合が国会両院で「絶対多数」を占めているという数のおごりであろう。

 「憲政の神様」と称された故・尾崎行雄翁はかつて「国会は議事堂ではなくして、単なる表決堂である」と、喝破された。現在の国会は、まさに表決堂にすぎない。歴史の流れから見て、空しい言葉を弄ぶ権力者にはやがてそれ相応の報いが来る、と信じたい。

 顧みて、わが新聞界。戦後数十年「報道の自由」の名分に守られながら、果たしてそれに値する「真実の言葉」を述べて来たか、どうか?これから難しい時代がやって来る。真実の報道に徹しなければなるまい。

*佐藤毅さんは、2006年2月号インタビューに登場され、「憲法の理想を守らねば」と語っていただきました。


また、佐藤氏に関して下記の情報も得られた。

中日新聞、佐藤毅氏をお迎えしての歓迎、後援会 : サンフランシスコ稲門会活動状況(2004年6月14日)より

佐藤氏は岐阜県のご出身で、1954年早稲田大学政治経済学部卒業の後、中日新聞入社。長野支局を振り出しに、東京、名古屋社会部を経て、84年東京中日スポーツ総局長、86年東京新聞(中日東京本社)編集局長、95年専務取締役編集担当からプロ野球中日ドラゴンズ代表取締役に就任。99年セ・リーグ優勝を体験されました。2001年中日ドラゴンズ社長を辞任され、現在、中日新聞中日ドラゴンズの相談役を務めておられます。著書に「ベタ記事恐るべし」(サイマル出版会)、「勝負の秘密」(共著、東京中日新聞出版局)、「新一日一言」(河出書房新社)などがあり、昨年12月に「敗戦の教訓」(河出書房)を出版され、現在北米毎日新聞に連載されております。

佐藤氏は東京新聞の重役記者をやったあと、1995年(!)に中日ドラゴンズの球団社長に就任し、2001年に辞任って……。それって第2次星野仙一政権の頃じゃん。ヤクルトは第2次星野政権時代の中日に痛めつけられた嫌な思い出がある(特に1996年の大幅負け越しや99年の星野仙一神宮胴上げ=但し中日の優勝自体は時刻の早い読売の横浜戦敗戦で既に決定していた=などはおぞましい思い出だ)。でも星野仙一の幻影を振り払って思い出してみると、あの頃球団経営でもっとも高く評価されていたのは横浜ベイスターズだったが、中日の佐藤球団社長といえば、確かベイスターズに準じるくらい評価されていた人で、その(もちろんプロ野球に関する)コラムも注目されていたのではなかったか。そんな遠い日の記憶がかすかにあったりする。そのリベラル派の球団社長とあの極悪非道の暴力男・星野仙一とがよく一緒にやっていけたものだが、1999年の中日優勝も、もしかしたら星野仙一よりもこの佐藤毅球団社長の貢献の方が大きかったのではないかと思ってしまった。

ところで2001年にはマルハが横浜の球団経営を投げ出して、中日の佐藤氏も球団社長を辞した。2001年に積極的球団経営でリーグ優勝という結果を出したのは、パ・リーグ近鉄バファローズだったが、(マルハも同様だったのだろうが)積極経営で優勝は勝ち取れても観客増による収益改善をもたらすことはできず、それが2004年のオリックスとの合併につながった。当時東京キー局のアナウンサーが「長嶋さんの悲しむ顔は見たくありません」と絶叫し、在阪キー局は近鉄オリックスなど存在しないも同然の扱いで「阪神阪神」と連呼していた(今でも同様だろうが)ことが、日本プロ野球のいびつなあり方をさらに悪化させた。その結果、まっとうな球団経営が、一部特権グループの球団を除いて収益増をもたらせないという不健全そのもののプロ野球界の体質悪化につながり、それが2004年の球界再編劇をもたらした。その2年後の2006年頃から、広島市民球場横浜スタジアム、あるいは交流戦でのオリックス主催試合のそれぞれの読売戦あたりから地上波の読売戦中継が姿を消し始め、今では地上波でのプロ野球中継はほとんどない。しかし一方で、近年の広島東洋カープ北海道日本ハムファイターズのように、正当な球団経営の努力が報われるようになった。横浜DeNAベイスターズも、親会社はろくでもないが球団の積極経営には成功しつつあるといえる。読売は今でも不当な特権を持つ球団だが、かつての第2次長嶋政権時代ほどではなくなり、遅ればせながら普通の球団に近づいてきた(今年はまた異常な大量補強であがいているが、それらが球団の収益改善につながらないことがわかれば長い目で見ればやらなくなるかもしれない)。

当時の「何があっても長嶋読売びいき」のプロ野球報道と、今の「何があっても小池百合子びいき」あるいは「何があっても安倍政権肯定(あるいは追認)」という政治報道は、分野は全然違うけれどもマスコミ人のあり方としては同じだと私は思う。ここまで述べてきたアナロジーによれば、このあと遠くない未来(数年後あたりか)に大きな地殻変動が起きることが予想される。安倍政権の政策は誰が見ても持続不可能なものだから、どこかで何らかの歪みエネルギーの解放が起きることはほぼ確実であろう。ただ、たかがプロ野球とは違って政治の地殻変動は国民生活に大きな影響を与えるものだから、破壊衝動は禁物だとも思うが。

結局とりとめのない記事になってしまったが、今日はここまで。

*1:当時の読売で覚えているのは、5月頃に福岡ドームで横浜のブラッグスにホームランを打たれて8連敗を喫したことだったりする。「メークドラマ」なんて、長嶋(読売)のくせに生意気だ、と強く反発したものだ。