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広島東洋カープの三村元監督が死去

asahi.com(朝日新聞社):元広島監督の三村敏之さん死去 61歳 - スポーツ

元広島監督の三村敏之さん死去 61歳

2009年11月3日16時15分

 プロ野球広島の元監督で、楽天の編成部長を務めていた三村敏之(みむら・としゆき)さんが3日午前、仙台市内の病院で死去した。61歳。今年は肝臓の手術をして療養するなど体調はすぐれなかった。

 三村さんは67年に広島商高から広島に入団。攻守に堅実な遊撃手として活躍し、ベストナインに3度選出され、75年のリーグ初優勝に貢献した。83年に現役引退。17年間で1567試合に出場、打率2割5分5厘、149本塁打。広島でコーチや2軍監督を務め、94年から5年間、監督として指揮を執った。

 監督時代は優勝は果たせなかったが、江藤智内野手金本知憲外野手らを起用し、育てた。07年12月からは楽天の編成部長を務め、10月29日のドラフト会議にも出席した。

asahi.comより)

これは急な訃報だ。29日のドラフト会議に出席してからわずか5日しか経っていない。

三村の現役時代も知っているが、90年代に広島の監督を務めていた頃も思い出す。山本浩二監督のもと、1993年に最下位に転落したチームの監督に就任し、1994年は開幕戦で巨人に大敗するなど、前半戦はさっぱりで最下位に低迷したが、開幕戦で負けた巨人を3タテして勢いに乗り、首位を独走していた巨人を急追して、あわや逆転優勝かというところまで行った。結局最後の最後に失速して巨人には追いつけず、あとから追い上げてきた中日に抜かれて3位に終わったが、最終戦で巨人と勝った方が優勝というところまで行った当時の中日のエース・山本昌は「僕らはカープに刺激されてここまで頑張ってこれた」と言っていた。勝った巨人の長嶋監督が「国民的行事」と呼んだ最終戦決戦は、三村監督率いるカープの奮戦なくしてあり得なかった。

翌1995年には、野村監督率いるヤクルトが独走したが、この年も夏場でヤクルトを急追した。当時、ヤクルトの野村監督が「今年の日本シリーズはOM対決やな。仰木(オリックス監督)のOと三村のMや」とぼやいたことがある。シーズン開幕前、ダイエーの新監督となった王貞治と巨人の長嶋茂雄による「ON対決」をマスコミが期待していたものの、両リーグの首位はオリックスとヤクルトであり、仰木と野村による「ON対決」になりそうな展開だったのだが、広島の急追を受けたことをぼやくとともに、王と長嶋の対決を期待してはやし立てていたマスコミに皮肉を言った、野村監督らしいぼやきだった。結局、この年はヤクルトがスパートして広島は2位に終わった。

1996年には、一転して広島が首位を走った。この年の春、甲子園球場阪神との試合を観戦したが、阪神をまったく相手にせず、走塁に、守備に、広島の選手がまるで本拠地で試合をするように、甲子園のグラウンドを六甲颪を受けながら颯爽と駆け抜けていた。今年の広島は強いなあ、と感じさせる試合だった。この年、広島のライバルと見られたのは中日であり、まさか広島と中日のはるか下にいた巨人が「メイク・ドラマ」をやらかすとは思いもしなかった。結局この年のチャンスを逃して3位に終わった広島は、翌97年も3位だったが、優勝したヤクルトと2位の横浜には大きく引き離された。そして、98年からは万年Bクラスのチームになってしまい、今季で12年連続Bクラスになっている。その間、セ・リーグでは、まず巨人、次いで阪神が金権補強を行うようになり、広島は99年のオフに江藤が巨人に、02年のオフには金本が阪神にそれぞれ移籍した。阪神入りを断って男気を見せたエースの黒田も、翌年にはドジャースに移籍した。これでは誰が監督をやっても優勝など夢のまた夢だろう。

結局三村監督の下で優勝はできなかったものの、広島が強かった時代の最後の輝きを見せてくれたという印象が強い。心からご冥福をお祈りしたい。