kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「銀河鉄道の夜」の最終稿から姿を消した「ブルカニロ博士」

新潮文庫から出ている宮沢賢治の童話集「ポラーノの広場」を読んだ。買ったのは6年前だが、読まずに放ったらかしにしていたこの本に先日目が止まり、ようやく読んだものである。


ポラーノの広場 (新潮文庫)

ポラーノの広場 (新潮文庫)


この本は、新潮文庫から4冊出ている宮沢賢治童話集の4冊目で、先行して出版された同文庫の童話集「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「注文の多い料理店」よりしばらく遅れて出版された。左記3冊の童話集から漏れた作品の「落ち穂拾い」の趣があり、「風の又三郎」の先駆稿である「風野又三郎」や、「銀河鉄道の夜」の初期稿も読める。

個人的な感慨を語ると、この季節に宮沢賢治を読むと、もう30年も以上前に岩波文庫宮沢賢治の童話集を初めてまとめて読んだ時のことを思い出す。学校の春休みに読んだものだ。

岩波文庫版の「銀河鉄道の夜」は、谷川徹三が編集したものだが、古い底本を用いているので、現在新潮文庫天沢退二郎編)に収録されている、最終稿に基づく版と、前述の初期稿を折衷したものになっている。しかし、初期稿にのみ出てきて最終稿には出てこない、「ブルカニロ博士」が主人公のジョバンニに語る言葉は、30年以上前の春休みに初めて通して読んだ「銀河鉄道の夜」の中でも特に印象に残るものだった。

銀河鉄道の夜」は、その時読んだ谷川徹三岩波文庫収録の最終稿と初期稿の折衷版、15年ほど前に読んだ天沢退二郎新潮文庫収録の最終稿、それに今回読んだ同じく天沢退二郎新潮文庫収録の初期稿の三通りを読んだことになるが、作品の考証の上では問題含みであろう谷川徹三版に捨てがたい愛着を感じる。最終稿の方が初期稿よりずっと良いのだが、初期稿にのみ出てくるブルカニロ博士の言葉は捨てがたいのである。

宮沢賢治研究が進んでいなかった昔は、谷川徹三岩波文庫版のように、最終稿をベースにしながらも、それにブルカニロ博士が出てくる初期稿をミックスすることはごく普通に行われていたと思う。1989年に現在の版が出る以前は、新潮文庫版も同様だったのではないか。しかし、現在ではブルカニロ博士の出てこない最終稿になじんでいる若い読者が多く、博士が出てくる初期稿を読んで新鮮な驚きを感じるのだそうだ。これを知って、博士が出てくる版を最初に読んだ私は、自らが旧世代に属する人間であることを痛感させられた。

もっとも、物語の最初と最後の部分以外は初期稿(第3次稿)も最終稿(第4次稿)も変わらない。「銀河鉄道の夜」は読み進むにつれてどんどん引き込まれていく作品であり、やはり宮沢賢治の童話の中でも最高傑作だと思う。

ところで、30年以上前に折衷版を初めて読んだ時も、今回初期稿を読んだ時にも思ったのだが、どうしてこの作品に出てくる登場人物の名前はイタリア語なのだろうか。主人公の「ジョバンニ」は英語のジョン、ドイツ語のヨハン、フランス語のジャンに相当するありふれた名前で、一方、カムパネルラはイタリア語で「鐘」(教会の鐘)を意味する。もっとも、このカムパネルラ(カンパネラ)はイタリアの姓として用いられているけれども、名前には用いられないのではないかと思う。二人を日本語にたとえてみれば、太郎くんと金子くんといったところだろうか。30年以上最初に読んだ時には、カムパネルラという名前からリストの「ラ・カンパネラ」(原作はパガニーニのヴァイオリン曲)を思い出すとともに、物語の結末を知る前からなぜか不吉さを感じさせる名前だと感じたのだけれど、今回は、なぜ宮沢賢治はイタリア語の名前を登場人物につけたのだろうかと思った。