kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

与謝野馨は戦争協力者に転向して晩節を汚した祖母・与謝野晶子に倣うのか?

平沼赳夫が戦前の元検事総長にして極右で悪名の高い平沼騏一郎の養子だが、与謝野馨反戦歌人として名高い与謝野晶子の孫である。これをもって、「戦争と平和が手を組んだ」と評する人がいるが、実は与謝野馨の祖母・晶子は晩年、戦争協力者に転向していたのである。

http://www.vega.or.jp/~toshio/kimi.htm より。

(前略)
 このように大正時代の晶子は、わりとはっきりした反戦平和論を展開していたのだった。ところが昭和六年(一九三一)九月に十五年戦争の第一段階としての満州事変が勃発し、翌年にはそれと関連して第一次上海事変が起こり、一方、満州国という日本の傀儡国家が樹立され、中国への侵略が次第にエスカレートする頃になると、驚くべきことに晶子は俄にこれを支持する立場をとるのである。
 昭和六年に晶子は『東四省の問題』という評論を発表している。ここで晶子はまず「私は以前から、支那の国民と其の支配者たる各種の軍閥政府とを別々のものとして考えている」といった誤った中国観をのべ、近来中国に盛んな排日運動はすべて軍閥政府と少数の学生、商人の煽動によるものとしている。つまり晶子には中国の民衆の排日運動は、日本の侵略に対する反発から来ているとの認識が全くなかったのだ。
 そしてまた晶子は、中国のような膨大な版図を持つ国は、一政府の下に統一されるよりも、すくなくとも三、四の連邦に分かれた方がいいとしているのである。
 昭和七年に発表された『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と述べている。晶子には満州国は日本の侵略によってでっち上げられた傀儡国家であるといった認識は全然無く、むしろ東北部の中国人を軍閥の圧制から解放する自由楽土として、その成立を手放しで歓迎しているのである。
 また『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べて、これまた手放しで日本の侵略戦争を支持している。
 また同じ年に晶子の夫の鉄幹も、軍歌『爆弾三勇士』や『皇軍凱旋歌』といった軍歌を作って、国民の戦意昂揚のためにつくしているのを見ると、夫婦一致で戦争協力の体制をとっていたことが分かる。

 こうした十五年戦争初期の晶子の評論を見ると、大正時代に見せた反戦平和論者としての面影は全く見られない。晶子はなぜ昭和に入ってから、おのが思想信条を百八十度転回させるに至ったのか。そこに転向者としての苦悶のあとが少しもないところを見ると、従来の彼女の反戦平和論議大正デモクラシーの波に便乗した付け焼き刃的なものであったのかもしれない。
 昭和七年の元日に彼女が書いた『日本国民たることの幸ひ』という評論をみると「私の常に感謝している事が幾つかある。中にも第一に忝なく思う事は、日本に生まれて皇室の統制の下に生活していることの幸福である」という書き出しがあり「日本は同じ法治国と云っても、権利義務の思想のみを基本とする国でなく、先史時代より皇室を中軸として其れに帰向する国民の超批判的感情に由って結合された国である」とか「現に満蒙の野に戦死する支那兵にしても、軍閥の強制の下に、軍閥の支持を目的に死なしめられるのであって、我国の軍隊が陛下の大権に由り、極東の平和を確保する正健な目的のため、陛下の将卒として戦うのとは全く意義を異にしている」といったことを述べている。
 つまり晶子は『君死にたまふことなかれ』を書いた頃より一貫して皇室尊崇者としての立場を守り、皇国史観に基づく歴史観、世界観、戦争観、軍隊観を持ち続けてきたのである。ヒューマニズムに基づく反戦平和論を唱えていた一時期でも、晶子が抱くこうした基本的なイデオロギーは変わらなかったものと思われる。これでは晶子が、日本の中国に対する侵略戦争の実体を見抜けず、それを支持したのも当然と言わねばなるまい。(以下略)


安倍晋三福田康夫麻生太郎鳩山由紀夫は揃いも揃って偉大な祖父や父の影響を受けていることをあからさまにしているが、与謝野馨もまた、偉大な祖母に倣って、戦犯の養子である極右政治家と組んで晩節を汚すのだろうか。

もっとも、上記の引用文を読むと、晩年の戦争協力者としての姿の方が与謝野晶子本来の姿だったと解することができる。同様に、中曽根康弘の直系として政界入りした与謝野馨は、ここにきて本来の姿を取り戻しているのかもしれない。