kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「日米繊維交渉」密約のメモを焼却した若泉敬

http://www.asahi.com/politics/update/1126/TKY201011260221.html

繊維密約、キッシンジャー氏履行要求 70年外交文書

2010年11月26日15時0分


 沖縄返還を進めるために日本が対米繊維輸出の自主規制に向けた秘密交渉を約束したとされる1969年の「日米繊維密約」について、キッシンジャー大統領補佐官が翌年、日本側に履行を強く迫っていたことが明らかになった。外務省が26日に公開した外交文書に、生々しい発言が記録されていた。

 キッシンジャー氏の発言が記されていたのは、70年10月12日付の「日米せんい問題」と題した電報。当時の牛場信彦駐米大使が、フラニガン大統領補佐官らとホワイトハウスで行った会談について、愛知揆一外相に報告するために送ったもので、「極秘」「至急」扱いとなっていた。

 牛場氏はフラニガン氏を訪ねたのに、「席上にはキッシンジャーも待ちうけており」と驚きを記している。

 キッシンジャー氏は牛場氏に「これだけは自分の発言として貴国(日本)政府にお伝え願いたい」と切り出し、「(ニクソン大統領の)この問題に対する関心は非常なものがある」「先般(69年)サトウ総理御来訪の際、早期解決につき話し合いがあったことも御承知と(の)通り」と続け、「単に交渉議事録をふやしてゆくことにはきょう味はない」と述べている。

 繊維交渉に詳しい日大の信夫隆司教授(日米外交史)は「キッシンジャー氏の発言は大統領の強い要求のあらわれだ。この会談で日本側にだめ押しした」と指摘する。

 これに対して牛場氏は輸出規制について「業界の説得にはおのずから時間がかかる」と釈明。一方で「現在秘密をたもつため接しょう(折衝)の経緯はミヤザワ(宮沢喜一・通商産業)大臣に全部電話で報告しているが、貴官の今回述べたところは直接総理のおみみに入るようとりはかる積りである」と告げた。キッシンジャー氏は「ではぜひそう願いたい」と引き取った。

 佐藤栄作首相の「密使」とされた国際政治学者・若泉敬氏は著書の中で、69年にキッシンジャー氏との間で(1)繊維の輸出規制(2)沖縄返還後の核再持ち込み、の二つの密約交渉をしたと明かしている。繊維輸出と沖縄返還をからめた日米交渉は「糸(繊維)と縄(沖縄返還)の取引」とも言われてきた。

 結局、71年に繊維交渉は決裂して宮沢氏は辞表を提出。交渉は次の通産相田中角栄氏に委ねられた。(鶴岡正寛)


記事中に、若泉敬の著書(『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』)への言及があるが、若泉は、沖縄密約については詳しく書いているものの、日米繊維交渉については多くを書き残さなかった。

以前、当ブログで紹介した*1ように、若泉は、アメリカが「核抜き」沖縄返還を認めてくれるのだから、佐藤栄作首相(当時)は日米繊維交渉でアメリカの言う通りにしてやれ、そういう態度をとってくれなければキッシンジャーと話ができない、そう佐藤首相に迫った。

しかし、その若泉は、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を書き上げたあと、若泉は日米繊維交渉に関して持っていた膨大な資料をすべて焼却し、闇に葬ったという。そこには、若泉にとって不名誉な事実が多く記されていたであろうことは想像に難くない。

同書の「新装版に寄せて」に手嶋龍一が書いたように、それは若泉にとっても日本にとっても忌むべき合意だったに違いない。手嶋は、「日米関係の文脈からは、庭で燃やされた資料こそ貴重だった」と書いたが、それは永久に失われてしまった。日米繊維交渉は、1971年に田中角栄通産相(当時)がアメリカの意をほぼ全面的に受け入れ、日本の繊維業界にカネ(税金)をばらまく形で決着したが、田中がそう決断せざるを得なかった裏には、若泉が絡んだ密約があったことは間違いない。

「糸(繊維)と縄(沖縄返還)の取引」は、「糸」も「縄」もアメリカの思い通りになってしまったのではないか。昔も今も、自民党政府だろうが民主党政府だろうが、日本外交の拙劣さは変わらない。

明日28日は、沖縄県知事選の投票日である。当ブログは、伊波洋一候補を支持している。