kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ニクソン大統領、怒りの書簡判明 佐藤栄作首相に宛て(朝日)

あの(池田香代子氏が心酔する)若泉敬が、沖縄密約に関する詳細な著書を残した一方で、書類を全て焼却して闇に葬ったあと自殺した、ニクソンと(あの孫崎享が崇拝する)佐藤栄作による「日米繊維密約」に関するニュース。

http://www.asahi.com/articles/ASG7R6J3DG7RUTFK01F.html

ニクソン大統領、怒りの書簡判明 佐藤栄作首相に宛て

津阪直樹

 繊維の輸出規制を巡って日米間で激しい応酬が繰り広げられた1970年前後の日米繊維交渉の過程で、ニクソン米大統領佐藤栄作首相宛てに「失望を隠すことができない」との書簡を送っていたことが明らかになった。日本政府の対応に強い怒りを示したもので、首脳レベルでのこうしたやりとりは異例だ。

 外務省が24日に公表した外交文書で裏付けられた。米国はすでにこの書簡を公開していたが、日本では存在が確認されていなかった。米側はこの書簡を機に攻勢を強め、最終的には日本側に主張をのませた。交渉の転機を示す重要な資料の一つといえる。

 71年3月12日付の書簡は「ニクソン大統領より佐藤総理へ(要旨)」と題されている。69年に始まった繊維交渉は、緩やかな規制を求めていた日本と、政府主導による厳しい輸出制限を要求する米側が激しく対立。70年12月に決裂した。

朝日新聞デジタル 2014年7月24日16時35分)

この件を少しかじった人間にとっては特に新しい情報はないが、日本で資料が(遅まきながらほんの少しだけ)公開されたことがニュースなのだろう。

今朝(7/26)の朝日にも続報が出ているが、この件をほぼアメリカの意に沿う形で決着させたのが、宮澤喜一のあとに佐藤内閣の通産相になった(小沢一郎の師匠の)田中角栄であったことには触れていない(田中角栄の名前を出していない)。小沢一郎はそれを覚えていたからか、のちの日米構造協議でアメリカに譲歩しまくった。このことは以前書いたが再掲する。

TPPと日米構造協議・日米繊維交渉 - kojitakenの日記(2011年11月10日)より

(前略)
アメリカとの交渉といえば、1989〜90年の「日米構造協議」で小沢一郎アメリカの言いなりになったことが思い出される。4年前、2007年のテレビ朝日サンデープロジェクト』における発言を、私は『きまぐれな日々』に記録していた。以下引用する。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-498.html より。

田原は、今日(11月11日)のサンプロで、「日米構造協議(1989〜90年)の時、アメリカに譲歩ばかりする小沢一郎に問い質したら、『日本がなくてもアメリカはやっていけるけど、アメリカがなかったら日本はやっていけないだろ』と答えた」と言っていた。これは何も今日初めて言ったわけではなく、以前にも田原が言ったり書いたりしていたことだ。

上記は、小沢一郎福田康夫の「大連立」構想が露見して頓挫した直後の番組で田原が語ったことだ。

日米構造協議から遡ること20年弱、日米政府間の難題だったのは「日米繊維交渉」だった。沖縄返還に絡んだ密約で時の首相・佐藤栄作の「密使」を務めた若泉敬は、繊維交渉における秘密交渉でも暗躍した。しかし、密使のことなど知らない時の通産大臣宮澤喜一アメリカ側に若泉が関与した秘密交渉のメモを見せられても取り合わなかったという。宮澤は強硬な態度を貫いた。沖縄返還に関しては「密約」が成立したが、繊維問題ではニクソン佐藤栄作は決裂した。

この問題を解決したのは宮澤の後任・田中角栄だが、田中はアメリカの要求を丸呑みする代わりに、日本の繊維業界の損失を、日本国民の税金で補填するという解決策をとった。のちの日米構造協議における小沢の「弱腰」も、師の田中角栄から学んだが故ではなかったか、と嫌味の一つも言いたくなる。
(後略)