kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

星野仙一の手羽先だった元中日・岩本好広「町長」の悪行三昧に呆れる

『きまぐれな日々』にいただいたコメントより。


http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1203.html#comment12473

最近「自身の給与の削減」をうたう候補者が首長選挙で目立ちます。
「自分はこんなにも街の財政に真剣に取り組んでいるんだ」という単純な人気取りですが、私はこの手の政治家を信用しないことにしています。
むしろやるべきことをやってくれるなら、首長の給与は相応の額であるべきだと思います。


さてそんな「報酬半減」をぶちあげて当選した河村名古屋のお隣に大治町という町があります。
「町」とはなっていますが、人口は3万以上、人口密度は5000人にもなるかなりの過密な町です。
ここの町長は岩本好広。元中日ドラゴンズ選手でもあり、一方では何度も不祥事を起こした人物でもあります。


岩本氏は自分を河村にたとえ、自分の報酬を削減すると公約を出して、あの「税金を使わない社会が良い社会」という世迷い言の政党「みんなの党」の推薦を受けて当選しました。
ところが岩本町長は公約を翻したのですね。理由は「町議が一緒に給与の一部を返上しないなら自分もやらない」ということのようです。


何を言っているのですか、この町長は。
公約は「自分の給料を減らす」と言っていたのだから、どうしてもやりたいのなら自分だけ返上すればいいじゃないですか。
「他人の給料も減らないから嫌だ」というのは、言いかえれば「貧困の横並び」を望むルサンチマン層と何ら変わらない言い分です。


河村の劣化コピーの正体とはこんなものなのです。


2011.07.29 23:19 飛び入りの凡人


これは知らなかった。
岩本好広という元プロ野球選手なら、しばしばその名前を聞いたことがある。星野仙一が中日の監督に就任した1年目に阪急とのトレードで中日に移籍し、選手としての実績はほとんどないけれども、星野仙一が好んだ乱闘騒ぎでは必ず先頭を切って飛び出した「武闘派」だ。だから星野にかわいがられた。

ちょっと調べてみると、岩本は1982年から86年まで阪急に、87年から90年まで中日に在籍していたが、中日時代の4年間に放ったヒットはわずかに11本(68打数)。1割打者だった*1。さすがに1990年限りで現役を退いたが、星野仙一のおぼえめでたく、1991年には中日のコーチに就任した。コーチとしても無能だったらしく、星野仙一の後任監督・高木守道はそれでも我慢して岩本を2年使ったが、岩本は1993年限りで中日を退団した。

その後の岩本の経歴を、Wikipediaから引用する。

1993年オフに中日を退団後、まつ毛パーマの店、ラウンジ、リフォーム会社等を経営。その後、愛知県海部郡大治町で2003年から町会議員を務めるが、ほかの町会議員と暴力事件を起こし再び話題となった。本人は否認しているものの、相当のアザができていたという[要出典]。

2008年7月19日未明、名古屋市内で、酒気帯びで乗用車を運転し、物損事故を起こしていた。警察の調べに「マージャンをしながらビールを飲んだ」と自供し、職業を 「無職」と申告していた。

2010年5月30日に行なわれた大治町長選挙ではみんなの党から推薦を受け「名古屋市との合併推進」・「町民税10%減」を公約として立候補し、あま市との合併推進を掲げた前職を僅差で破り初当選を果たす。選挙活動では中日時代のユニフォームを身に付け、自転車で選挙区を回っていた。なお、地方でのみんなの党推薦候補では初めての当選首長になる。


こんな人間でも町会議員になれて、あまつさえ町長にまでなってしまうのだから呆れる。岩本は、愛知県海部(あま)郡*2ではなく、同じ愛知県でも半田市の出身だそうだが、地元出身の元中日ドラゴンズ選手というと、名古屋近郊では「名士」なのだろう。さすがに町長選は接戦だったらしいが、それでもこんな人間の当選を許してしまう。

「町民税10%減」の公約といい、中日のユニフォームを着て自転車で選挙区を回るパフォーマンスといい、「飛び入りの凡人」さんが言われるように「劣化版河村たかし」そのものだが、こんな岩本を「みんなの党」が推薦したことにも呆れる。やはり「みんなの党」とは「ポピュリズム政党」にほかならないと言えそうだ。

あげくの果てには、「町議が一緒に給与の一部を返上しないなら自分もやらない」といって公約さえ破るのだから、開いた口が塞がらない。


岩本好広は、典型的な「わしが育てた*3人間だ。「わしが育てた」やつにはろくな人間がいない*4ポピュリズムの行き着く先が、この岩本好広のごとき「モンスター首長」ならぬ「チンピラ首長」だといえるだろう。

*1:もっとも活躍したといえるのは1985年の阪急時代であり、87試合に出場して43安打、打率.276を残している。岩本は阪急時代には準レギュラーの控え選手だったこともあるが、中日時代には単なる乱闘要員だった。

*2:海部俊樹は愛知県の出身だが、愛知県の「海部」は「あま」と読み、「かいふ」と読む地名は徳島県にあるのだからややこしい。

*3:http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%8F%E3%81%97%E3%81%8C%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%81%9F 参照。

*4:中日や阪神星野監督時代に台頭した選手は、素質を自らの努力で開花させたのであって、「わしが育てた」選手とはいえない。「わし」は、強引なトレードなどの金権補強で一時期チームを強くしたが、中日にせよ阪神にせよチームの体質を「読売化」させた害毒の方がその功績をはるかに上回る。