kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

梶原一騎・正力松太郎・長嶋茂雄・天地真理

この時期になるとプロ野球の優勝争いが話題になるが、このところ思い出されてならないのが「1973年」のことである。

そう、あの読売ジャイアンツが「9連覇」を達成した年。読売の9連覇は、「60年代後半から70年代前半」というより、「昭和40年代」と言った方がぴったりくる時代のできごとだった。この時代は、高度成長時代(1955〜73年)の後半に当たり、東京五輪の翌1965年の「昭和40年不況」(証券不況、構造不況)の年に始まって、大阪万国博が行われた1970年(昭和45年)をピークとして、石油ショックの起きた1973年(昭和48年)に幕を閉じた。

その前半の時期に関する記憶は私にはほとんどない。大阪万国博は、私にとってその頃最大の関心事だった。プロ野球に関心を持つようになったのはその翌年あたりからで、江夏豊のオールスター戦での9連続三振を白黒テレビで見て熱狂した。

その当時流行っていたのが漫画とアニメの『巨人の星』だった。梶原一騎の原作で、川崎のぼるが作画した。『少年マガジン』の連載は1966〜71年、読売テレビ制作のアニメの放送は1968〜71年だった。いずれも読売が7連覇を達成した1971年に終わっている。

巨人の星』が終わったあとの1972年と1973年は、読売がペナントレースで苦戦した年だった。特に1973年は6球団の混戦となり、阪神が2試合を残してマジックナンバー「1」を点灯させながら、中日と読売に連敗して読売の9連覇を許してしまったのだった。

この年の夏休み、私は甲子園の高校野球サトウハチローが「雨に散った江川投手」に取り上げた試合を生で観戦したが、この夏休みの終わり間近には同じ甲子園で江夏豊が延長11回のノーヒットノーランを自らのサヨナラ本塁打で決めた。だが、この頃の甲子園は読売戦以外では客が入らず、江夏が偉業を達成した試合は読売を含めた三つ巴の首位攻防の中日戦だったが、観客数は公式発表で9千人(おそらく実数は6千〜7千人くらい)に過ぎなかった。その甲子園も勝った方が優勝という読売との最終戦は超満員で、阪神のふがいない敗戦に怒ったファンがグラウンドに乱入して読売の胴上げを阻止したのだった。

今にして思うと、というか今でもそうなのだけれど、プロ野球というのは「読売のための興行」だった。それを作り上げたのは正力松太郎で、正力は読売5連覇の年、1969年に死んだ。

その正力の作り上げた「まがいもの文化」を象徴するような劇画の原作者が梶原一騎だった。梶原一騎が死んだのは、昭和の終わりも間近い1987年(昭和62年)だったが、梶原の影響は現在にまで残っている。その最たるものが昨年末から今年始めにかけて話題になった「タイガーマスク現象」だろう。また、連載当時『巨人の星』や『タイガーマスク』をはるかに上回る人気を誇っていたのが『あしたのジョー』だった。よど号ハイジャック事件の犯人が犯行声明文に「われわれは明日のジョーである」と書いたほどだ。

梶原一騎について書かれた斎藤貴男の評伝は新潮文庫に入った時に面白く読んだけれども、捨ててしまって手元にはない。現在では新潮文庫版は絶版だが、文春文庫版で読めると思う。


梶原一騎伝 夕やけを見ていた男 (文春文庫)

梶原一騎伝 夕やけを見ていた男 (文春文庫)


最近、この本を捨てずにとっておけば良かったと思う。梶原一騎とは、正力松太郎が作り上げたもののうち、民放テレビとプロレス、プロ野球の人気高揚に深くかかわった男だからだ。プロレスには「タイガーマスク」なるレスラーも現れた。また、プロスポーツのみならず、天地真理早乙女愛といった芸能人の芸名も梶原一騎原作の劇画からとられた。

早乙女愛は昨年51歳で早世した。また天地真理は読売9連覇時代の最後の3年間(1971〜73年)に絶大な人気を博したが、読売の連覇がストップするとともに人気が急落し、読売が中日と優勝を争った1974年にはまだそこそこの人気を保っていたものの、読売が最下位に転落した1975年には天地の人気も天から地へと落ちていった。

先日、南沙織に関して書かれた本を読んでブログに記事を書こうとしていた時にネット検索にしきりに天地真理が引っかかったのだが、梶原一騎の劇画から芸名をとった、いかにも「作り物」の雰囲気に満ち満ちたこの人がタイムマシンで現在に現れたとしても「ゲテモノ」扱いされるだけで、あの当時のような爆発的な人気を得ることなどあり得ないだろう。ところが70年代前半とはおそるべき時代で、読売が9連覇を目前にした1973年10月7日には、「天地真理長嶋茂雄誘拐未遂事件」が起きた。


弐代目米八そばのblog 弐号店:本日10月7日は長嶋茂雄誘拐計画が未遂に終わった日だそうです より。

本日は2011年10月7日。
1973年のこの日は16歳ら5人による長島茂雄誘拐計画が未遂に終わった日だそうで。

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神奈川県川崎市の社員寮に住む少年工員(16,18)と工員(25〜22)の5人組が長島茂雄選手(37)の誘拐計画を立てて逮捕された。
「どうせやるなら世間をあっと言わせてやろう」と天地真理を狙ったが所在が判らないため長島に変更、車に追突して出てきた長島選手をナイフで脅して家族を縛って現金を奪う計画で実行したが車を見失って失敗。
19歳が弱気になって警察に届けたもの。主犯の24歳は去年に大阪の金物屋に日本刀で強盗に入り40万円を強奪していた。

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天地真理様も危機一髪だったわけですね。


この事件の記憶はかすかにある。新聞に報じられていた。


芸能誌に掲載されたと見られる、天地真理長嶋茂雄の対談を収録したブログ記事もある。
ミスターと真理ちゃん♪ - 天地真理 春の風が吹いていたら


ブログ記事には「1972年」の記事として紹介されているが、長嶋は年齢を「38歳」と言っているから、正しくは1974年、つまり読売が10連覇を逃して長嶋茂雄が現役を引退し、天地真理の人気も急落した年の記事だろう。

正力松太郎が仕掛けた「天覧試合」のヒーロー・長嶋茂雄梶原一騎の劇画から芸名をとったヒロインの対談。こんなのがもてはやされていたのが「昭和40年代末」だった。

今はいやな時代だけれど、こんな時代には戻りたくないと思う。長嶋茂雄天地真理のファンの方々には申し訳ないけれども。


そういえば、梶原一騎原発にはなんらかの接点があったのだろうか。ちょっとネット検索をかけた限りでは何も出てこなかった。