kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

1991年の青森県知事選挙で小沢一郎は「核燃推進派」候補を応援した

これほど「叩けば埃の出る」政治家も珍しいだろう。

週刊誌のインタビューで、「(35年前から)原発は過渡的なエネルギーだと思っていた」と語ったらしい小沢一郎は、20年前の青森県知事選挙で六ヶ所村の「核燃料サイクル基地建設推進派」候補を死力を尽くして応援していたのである。

横板に雨垂れ 小沢一郎氏はどのような政治家なのか? に、下記の書物の中の記述が引用されている。


原子力事業に正義はあるか―六ヶ所核燃料サイクルの真実

原子力事業に正義はあるか―六ヶ所核燃料サイクルの真実


以下引用する。

 …… 1989年の村長選挙を境に、六ヶ所村の「反核燃」派の結束は失われ、その運動は急速に力を失っていく。
 その原因は、土田村長の政治的裏切りの結果だけではなかった。核燃料サイクル基地建設工事、それに関連する公共工事での村内発注が、村の最大の関心ごとになっていた。それは直接的、間接的に多くの村びとの生活を支えていた。
 1989年7月の参院選挙での「反核燃」候補の圧勝、その翌年2月の衆議院選挙でも、「核燃白紙撤回」を訴えた社会党の関晴正候補、山内弘候補が自民現職を抑えて当選。六ヶ所村では「核燃凍結」を人びとに信じさせた土田浩村長の誕生があった。このとき「反核燃」の風は、少しも衰えていないようにみえた。


  県知事選挙


 そして核燃料サイクル基地をめぐる最終決戟は、1991年1月から2月にかけての青森県知事選挙だった。もし青森県の知事が「反核燃」となれば、「核燃白紙撤回」が現実となるかもしれない。核燃料サイクル基地の立地基本協定はすでに締結されていたが、その立地基本協定には事業の進展に合わせて段階的に関係者間で安全協定を結ぶことが明記されていた。施設の建設が完了しても、青森県知事が安全協定の締結を拒めば操業はできない。核燃料サイクル基地の立地基本協定そのものの破棄さえ、政策の選択肢となりうる。もっともそうなれば、事業者は青森県にたいし損害賠償訴訟を提起するかもしれないが、いずれにしろ「反核燃」は大きく前進する。
 社会党や農業団体、市民団体など「反核燃」の人びとが知事選の候補者に選んだのは、「核燃料サイクル阻止一万人訴訟原告団」にも名を連ねる金沢茂弁護士だった。一方、自民党の保守は分裂し、「核燃推進」の現職の北村正哉、そして「核燃凍結」の山崎竜男が立候補した。山崎竜男は参院議員を四期、環境庁長官も務めた有力政治家だったが、「山崎降ろし」に失敗した自民党の公認を受けられず「核燃凍結」を公約として出馬した。「反核燃」の県民世論は、金沢茂に有利であり、保守分裂と「核燃推進」の北村正哉は逆境のなかにいた。
 このままでは核燃料サイクル基地が頓挫する。電力業界、原子力産業界、そしてそれらを後ろ盾とする自民党は大きな危機感を抱いた。北村正哉候補は、中央の政財界から強力な支援を受けた。電事連那須翔会長は北村支持を表明し、電力業界は資金のみならず、電力や関連企業の社員を動員して電話などで選挙運動をおこなった。内閣総理大臣でさえ青森県知事選挙で動いた。湾岸戦争のさなかという国際情勢下、海部俊樹首相が青森市に姿をあらわし県民6000人の前で北村支持をうったえた。他にも青森県には、大島理森官房副長官小沢一郎幹事長橋本龍太郎大蔵大臣、山東昭子科学技術庁長官、加藤六月三塚博アントニオ猪木ら国会議員が北村陣営の応援に駆けつけた。こうした政界大物や著名人の登場、潤沢な選挙資金が、逆風のなか「核燃推進」の北村正哉候補の票を確実に増やした。
 そして1991年2月3日、投票と即日開票。青森県知事選挙の結果は次のとおりだった。「核燃推進」で自民公認の北村正哉が32万5985票、「核燃白紙撤回」で社会党共産党の推薦を受ける金沢茂は24万7929票、「核燃凍結」の無所属の山崎竜男は16万7558票。投票率は、66.46%という青森県知事選では史上二番目の高さだった。
 四選を果たした北村知事は、感慨深げに言った。
 「こんなきびしい選挙を経験したのは初めてだ」一方、敗れた金沢茂は次のように無念の心情を語った。
 「青森県民は核燃との運命共同体を選んだ。私はこれからも白紙撤回への努力を続ける」
 しかしこの知事選の結果から、県民が「核燃推進」を選択したとはいいきれない。「核燃白紙撤回」金沢候補と、「核燃凍結」の山崎候補の投票数を合わせると、「核燃推進」の北村候補の投票数を上回っている。自民党公認を争っての保守分裂が、山崎候補の「核燃凍結」という曖昧な公約をうみだし、結果的に「反核燃」票の何割かがそちらに流れた。また北村陣営は核燃料サイクル基地以外に選挙戦の争点をあてようと必死だった。
 この青森県知事選を境に、県内の「反核燃」の運動はしだいに力を失っていく。これからわずか3カ月後の1991年4月7日の県議選では「反核燃」候補の落選が相次ぎ、自民党が圧勝した。六ヶ所村では核燃料サイクル基地の建設が着々とすすみ、それぞれの原子力施設は操業開始への段階をすすみつつあった。

(秋元健治『原子力事業に正義はあるか―六ヶ所核燃料サイクルの真実』(現代書館2011年)より=ブログ『横板に雨垂れ』2011年8月29日付エントリ「小沢一郎氏はどのような政治家なのか?」経由;赤字ボールド部分は古寺多見=kojitakenによる)

2007年に民主党原発政策をそれまでの「慎重に推進」から「積極的に推進」に転換させた小沢一郎は、その16年前にも青森県政の原子力政策を「積極的に推進」に方向づけるべく動いたということだ。

なお、記事の後半に書かれている、経世会の金庫から小沢一郎が6億円を持ち出したという野中広務の証言(松田賢弥氏の著書による)は、その後、同じ松田賢弥氏が小沢一郎の元秘書・高橋嘉信から聞き出したところによると、正しくは6億円ではなく13億円だったらしい。昨年の『週刊文春』に記事が載っていたらしいが、今年出版された下記の本に出ている。


角栄になれなかった男 小沢一郎全研究

角栄になれなかった男 小沢一郎全研究


この本については、かつて当ブログで短い書評を書いたことがある。
松田賢弥『角栄になれなかった男 小沢一郎全研究』 - kojitakenの日記


なお、この青森県知事選の件は、同じブログの最新の記事にも出ている。
横板に雨垂れ TPPへの懸念、小沢一郎氏への疑念


この記事では、さらに下記の書物から引用されている。



元記事には引用元として初出時(1991年)の単行本が挙げられているが、最近岩波現代文庫版で出たらしく、当然そちらの方がお求めやすいので、当記事では文庫本の方にリンクを張った。以下、元記事経由で引用する。

…「地方自治体の選挙に政府が干渉するのはおかしい。準公共企業体の独占企業の団体である電事連が選挙を請け負って、カネをふんだんにだしている」
 これが「核燃選挙」といわれる知事選の実態である。やってきた自民党小沢幹事長は遊説にまわらず、青森市内のホテルに陣取って土建業者を呼びつけ、ひとり3分ずつ面会した、とのエピソードは、よく知られている。現職候補と自民党は、県財界、農漁業団体はおろか、保育園のはてまで締めつけていた。
鎌田慧六ヶ所村の記録』(岩波書店, 1991年)下巻より=ブログ『横板に雨垂れ』2011年11月25日付エントリ「TPPへの懸念、小沢一郎氏への疑念」経由;赤字ボールド部分は古寺多見=kojitakenによる)

他に、明石昇二郎氏が

1991年の青森県知事選の時、小沢が青森に乗り込み、敗色濃厚だった核燃推進派の現職知事陣営にテコ入れをし、すさまじいまでの締め付けをしたことで形勢を逆転させた。僕はこのことを決して忘れません。

と語っていることも紹介されているが、詳細は元記事を参照されたい。

それにしても、上記のようなことを青森で行なってきた人間が、「脱原発」に目覚めた14歳の少女タレントに手紙を送るパフォーマンスを行なうとは、小沢一郎という男の厚顔無恥ぶりは、まさに底なしである。

なお、この記事には「小沢信者」の信仰告白が2例挙げられているので、これを引用しておこう。

TPPも普天間も、そして原発も、官僚や米国に牛耳られゴリ押しされて、このままでは日本崩壊だ!
  (略)
もう、こうも負けグセがついてしまうと、なるようにしかならないのではないかと自暴自棄、疑心暗鬼、退廃的、刹那主義に陥ってしまいがちだ。
それでも、まだ一縷の望みを失わないのは、唯一の希望である、小沢一郎という100年に一度の逸材、稀有な政治家が今、この世に生きて存在しているからにほかならない。
そこで、原点に立ち返る意味でも、今週のサンデー毎日がちょうどいい企画をしてくれている。(要、必買)

その『サンデー毎日』の記事とは鳥越俊太郎による小沢一郎インタビューの抜粋も前記『横板に雨垂れ』に引用されている。

鳥越 将来的には原発をなくしていく方向でしょうか。
小沢 最終処理が見いだせない限り(原発は)ダメ。新エネルギーを見いだしていくほうがいい。ドイツには石炭などの資源がありますが、日本はない。ですからドイツのように10年で原発を止めるわけにはいかないかもしれないが、新エネルギー開発に日本人の知恵とカネをつぎ込めば十分可能性はあります。思えば、過渡的エネルギーだと分かっていながら原発に頼りすぎました。「もう少し強く主張しておけば良かった」という反省はあります。

しかし、上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場 : 野田政権が財界政治を強行できるワケ(菅内閣不信任劇を振り返って):その1(原発推進) が指摘するように、小沢一郎が科学技術政務次官を務めていたのは、1975年12月から翌76年9月までだった。その15年後、小沢は青森県知事選で六ヶ所村核燃料サイクル基地建設推進派を必死に応援したのだから、鳥越のインタビューに答えた小沢の言葉は口から出まかせだったと言うほかない。


「小沢信者」の信仰告白の2例目は下記。

この動画を見て、改めて小沢一郎のすばらしさを再確認した人も多いと思う。米国にも言いたいことが言え、官僚をうまく操り、消費税増税に反対し、原発廃止を堂々と訴えられる小沢一郎しか今の日本には首相に適任な人物はいないだろう。

「この動画」とは「ニコニコ生放送」とやらで配信された田原総一朗による小沢一郎インタビューだったらしい。田原は、テレビで放送されるインタビューとは打って変わって小沢を持ち上げるようなインタビューをやったらしく、メディアによって対応を変える、いかにも田原らしい処世術が見られたようだ。

当該エントリには当ブログからの引用もある。感謝。