kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

孫崎享が書かなかった鳩山一郎の「統帥権の干犯」論

孫崎享が『戦後史の正体』に書いたことと書かなかったことを指摘するのは、著者・孫崎の執筆意図を明らかにするために有用だろう。

私は既に、吉田茂鳩山一郎岸信介の3人の政治家の日本国憲法に対するスタンスに孫崎が触れなかったことを、宮崎学の著書『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』(同時代社, 2006年)と対比しながら述べた。

下記は孫崎が石橋湛山を評価した部分の記述。

 石橋湛山は戦前、軍部に対し、きびしい警告を行っています。

 戦前、日本の軍部が暴走した背景に統帥権(とうすいけん)という問題がありました。大日本帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とあることから、軍事面における権限はすべて天皇天皇を支える軍部がもっており、内閣はそれに干渉できないという考えです。

 軍部はこの統帥権をたてにとり、暴走をくり返しました。そのひとつがロンドン海軍軍縮会議において、政府代表が海軍の削減に合意したのは統帥権違反だと主張したことです。これに対して石橋湛山は、昭和五年に「東洋経済新報」の社説で「統帥権なるものは今日の時世において許すべからざる怪物である」と書き、堂々と軍部を非難する論陣を張っています。

 米国は当然のことながら、こうした自主路線を強く打ちだそうとする石橋首相を警戒します。春名幹男著『秘密のファイル』は次のように書いています。
アメリカは、自民党の第二代目総裁に『期待の星』岸が選ばれると確信していた。アメリカの失望は大きく、困惑した」

孫崎享『戦後史の正体』183頁)


しかし孫崎は、当時軍部の暴走の火に油を注いだある野党政治家がいたことを意図的に書き落としている。先日当ダイアリーでレビュー*1を書いた坂野潤治著『日本近代史』(ちくま新書, 2012年)を参照すると、坂野は「『統帥権の干犯』という名文句で政府を攻撃する智恵を海軍や右翼につけたのは、日本ファシズム最高の理論家北一輝であることも、今日の学界の常識になっている」*2と書く一方で、それに対する異説を紹介している。以下、『日本近代史』から引用する。

 しかし、当時の有名な評論家馬場恒吾*3は、「統帥権の干犯」を最初に言い出したのは野党の政友会だったと記している。軍縮条約調印から約三年後の『中央公論』誌上の評論で、馬場は次のように記している。

「人の知る如く、ファッショの擡頭(たいとう)した原因の一つは倫敦軍縮会議に関連している。かれらは、この軍縮会議に於て日本は不当に譲歩した。また、この軍縮会議を調印するに際して、民政党内閣の浜口首相が採った行動は、兵力量の決定に関する(天皇の)大権を干犯したと云うのであった。それは後にファッショ勢力のスローガンにまで発展したのであるが、その当時主にそれを主張したのは政友会であった。」(一九三三年八月号、七一−七二頁)

 馬場の示唆に従って、条約調印の三日後の衆議院における政友会の鳩山一郎の質問演説を見てみよう。もっとも、この鳩山主犯説も今日では広く知られるようになってきたので、ここでは特に憲法解釈論としてのその質の高さに注目したい。

「海軍の軍令部条例にも、(中略)海軍軍令部長天皇に直隷(ちょくれい)して天皇の帷幄(いあく)の機務に参し、用兵国防に関する事に参画をして、そうして親裁の後にこれを海軍大臣に移すと云うことに規定しておる。即ち用兵に於ても国防に於ても、その間には全く区別がしてありませぬで、共に軍事専門家を信頼してその自由に一任してあると云うことは、何人も異存を挿む余地はないのではないか(拍手)、(中略)一般の政務、これに対する統治の大権については内閣が責任を持ちますけれども、軍の統帥に関しての輔弼(ほひつ)機関は内閣ではなくして、軍令部長又は参謀総長が直接の輔弼機関であると云うことは、今日迄は異論がない。(中略)果して然らば、政府が軍令部長の意見に反し、あるいはこれを無視して、国防計画に変更を加えたと云うことは、洵(まこと)に大胆な措置と謂わなくてはならない(拍手)。」(『帝国議会衆議院議事速記録』第五四巻、一九三〇年四月二五日、傍点*4筆者)

 鳩山のこの主張は、明らかに浜口内閣の背後にいた憲法学者美濃部達吉の議論を意識してものだった。


美濃部憲法学と海軍条例部条例


 一九二七(昭和二)年に『逐条憲法精義』を刊行した時、美濃部はすでに、一九一四(大正三)年に「軍令」で定められた海軍軍令部条例を根拠に、鳩山一郎のような「統帥権干犯」論が成立することに気付いていた。明治憲法第一一条の「統帥権」と第一二条の「編成権」を峻別して、軍縮条約のような「国防」に関するものは内閣の責任であり、「作戦用兵」に関する「統帥権」とは別物であるとする彼の憲法論の前に、「海軍軍令部条例」が立ちふさがることを予想していたのである。

坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書, 2012年)352-354頁)


あるブログ記事*5を参照すると、鳩山一郎浜口雄幸首相の論戦において、鳩山は「総理と軍令部長の上奏は全く差違があり、陛下の宸襟を悩まし奉って全国民には不安と屈辱を与えた」として浜口首相を追及したが、浜口首相は「軍部の専門的意見は、十分に斟酌してある。よって鳩山君の言われるような事実がない以上、その間違ったる事実の上に基づく憲法論には答弁できませぬ」と応じた。「昭和天皇独白録」によると、4月1日に浜口首相が上奏してきた内容と翌2日に加藤寛治軍令部長が上奏してきた内容は、ほぼ一致していたという*6。この加藤に関する記述も『日本近代史』から引用する。

 しかも、英米仏伊に日本が加わって会議したロンドン海軍軍縮条約が「憲法の世界」の問題だったのは、日本国内だけの話であった。それは国際的には、れっきとした「政治の世界」の問題であった。そのことは、日本国内でこの条約に反対していた加藤寛治軍令部長自身が一番よく理解していた。「統帥権の独立」を守るために断固頑張れと激励にきた右翼の大物頭山満に対して、加藤は次のように諭している。

「加藤はその職責の命じる処(ところ)に従い所信を以て進んでおります。誰にも相談せず、誰にも聴かず。ただ御深慮願度事(ねがいたきこと)は、本件は国防の重大事の外、外交上また重大事を伴うておる。最慎重にせんと累(るい)を上御一人に及(およぼ)す恐れあり。」(『続・現代史資料5 海軍 加藤寛治日記』九四頁)

 英米日仏伊の五カ国の条約を日本の海軍軍令部の不満だけで不成立にするわけにはゆかない、と当の軍令部長が頭山に述べているのである。言うまでもなく加藤の立場は「軍令部は国防用兵の責任者として、米提案を骨子とする数字は計画上同意し難」いというものであった(同前書、同頁)。しかし、すでに政府が同条約調印の指示を全権団に出している以上、軍令部長が「統帥権の干犯」という日本の国内事情だけで軍縮会議を挫折させるわけにはゆかない、と加藤自身も判断していたのであろう。

 憲法問題は日本国内限りの問題であり、軍縮会議は国際間の外交問題でもあるとする加藤寛治の態度は示唆に富んでいる。そのような加藤の自制された強硬論を尻目に、二大政党制の下での政党は憲法解釈論争に熱中していったのである。

坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書, 2012年)356-357頁)


真相は、浜口民政党政権と軍部との間には意見の対立はあったが、いったん決まった以上はそれに従い、日本政府の外交を攪乱するつもりなどないというのが加藤軍令部長の意向だったということらしい。軍部以上にタカ派、極右へと走っていったのが野党・政友会であり、特にその言論をリードしていたのが鳩山一郎だったということだ。戦後、鳩山がアメリカに公職追放されたのは当然だったというほかない。

鳩山一郎が戦後「反米」色の強い保守政治家になった理由について、有馬哲夫は「鳩山は占領初期の一九四六年に総理大臣の椅子に手をかけたとき、公職追放に指定され、ひきずりおろされたことで、抜きがたい恨みをアメリカに対して持っていた」と書いている*7。自分の戦争責任を棚に上げて、いい気なものだと思う。

以上見てきたように、一口にアメリカに対する「自主派」とはいっても、石橋湛山鳩山一郎の間には天と地ほどの開きがあるということだ。戦前から「小日本主義」を唱えた気骨の経済ジャーナリスト・石橋湛山に対し、戦前の政党政治をぶっ壊した張本人である鳩山一郎。しかし、その違いについて孫崎享が触れることは一切ない。


私が孫崎享の著書を2冊読んで感じたのは、孫崎はネトウヨの言うような「親中派」では全くないということだ。それどころか、孫崎は中国を「したたかな敵」と見ていて、そんな中国に日本はどう対応していくか、というのが孫崎が持っている問題意識だと思った。

反面、私が感じたのは孫崎のかつての勤務地であったソ連(当時)に対する一種の親近感である。鳩山一郎は「反米・親ソ」の政治家としても知られ、クレムリンは鳩山政権が長続きするよう応援したいと考えていたという。岸信介はもちろん「親米・反ソ」の政治家であるが、孫崎は鳩山由紀夫内閣のブレーンとして近年名を上げた人だ。その孫崎は岩上安身らのグループに入り、小沢一郎の擁護にも熱心に見えるが、孫崎の小沢擁護は「商売上の必要性からやむを得ず行っている」ものに過ぎず*8、本音は「鳩山由紀夫シンパ」なのだろうと私には思われる。孫崎の著書を読んでも、最近の政治家で孫崎がもっとも熱烈に擁護しているのは鳩山由紀夫であり、小沢一郎擁護に関しては鳩山由紀夫に対するほどには熱が入っていないという印象を受けた。そして、孫崎の岸信介に対する肯定的評価については、やはり安倍晋三の近い将来の首相就任を視野に入れているとしか思えない。『戦後史の正体』においては、(第1次)安倍晋三内閣に関する記述を省略したり、「おわりに」に書かれた分類でも安倍晋三を「対米追随派」として「他、海部俊樹小渕恵三森喜朗安倍晋三麻生太郎菅直人野田佳彦」として、十把一絡げで切り捨てたりはしている。しかし、そんなものは第2次安倍内閣成立後に「安倍首相は変わった。第1次内閣時代の安倍さんとは違う」と言ってしまえばおしまいである。それだけで、過去の主張などなかったことになる。孫崎のトンデモ本第2弾における鼎談の相手である高橋洋一長谷川幸洋安倍晋三のシンパだし、岩上安身らのグループに以前から入っている植草一秀は、その著書『知られざる真実』を読んでみればよくわかるが、もともと安倍晋三のシンパだったのである(もちろん最近の植草はそんな本音を隠しているが)。

何より危険なのは、nesskoさんのコメント*9にもあった通り、「アメリカ陰謀説は容易にユダヤ陰謀説とつなが」るのであって、それはネトウヨの「反韓・反中」と何も変わらないということだ。私は、「孫崎享に関してはネトウヨが正しい!」とまでは思わないけれども、「孫崎享はある意味ネトウヨより危険だ!」とは思う。なぜなら、いわゆる「リベラル・左派」は、ネトウヨの主張にいまさら影響されることなどないけれども、孫崎享の主張に影響されて自らの歴史観を改めるというのは、現に今起きている現象だからだ。だから私は毎日のように孫崎享を批判する記事を書き続けるのだ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121007/1349586721

*2:坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書, 2012年)352頁

*3:馬場恒吾は戦後、正力松太郎の推薦を受けて読売新聞社長に就任した=引用者註

*4:本引用では傍点を太字に改めた。

*5:http://japaaaan.blog65.fc2.com/blog-entry-112.html

*6:その後いろいろ調べてみたところ、残念ながらこのブログ記事の記述には信を置けないという結論に達した。

*7:有馬哲夫『原発と原爆』(文春新書, 2012年)31頁

*8:事実上の「小沢一郎政権」だった1989〜91年の内閣の首相・海部俊樹を孫崎が「対米追随派」として切り捨てていることに注目されたい。

*9:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20121011/1349914490#c1349945702