一昨日の 辻元清美曰く「小沢一郎に政策の理念があったかどうか疑問」 - kojitakenの日記 に続き、『世界』2013年3月別冊「政治を立て直す」から、今度は民主党衆院議員・黄川田徹のインタビュー記事の一部を紹介する。
周知のように黄川田氏は一昨年の東日本大震災で身内に多くの犠牲者を出した。しかし、岩手県出身の政治家として、2011年5月から8月まで衆議院東日本大震災復興特別委員会委員長を務め、野田政権でも総務副大臣、復興副大臣を歴任した。その黄川田氏は「復興には与野党はない」という信念で国会の審議に当たったという。国会は唯一の立法機関であり、政府の一員とならなくても国会議員は議員立法として法律を作ることができると黄川田氏は語り、野党時代から議員立法の作成を通じて、与党や他党の議員と協議しながら政策を練り上げていく経験を積んだとのことだ。2010年3月で期限の切れる過疎地域自立促進特別措置法延長と一部改正の審議過程では、谷公一(自民)、石田祝稔(公明)、塩川鉄也(共産)の各議員らとともに、超党派で法律改正に尽力したと振り返る。復興特別委員会においては、その当時一緒に汗をかいた議員が多く名を連ねており、その中で黄川田氏が被災地選出の議員であり、自身も被災者であることから、当時の与党のみならず野党からも推薦をもらって委員長に就任したとのことである。
黄川田徹は旧自由党の政治家だから、憲法や外交・安全保障の政策に関してはかなりタカ派色が強いが、氏が立派な人物であることは、震災で身内を失いながら復興に力を尽くしたことからもうかがわれる。そして、どうしても黄川田氏のかつての親分と比較したくなってしまうのである。
以下、インタビュー記事から引用する。
−− いまお伺いしたような、特別委の真剣な審議のかたわらでは、被災者をないがしろにするような政局的な動きが続いていました。黄川田さんはこうした動向をどのような思いで見ておられたのでしょうか。
黄川田 私自身は、被災者と国会議員という二足のわらじを履いていました。そうした立場からみると、政局がらみで権力闘争に狂奔する人たちには、「足元の仕事をきちんとしてほしい」という思いでいっぱいでした。
「菅総理に能力がない」となじる前に、できることが山ほどあったはずです。悲惨な被災現場も見ずに、与党内で主導権争いを繰り広げた人、これに乗じて政権に返り咲くことをねらう野党の一部動向など、自身の政治的思惑を優先させた議員が多くみられたのは残念でした。
(『世界』2013年3月別冊「政治を立て直す」67頁)
赤字ボールドの部分で、黄川田氏がどういった人たちのことを言おうとしたのか、私にはわからない。しかし、東日本大震災の時に雲隠れして「安否不明」説を流されたり、震災翌年になるまで被災地を訪れなかったり、菅降ろしをしたり、原発推進派の海江田万里を担いだりした人間が、民主党を飛び出していきなり「脱原発派の旗手」面をしたところで誰にも信用されなかったのは当然だろう。逆に言えば、地元の危機にすぐさま立ち上がり、反目していた政敵との抗争を一時棚上げしてでも復興に力を尽くし、民主党代表選で脱原発派の候補を担ぐようなことを日頃からしていれば、どっかの首長と野合する下心でもあったのか、わざわざその男の元盟友に「脱原発」新党を立ち上げさせてそれに潜り込むような姑息な真似をせずとも、昨年秋の民主党代表選に立候補し、堂々と勝ち抜くことだってできたのではなかったろうか。現実には、衆院選を恐れる配下の者がわれ先にと離党なだれを起こして、いわば無能な味方に足を引っ張られる形で「追い込まれ離党」を余儀なくされたわけだが。
先日、「小沢信者」のブログを覗いてみると、「生活の党は実質的に非合法化された」などと被害妄想に満ちあふれた記事が載っていたのでぶっ飛んだ。権力に弾圧されたんじゃない、自ら重ねた悪行によって人心が離反したのだという自明の事実を直視できない「信者」たちは、着実にカルト化への道を歩んでいるようだ。