kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

諸井誠死去

この訃報はうっかり知らずに過ごしていた。諸井誠 - Living, Loving, Thinking, Again 経由で知ったが、2日に作曲家の諸井誠が亡くなっていた。


http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/classic/clnews/01/20130902-OYT8T00637.htm

作曲界の重鎮・諸井誠さん死去…評論も手掛ける


 国内作曲界の重鎮の諸井誠さんが2日午前3時36分、間質性肺炎で死去した。

 82歳だった。告別式は近親者で行う。喪主は妻、登美子さん。

 東京都出身。戦前から活躍した作曲家、諸井三郎の二男。東京音楽学校(現東京芸大)で池内友次郎に師事。日本初の本格的な電子音楽に挑んだり、尺八など邦楽器を大胆に採り入れ、独自の作風で高い評価を確立した。代表作に二つの「協奏交響曲」や、尺八のための「竹籟(ちくらい)五章」など。

 音楽評論も手掛け、主著に「ロベルトの日曜日」「音楽の現代史」など。彩の国さいたま芸術劇場館長も務めた。1995年、紫綬褒章。兄は太平洋セメント特別顧問だった故・諸井虔氏。

(2013年9月2日 読売新聞)


http://www.asahi.com/obituaries/update/0902/TKY201309020340.html

作曲家・諸井誠さん死去 戦後の現代音楽界を牽引


 戦後日本の現代音楽界を牽引(けんいん)した作曲家の諸井誠(もろい・まこと)さんが2日、間質性肺炎で死去した。82歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻登美子(とみこ)さん。

 戦前の名作曲家、諸井三郎の次男として東京に生まれる。東京音楽学校(現東京芸大)卒。電子音楽を日本に紹介し、邦楽器とオーケストラの響きを融合させた新たな音響で頭角を現した。1957年、黛敏郎吉田秀和らと前衛音楽集団「二十世紀音楽研究所」を設立、武満徹らを世に送り出した。彩の国さいたま芸術劇場の初代館長を務め、ピナ・バウシュ率いるブッパタール舞踊団などを招聘(しょうへい)、世界のコンテンポラリー芸術を幅広く紹介した。

 日本アルバン・ベルク協会初代会長。95年、紫綬褒章。著書に「ロベルトの日曜日」「音楽の見える時」など。ベートーベンのピアノソナタ研究でも知られる。

朝日新聞デジタル 2013年9月2日19時49分)


諸井誠について当ダイアリーで触れたことはなかったが、父の諸井三郎(1903-1977)には一度下記記事で触れている。この諸井三郎が1977年に亡くなった時の訃報記事を新聞で読み、「諸井誠氏のお父さんの諸井三郎氏が亡くなったのか」と思ったことを覚えている。


上記記事で私は、諸井三郎が戦時中に「大東亜音楽文化建設の指標」という文章を書いて、戦争に協力していたとしているが、諸井三郎は山田耕筰のように積極的に戦争推進の旗を振ったわけではなかった。山田耕筰以外にも、同時代の作曲家の中には、戦時中には戦争に積極的に協力した人間は多かったし、中には戦後一転して強硬な左翼になった者も少なくなかったが、彼らと比較すると、秩父セメント(現・太平洋セメント)の創業者一族だった諸井三郎は、政治色の薄い作曲家だった。三郎氏は、70歳を過ぎて十二音音楽を手がけるという、ストラヴィンスキー(1882-1971)を思わせる方向性を模索し始めていたが、その矢先に亡くなったのだった。

そんな三郎氏の息子・諸井誠の名前が、政治と関わった話題に登場した記憶はほとんどない。誠氏は、そういう方面はすべて兄の諸井虔(1928-2006, 太平洋セメント株式会社元相談役)に任せてしまったのかもしれない。諸井虔は、Wikipediaを参照すると、

牛尾治朗と並び財界きっての論客といわれ、規制緩和を強力に主張した(ちなみに、リクルート事件では、両者とも、未公開株譲渡を受けている)。

とのことである。諸井虔新自由主義の流れを形成した元凶の一人といえる産業人だったようだ。

この諸井一族については、2004年頃にとある掲示板で話題にした記憶があるが、それらはもう参照できない。

ところで、諸井誠は作曲家だったが、彼の作品は全く聴いたことがない(諸井三郎の音楽も聴いたことがない)。諸井誠で記憶にあるのは、もっぱら70年代から80年代にかけての音楽評論活動である。とりわけ強い印象が残っているのは、宇野功芳(1930-)との激論だった。宇野功芳は思い込みの強い独りよがりの音楽評論家にして指揮者だが、その宇野の独善をねちっこく揶揄していたのが諸井誠だった。私は昔から宇野功芳が大嫌いだったので、大いに溜飲を下げたものである。

偶然にも、諸井三郎の戦争協力に触れた上記3年前の当ダイアリー記事のタイトルにもしている通り、私は宇野功芳を「現在最悪の好戦的音楽関係者」として罵倒していた。上記記事で紹介した、2010年9月10日付産経新聞に掲載された宇野功芳のインタビューの一部*1を再録する。

 「音楽や演奏の姿も時代とともに変わりますが、僕が今いちばんに考えているのは、日本人があまりにも変わってしまったということです。最も示したいことは、かつての日本人が持っていた高い精神性です。戦争を賛美するつもりは毛頭ありませんが、戦前、戦中の日本人は実に誇り高く、世界の中の日本のあるべき姿を見つめていました。戦時歌謡は音楽も歌詞も実に清廉で、これほど純粋な芸術は世界のどの時代にもなかったと思えるほどです


 ■日本人の誇りへの思い

 失いかけている日本人としての誇り、国や故郷を愛する純粋な気持ちを呼び覚まそうという思いは、合唱指揮者としての活動にも反映している。歌い継がねばならない美しい日本の歌をステージに響かせてきた。16日に取り上げる「おとぎ歌劇『ドンブラコ』」もその一つだ。

 「明治45年に作曲家の北村季晴(すえはる)が作詞、作曲し、日本初のオペラだといわれています。桃太郎の話を下敷きにしていますが、日露戦争の時代を反映してか、鬼はロシアの賛美歌のような合唱を披露します。圧倒的人気を得た作品で、宝塚歌劇団の前身の宝塚少女歌劇団の第1回公演の演目にもなっています。大団円で響くのは『君が代』。現在のようなゆっくりとしたテンポではなく軽快に演奏するように指示されていますが、それが実にすがすがしく、美しく、ここにもかつての日本人の矜持(きょうじ)を感じることができます」


こんな宇野の妄言を再読すると、近年あまり消息を聞かなかったとはいえ、かつて音楽に関する論争で宇野を痛快にとっちめた諸井誠が宇野功芳よりも先に逝ってしまったことが悔やまれる。

以上、音楽とはあまり関係ない、どうでも良いことばかり延々と書いてしまったが、かつて音楽評論を中心として、諸井誠氏にはずいぶんお世話になったものである。故人のご冥福をお祈りする。