kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

真鍋博・星新一『真鍋博のプラネタリウム - 星新一の挿絵たち』/半藤一利『隅田川の向う側』(いずれもちくま文庫)

筑摩書房といえば、1978年に業績不振のため会社更生法の適用を申請したことがあるが、その後復活した。最近では文庫・新書の意欲的なラインアップが目を引く。文庫では、他社が出していた少し古い本の文庫化で目を引くものが多く、たとえば最近こんな本を懐かしく読んだ。



これは1983年に新潮文庫から出ていた。かつては立ち読みで済ませて買わなかったが、星新一(1997年没)も真鍋博(2000年没)も亡くなって久しい今年にちくま文庫から再版されたので、思わず買ってしまったのだった。真鍋博愛媛県新居浜市出身の人だが、真鍋姓は香川県愛媛県東部に際立って多く、あの城内実にポスター騒ぎを起こされたかつての「ブログの女王眞鍋かをり愛媛県西条市)出身だったりする。


前の連休から一昨日(21日)にかけて読んだのは下記の本。



これは2009年に創元社から出版された本を文庫化したもの。ただしオリジナルは古く、1982年から84年にかけて、著者が年賀状代わりに作製した豆本をまとめたものである。

著者の半藤一利は、昭和天皇の「富田メモ」の真贋を判定したことで知られる保守派の作家で、長く文藝春秋社に勤め、『週刊文春』、『文藝春秋』の編集長、同社の専務取締役を歴任したあと作家に転じた。典型的な保守系文化人と思われていたが、近年外部からの評価が一変し、極右化した産経文化人やネトウヨによって「左翼」と断じられるようになった。もちろん半藤一利が変わったわけではなく、世間が極右化しただけの話である。

隅田川の向う側」とは、東京・隅田川東岸の深川・本所・向島を指す。著者は向島の出身。著者が書いているように、「川向う」は隅田川西岸の日本橋・神田・浅草といった下町っ子が用いた「差別用語」である*1。本書の第2章は、著者が東京大空襲で焼け出されたあと、昭和23年まで住んで旧制長岡中学に通った頃の思い出を綴る「わが雪国の春」だが、日本海側を当時「裏日本」と言った。私の小学生時代でも、「裏日本」という言い方がされていた。著者は「わが長岡中学時代には裏日本と言われてもまったく屁とも思っていなかった」と書いている*2

さて、本書の一番最初のエピソードに、バレンティンにシーズン本塁打記録を抜かれたり、次期プロ野球コミッショナー候補に擬せられたりして「時の人」になっている観のある、プロ野球福岡ソフトバンクホークス会長の王貞治が登場する。以下本書から引用する。

 大きい眼ン玉をむいて、満面朱をそそぐと腰をひねって年かさの子を、地面に描いた丸の外へうっちゃった。日ましに足腰にバネがつき、相撲の強くなった子だ。決まり手はいつもうっちゃりで、餓鬼大将はそれが気に入らない。押さば押せの突撃精神の不足を大いに歎じると、ゴツンと一発かませ、
「ワン、お前には大和魂はないのか」
 と大喝した。

 眼玉の子は王貞治君、餓鬼大将は私。昭和十八、九年頃の、向島区(引用者註:現墨田区)吾嬬町西の小さな野原。レンゲの花が赤じゅうたんを敷いたようにみごとに咲くので、レンゲの原っぱとよんだが、王クンはゲンゲとろくに口が廻らないのでいっていた。当時は三歳か四歳の痩せこけた子は、周りが年長者ばかりで、ゴツンしょっ中やられても、めげずに原ッぱに姿をみせてハッケヨイに熱中した。

 王クンの生家は、"六丁目の交番" の前の小さな支那そば屋だ。支那そばとワンタンくらいしか売っていなかった。それから五十メートルと離れていないところに餓鬼大将の家がある。大将は近所迷惑な腕白だったが、根が淡くできていて深く執するものがなく、朝鮮人も中国人も、おかまいなしで寄ってくるものこの指さわれ、大東亜共栄圏を地で行っていた。(後略)

半藤一利隅田川の向う側』(ちくま文庫, 2013年)15頁)

著者と王氏とは年齢が10歳も違うことを思えば信じられないような話だが、阪神のルーキー藤浪晋太郎が小学生時代に高校生とみまごうばかりだったという話もあるから、プロスポーツでトップクラスになる選手は子ども時代から飛び抜けた身体能力を持っているということなのだろう。それにしても「大和魂はないのか」とはひどい物言いだが、当時の軍国少年を現代の眼から非難するのはアンフェアであることはいうまでもない。以下再び引用する。

(前略)この王クンについて、引退後に汗牛充棟ほども書かれた伝記(自伝も含めて)をみてみると、どれも戦後の本所区(引用者註:現墨田区)押上町の中華料理店「五十番」から稿が起こされている*3。故意か偶然か吾嬬町西も、餓鬼大将も、ゴツンもゲンゲの原っぱも、すべては敬遠のフォアボール。幼すぎて記憶にないのか、忘れてしまいたいほどキツイ想い出なのか。と一時考えたこっちの気持ちとは無関係に、幻に立つバッターボックスの背番号1、その動かざる背中は、無言の答えを与えてくれる。支那そば、チャンコロ、ワン……。彼のゲンゲの原っぱに、いい想い出のあろうはずはないのだろう。

(前掲書16頁)


こんな軍国少年だった著者だが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲でもっとも大きな被害を蒙ったのは隅田川東岸地区だった。第10話「空襲」から引用する。

 人間が乾燥しきったイモ俵に火がつくように燃えた。火のついたカンナ屑のようでもあった。

 都電が焼けただれ、架線が散らばった。屍体が道路の真中に散在している。火ぶくれの裸体。炭のようになった母子。消防自動車が火を噴いて走った。

 火に追われて逃げ、中川に飛び込んで私は生命をやっと拾った。

(前略)向島区の死者八〇〇〇人以上。一家全滅もあり正確な数は知りようもない。九割が焼け一五万の区民のうち一二万が被災した。学童疎開で子供たちが幾分でも難を避けられたのは不幸中の幸いだったが、疎開から帰った一一六九人の子供は迎える人もない孤児となった。のちに、都の戦災孤児寮にはいった三四五人のほとんどが、川向うの子供たちだった。

 そして戦争は戦後一年経っても川向うでは終わらなかった。どのくらい多くの人が死んだものか。川や土の中から思いもかけない死骸が姿をあらわした。(昭和)二十一年秋、横十間川で、焼け舟の残骸を薪木にでもするつもりで、ある男が竿で突いたら、下から土左衛門がぽかんと浮いてきた。

「姿かたちをとどめないその臭い死体の中に、お前様、うなぎの野郎がいくつもいくつも首突っ込んで、腐肉喰らっていたっていうで……」
 と、語るばあさんに出会ったことがある。

 自分こそ、誰よりもさきに人生を見た人間だと思うことがある。

(前掲書34-35頁)


次いで、第29話「焼鳥」を全文引用する。

 坂口安吾の小説「白痴」に、昭和二十年三月十日のB29の無差別爆撃の後の陰惨極まりない下町の情景が描かれている。

「人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。まったく焼鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。犬と同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かがちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった」

 この日の朝、辛うじて生き延びた私が見たのはたしかに人間という名で呼ばれるものではなかった。炭化して真っ黒になった物体ばかりだった。

(前掲書65頁)


第39話「戦車」は特に印象的だ。向島区では戦時中に工場の数が急増し、小学校卒の子どもが男女を問わず中学校に進まず工員として働くことを余儀なくされた。著者の小学生時代の同級生の民ちゃんもその一人だった。以下引用する。

(前略)中学一年生のある日、小学校時代の同級生の民ちゃんの訪問を受けた。大人用のだぶだぶの軍手をはめた両手に、大事そうにブリキの玩具をかかえている。ねじを巻くと走る戦車だった。

「あげるわ。工場で私が作ってるものなの。六年生のとき欲しがっていたでしょう。だから……。」
と、走ってきたのか白い息を大きくはずませながら、彼女はいった。照れかくしにぐすんと制服の腕で鼻をこすってから、私は彼女の作品をひょいと受けとった。
「オー、サンキュー」
 習いはじめた英語が、無意識に口からとびだした。その瞬間だった。栄養の足りない白っ茶けた顔色の中で、切りこみの深い目だけが異様に光った。私はしまったと思った。上の学校へゆけぬ彼女の、哀しみに似たものがかすかに感じられた。しかし、それはすぐにあきらめに似た暗い眼差しに変わった。とっさに私は、
「三と九のベロベロ、マッチ。アリが十匹だ」
 と、おどけてみせた。

 民ちゃんは空襲で焼死した。戦車も熔けて消えた。私は、いらい会話に横文字を入れないようになった。

(前掲書83-84頁)


哀しい話の救いのない結末。これが戦争に巻き込まれた庶民の姿である。保守派の著者が「九条の会」に加わって改憲論を批判する理由がよくわかる。

著者のような平和指向の保守派が、たとえば西尾幹二のような「保守」を僭称する人間に「半藤一利は保守派ではなく左翼」と言われているらしいこと、その西尾幹二にシンパシーを抱く中島岳志が「保守リベラル」を自称していること、そしてその中島岳志が書いた本に含まれる橋下批判に対してNTT出版が改変を迫り、中島がそれを拒否したため本は右翼的な出版社と見られている新潮社から出版されたこと、等々。

日本社会の極右化は、行き着くところまできてしまった。極右にして過激な新自由主義を信奉する、他に橋下徹くらいしか類を見ない獰猛な安倍晋三が長期政権をうかがい、その政権支持率が高止まりしているのも、さもありなん。

*1:「川向う」が差別的に用いられるのは何も隅田川に限らず全国のあちこちにある話。本書には出てこないが、墨田区には被差別部落もある。

*2:本書282頁

*3:王貞治の自伝『回想』(勁文社, 1981年)には、ラーメン屋「五十番」が最初は吾嬬町にあったことが書かれていたそうだ。著者は誤解を認めながらも、「しかし、これだけの記載なのである」となお強情を張っている。=原文註(本書280頁)より