kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

森田創『洲崎球場のポール際』(講談社)を読む

著者・森田創(もりた・そう)が洲崎球場を研究するようになったのは、毎日新聞の記事を読んだことがきっかけだったという。

http://mainichi.jp/sports/news/20130727k0000e040226000c.html

洲崎球場:稼働3年 幻のプロ野球の聖地が模型に

 プロ野球の草創期を支えながら、こつ然と姿を消した洲崎(すさき)球場(大東京球場)。大きさやいつまで存在したかなど謎が多い幻の球場の実態解明に、都内の会社員が挑戦し、精巧な模型を完成させた。

 同球場は1936年、現在の東京都江東区に造られた。同年、巨人と阪神(当時は大阪)がプロ野球初の優勝決定戦を行い、巨人がエース・沢村栄治の3連投で初代王座に輝くなど、球史に残る舞台に。だが埋め立て地で水はけが悪く、3年で使われなくなった。

 謎の解明に取り組んでいるのは、プロ野球ファンで都内の大劇場を開設、運営する仕事に携わった森田創(そう)さん(39)。球場の詳細については、敷地を所有していた東京ガスや、財団法人野球体育博物館も把握していない。

 今年3月、同球場を取り上げた毎日新聞の記事を読み、本格的な調査を始めた。「草創期の選手たちが懸命にプレーしたからこそ今のプロ野球がある。聖地なのに、まったく忘れ去られている」。休日、球場があった地元の図書館で資料を探し、同球場でプレーしたことのある元巨人の川上哲治さん(93)にも人を介して取材し、貴重な証言を得た。

 また36年に撮影された、球場の空撮写真の写しを入手。1級建築士、広瀬賢二さん(52)とともにコンピューターで解析し、両翼が87メートル、中堅は108メートルと算出した。広瀬さんが1カ月かけて実物の200分の1の模型を制作した。「この球場で活躍した後に戦争で亡くなった選手もいる。彼らに報いるためにも、実態を明らかにして後世に伝えたい」と森田さんは話している。【栗原俊雄】

毎日新聞 2013年07月27日 15時44分


この記事が毎日新聞に載った1年あまり後、著者は著書を講談社から出版した。そのことは、朝日新聞夕刊に載った下記記事を読んで知った。読売新聞の武田裕藝記者も記事にしたらしいが、ネット検索には引っかからなかった。

http://www.asahi.com/articles/ASGBX3S8PGBXULOB00R.html

東京)幻の洲崎球場、本で復活 会社員が取材重ね

宮嶋加菜子

 1936(昭和11)年に開幕した日本のプロ野球草創期を支えながら、わずか3年で表舞台から姿を消した「洲崎(すさき)球場」(現江東区)。公式資料も残っていない「幻の球場」の歴史を掘り起こしてきた会社員が、洲崎球場とプロ野球の歩みを本にまとめた。当時を知る人たちへのインタビューを交え、戦争によって夢を絶たれた多くの名選手たちの躍動と、魅了された観客たちの熱気が伝わってくる1冊だ。

 「洲崎球場のポール際 プロ野球の『聖地』に輝いた一瞬の光」(講談社)を出版したのは、神奈川県鎌倉市に住み、都内の鉄道会社に勤務する森田創さん(40)。洲崎球場は36年、江東区の埋め立て地に完成したプロ野球専用球場だ。巨人のエース沢村栄治大阪タイガースの「猛将」景浦将ら、スター選手が活躍したが、球場の大きさや歴史について公式な記録は残っていない。

 かつて野球少年だった森田さんはこの幻の球場に興味を持ち、週末ごとに国会図書館や古本屋に通い古地図や当時の新聞、雑誌を調べた。昨年夏には、球場を忠実に再現した200分の1の模型を仕事仲間の1級建築士とともに完成させた。「せっかくここまで調べたのだから本にまとめたい」と、その後も資料収集や関係者への取材を重ねて出版にこぎつけた。

朝日新聞デジタル 2014年10月31日03時00分)


洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光

洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光


これはなかなかの快著だ。以下、『週刊文春』に掲載された書評(評者・稲泉連氏)を引用する。

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4727

「幻の球場」の失われた歴史を求めて
『洲崎球場のポール際 プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光』 (森田創 著)
2015.01.20 07:01

「わしは、まっつぐが好きや。まっつぐを打たれたら練習する」

 巨人軍の伝説のエース・沢村栄治にはこんな口癖があったという。

 監督からコーナーをつく投球をすべきだと言われ、「ど真ん中に投げれば打たれませんから」と答えた大投手の矜持。私は本書を読みながら、この作品にも同じような直球勝負の心意気があると思った。

 本書は電鉄会社に勤める元野球少年の著者が、「幻の球場」と呼ばれる洲崎球場の歴史を発掘した一冊だ。

 プロ野球が蔑みを込めて「職業野球」と呼ばれていた黎明期、江東区の埋め立て地に建設された球場は、高潮が来ればときに水没し、満員になれば全体が音を立ててきしむ粗末な木造球場だったという。この球場が球史の表舞台で活躍したのは昭和十一年から十三年にかけての二年足らず。その間には沢村の三連投や巨人・阪神伝統の一戦など伝説的な試合がいくつも行われた。だが、球場の歴史は戦争の混乱の中で、その解体時期すら分からぬままに失われてしまう。

 著者は故・川上哲治氏や当時の観客たちの証言、散逸していた膨大な資料を集め、謎に満ちた球場の姿といずれ戦争に翻弄される選手たちの青春を描いていく。

「軽業師しっかり」「千手観音様!」といった魅力的な野次や声援、フィールドに乱れ飛ぶ座布団。冒頭に挙げたような血の通ったエピソード満載の試合描写はまさに笑いあり涙ありの群像劇で、その場に居合わせているかのような臨場感を抱かずにはいられない。その短くも濃密な球場の最盛期を再現する細部へのこだわりは、航空写真をもとに球場の模型まで作った深い思い入れゆえだろう。読んでいると、近代史の生暖かい一断面に触れているような気持ちにさせられるのだ。

 テーマへの愛情が一つの時代を甦らせると同時に、そうしたいと願った著者の思いが、清々しいほど真っ直ぐに伝わってくるノンフィクションだ。

週刊文春WEBより)


短命に終わった東京の球場としては、戦後「光の球場」として知られ、秋元治の漫画『こちら亀有公園前派出所』で描かれた東京スタジアム(単行本第82巻収録)が思い出されるが、戦前の洲崎球場は、プロ野球草創期の球場だった。

戦前のプロ野球については、巨人(読売)*1とタイガース(大阪、のちの阪神)の二強だったとか、沢村や景浦など、戦死した名選手がいた、くらいの認識しかなかったが、阪神電鉄などとともに読売の正力松太郎に声をかけられたのが名古屋の新愛知新聞だった。そして阪神のライバル・阪急と新愛知新聞のライバル・名古屋新聞も職業野球のリーグに加わった*2、巨人やタイガースとは対照的な、どうしようもない弱小球団だった。しかし、親会社が御用新聞社だったためか、政界の黒幕・武部申策や、その子分である暴力団・赤羽組の組長・赤羽隆次らの肝煎りで応援団が結成されたりして、ブルーカラーの多い深川の庶民は、判官贔屓もあって弱い大東京に拍手喝采したという。戦前は「下等な職業」とされた職業野球のいかがわしさを象徴するような、それでいてなんとも魅力的な話。その大東京の弱さはノンプロにも大敗するほどのひどさだった。それが、洲崎球場のこけら落としのオープン戦で名古屋に勝った。初めて公式戦が行われた「洲崎シリーズ」では3勝3敗の成績を残し、祝勝会が行われたという。本には巨人とタイガースの「伝統の一戦」の嚆矢となった沢村栄治と景浦将の対戦や、両球団によって争われた年間王者を決める3連戦の話も出てくるが、私には規格外の球団・大東京の話の方が面白かった。但し、大東京はスワローズとは関係ない。それどころか、大東京の末裔は横浜DeNAベイスターズなのである(笑)。

洲崎球場のオンボロさも、経営難の国民新聞や弱小球団・大東京にふさわしかったかもしれない。その洲崎球場で行われた「洲崎シリーズ」の熱狂と、その熱気があっという間にしぼんでいった様子を描く後半が、本書のハイライトである。

後楽園スタヂアムという、ガタイだけは立派だが両翼78メートルしかない「箱庭球場」が建設されるや洲崎球場はそれに主役の座を奪われ、国民新聞も経営難から大東京球団をライオン(小林商店)に明け渡すと、大東京は「ライオン」と改称され、その半年後に球団の本拠地も大阪へと移った。かくして墨東のプロ野球球団は消滅し、洲崎球場でプロ野球の試合はほとんど行われなくなった。それでも、一定の期間は球場は取り壊されずに存続した。

結局、おそらく戦時の物資調達のためであろう、洲崎球場は取り壊されたが、驚くのはその解体時期が特定できないことだ。著者は「洲崎球場は、昭和18年2月から昭和19年10月の間に解体されたと考えるのが妥当であろう」(本書251頁)と書いている。なんと1年9か月もの幅があるのだ。

連想されるのは、東京大空襲の被害の詳細な実態が明らかになっていないという事実だ。戦時中の日本政府が行ってきたのは「棄民政策」にほかならず、国民を見殺しにしたとしか言いようがない。だから空襲の被害を調査する気などなく(戦争末期にはその能力も失っていたのだろうが)、ただ被害の程度を過小に宣伝することや、皇居を守ることしか頭になかった。その当時の「国策」が間違いだったことさえ認めようとしないのが現首相の安倍晋三である。

もっとも、想像を絶するほどひどかった本所・深川の空襲にあって、洲崎球場の跡地一帯は不思議と被害が小さかったらしい。以下本書の「エピローグ」から引用する。

 3月10日未明の東京大空襲永代通りは火の海となった。電車通りには、焼死体が枕木のように並べられた。東陽公園は仮設の埋葬所となり、無数の卒塔婆が立ちならんだ。

 洲崎球場はすでに解体されていたが、隣にあった中央自動車学校の白い建物は無傷だった。どういうわけか、球場一帯だけ焼けなかった。どこに逃げても袋小路となったあの日、境橋を渡って、球場跡地を通り過ぎ、葦ケ原までたどり着いた人たちは助かった。

(森田創『洲崎球場のポール際 - プロ野球の「聖地」に輝いた一瞬の光』(講談社,2014)255頁)


プロ野球ファンならずとも一読をおすすめしたい本である。

*1:私はこの球団を通常「読売」と表記するが、この記事では例外的に戦前の呼称に従って「巨人」と表記する。

*2:新愛知新聞と名古屋新聞は、戦時の統制経済の時代に合併して「中日新聞」となった。 ところが、正力の当初の構想にはなかった「大東京」という球団がリーグに加盟した。親会社は東京の国民新聞社であり、徳富蘇峰が創刊したこの新聞は、「御用新聞」として知られていたという。同紙は経営に苦しみ、1933年に新愛知新聞傘下に入っていた。それにかこつけてプロ野球に進出してきたのだった。 その国民新聞が、当時の東京市の東の果て、つまり場末だった洲崎に作ったのが「洲崎球場」だった。大東京とは、名前だけは強そうというべきか、はたまたこけおどし的なネーミングというべきかはわからないが((私は名古屋にあった「大名古屋ビルヂング」を連想してしまった。