kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

私の「格差・再分配」論 & 「日本スゴイ」論批判

最近は根を詰めて文章を長時間書くとすぐ調子が悪くなるので、年末年初にピケティの本を読んで触発されて以来の「格差社会」に関する私の感想を簡単に書いてみる。

70年代の三角大福*1が全員世襲の政治家でないというのは、敗戦直後の日本が文字通り「頑張った者が報われる」社会だったからだ。だから昭和20年代(1945〜54年)以来の彼らの頑張りが、彼らを70年代に総理大臣に押し上げた。

ところがその反面、70年代というのは、高度成長社会も終わって日本人も「豊か」になるとともに、財産の世襲によって政界でも世襲が幅を利かせ始めていた時代でもあった。当時の最高指導者は世襲ではなかったが、それ以下の世代では、橋本龍太郎小沢一郎などといった世襲政治家が台頭し(のさばり)始めていた。しかし、政官業いずれの最高指導者層は何もないところから努力でのし上がっていった人だったことと、もう一つは戦争で壊されて何もないところからのキャッチアップだったことという2つの要因があったから、戦後の日本は成功を収めることができたのである。その戦後日本の成功に世襲政治家の大部分は何の役にも立ってこなかった。彼らは親の財産によって自らの地位を得たのである。

そのうちに、最高指導者層も世襲になる時代になった。世襲の有無に関係ない実力競争の時代と、世襲がモノをいうハンデ付き競争の時代との比較では、前者の方が圧倒的に望ましいことは当たり前である。だから後者の状態にある現在の日本は沈み行く一方だ。

早川タダノリが指摘するように、過去に明治から敗戦までの流れにおいて、「日本スゴイ」と喧伝された時代は戦時中であるが、この時代は日本の指導者の質がもっとも低下した時代でもあった。現在も同様だ。過去において日本人がもっとも「スゴかった」のは、たとえば「憲法研究会」にかかわった人たちが頑張っていた時代である。現在の腑抜けた日本人など戦時中の指導者及びそれに屈従した日本国民と同じレベルでしかない。

今の日本に必要なのは、世襲というハンデが撤廃された実力の競争だ。特に国政の世界においては、実力の競争はどんなに厳しくても厳しすぎることはない。しかるに、現在の政界は世襲政治家天国である。一種の「貴族政治」であるといえる。その「世襲貴族」たちが「頑張った者が報われる」と称して富裕層の所得や資産への課税に反対するが、実は彼らは言葉とは裏腹に、自らの係累の者が頑張らずとも資産にモノを言わせて特権階級に居座り続けることができる枠組みを死守しようとしているに過ぎない。

世間一般に持たれているイメージとは異なり、私は「富の再分配」は、戦争によってリセットされずとも各分野において真に実力のある者が指導する社会をつくるためにこそ必要だと考えている。ピケティを読んで思ったのは、そんな社会は歴史上一度もつくられたことはなかったに違いないということだ。

最初に述べた戦争との絡みで言えば、先の戦争のような破壊によってではなく、持続可能に「頑張った者が報われる」ことを可能にする制度をつくることが、現在及び未来の人間に課せられた大きな課題であると考える。そのためには資産の世襲に厳しい制限が加えられるべきは当然であろう。