kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

三浦瑠麗+小林節+舛添要一、安倍晋三に9条改憲を促す/矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』批判序説

朝日オピニオン面「右傾化」特集に載った三浦瑠麗のインタビューがひど過ぎる - kojitakenの日記(2015年4月13日)に続いて三浦瑠麗の話から始める。

昨日公開した きまぐれな日々 「『右』も『左』もない新聞」と化した朝日新聞に呆れるに杉山真大さんからいただいたコメントより。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1386.html#comment18691

三浦瑠麗といえば、今月の10日に発売された『文藝春秋』最新号 http://amzn.to/1CGJK6y で、舛添要一都知事や(何故か"リベラル"に受けのいい)小林節と一緒に安倍首相よ、正々堂々と憲法九条を改正せよという対談をしているんですよね。自分も昨日、その部分を立ち読みしてきたんですけど、いわゆる自民党のトンデモ憲法改正案を批判する格好をしながら、だから「立憲主義」に則った望ましい憲法改正をしろってのが対談の論旨だったんですよね。

多分、この対談を読んでそれに同意してしまう様な"リベラル"って結構いるんじゃないか、って自分は思いますね。というのも自民党のトンデモ改憲案が出た際には「『立憲主義』すら理解していない」ってのが目立っていて、寧ろ日頃は憲法改正を主張する方々でさえ憲法改正を本音ではやりたくがないためにワザとこんな案を出したのでは?という"陰謀論"さえ囁かれていたのですから。

何と言うのか、「右傾化」言説って後藤和智氏の言う様な"俗流若者論"の様に目立った現象を取り上げて解り易いが事実とは言い切れないのを大袈裟に言うのが目立ってしまってて、こういう底流での目立たない形での自壊に目が行かなくなっている・そして"リベラル"がその現象に手を貸すばかりか先頭を切ってしまっているってのを、もう少し考えるべきだと自分は考えるのですが(後略)

2015.04.13 09:39 杉山真大


文春最新号(2015年5月号)の鼎談は知らなかった。現時点ではまだ読んでいない。この鼎談に関して、ネット検索によって下記記事を見つけた。

http://d.hatena.ne.jp/morita-tei/20150412(2015年4月12日)

文春5月号で、舛添要一小林節、三浦瑠麗三氏が「安倍首相よ、正々堂々と憲法九条を改正せよ」というテーマで対談しています。「自民改憲草案は知能レベルが低すぎる」が副題となっていまして、はなはだ刺激的ですが、自民改憲草案ー安倍の憲政理解が立憲主義を知らない、道徳と法の区別が分かっていない、等々のことを、頗る明快に論じています。マトモな大学法学部で憲法の講義を聞いていれば、舛添、小林両氏の言っていることは当然ですが、自民、安倍改憲派は、これが分かっていないわけです。舛添、小林両氏は芦部信喜教授の講義を聞いていると述べていますが、小生は芦部教授でなく、小林直樹教授の講義で習っています。安倍の強圧的政治姿勢にはウンザリし、反吐を催すところがありますが、多数派ならば何をやってもよい、というあたり、授権法のナチスに変わるところがありません。対談の三人は自民系の立場に立つ論者ですが、そこから自民の知能レベルが低すぎるという批判が出るあたり、自民の劣化を思わざるを得ません。


なるほど、上記論者は「リベラル」寄りの立場と思われるが、舛添、小林、三浦の3人の主張を肯定している。
しかし、「リベラル」で「憲法9条を守りたい」と考えている人間なら、彼らが「憲法9条改正」を目指している点を看過してはならないことは当然だ。

文春の鼎談に関して、保守と思われる論者のブログ記事も見つけた。

「安部首相よ、正々堂々と憲法9条を改正せよ」 | 流す日々(2015年4月9日)

(前略)(巻頭随筆を除いた)トップ記事は、「安部首相よ、正々堂々と憲法9条を改正せよ」、舛添都知事小林節慶應義塾大学名誉教授、国際政治学者三浦瑠麗の鼎談である。安倍が再び総理になって以来、私も何度か「安部総理よ、憲法改正という王道を歩め」と書いているくらいだから、この記事に全面的に賛成する。昨年7月、集団的自衛権行使を閣議決定された時にも「集団的自衛権行使を憲法解釈変更で、は是か」とこれに否定的なブログを書いた(7月2日)が、鼎談者全員も、それぞれ、「危機感を覚える」「法治国家でなくなる」「筋が悪い」と論評する。小林は「国の存立にかかわる海外派兵は、国連決議か国会の事前承認などの制約を受ける仕組みを作らなければ憲法としての役割を果たせない」とする。憲法とは国家権力から個人の基本的人権を守るために主権者である国民が制定するもの、これが立憲主義であるから、考えるべき議論だろう。天皇の地位について、自民党の第2次改憲草案で「国家元首」としていることに疑問を呈している。対外的に既に元首として認識されているのに、「国家元首」ごとき手垢のついた表現はふさわしくないというものである。私も、権力でなく権威としての天皇は、日本の歴史の大部分であり、これは「象徴」と言うのがまさにふさわしいと考えている。この2次草案は、無闇矢鱈と価値判断の入った言葉が多いという。法律は道徳ではない。(後略)


鼎談は未読ではあるが、舛添、小林、三浦の3人の主張は、朝日新聞に掲載された池澤夏樹の「左折の改憲」及び池澤が引用した矢部宏治の「日本はなぜ『基地』と『原発』を止められないのか」と響き合うものがあるのではないかと思われる。下衆の勘繰りでいえば、「リベラル」を代表する朝日と「保守」を代表する文春が「9条改憲」の着地点を探っているような印象を受けるのだ。

ついでに書いておくなら、矢部宏治は明らかに鳩山由紀夫系列の人間である。矢部のトンデモ本『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)を「CHAPTER 2 福島の謎」まで読んだが、少し前に書いた下記記事で呈した疑点に、矢部は答えていなかった。

「日米原子力協定があるから『脱原発』できない」って? - kojitakenの日記(2015年4月8日)より

ところで、私は矢部宏治が書いた『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)をまだ読んでいない。その上で、池澤のコラムで疑問に思った箇所をメモしておく。

池澤は、

 ドイツにならって原発を廃止しようと思っても、日米原子力協定のもとではその権限が日本にはない。

と書いている。おそらく、矢部の本にそう書いてあるのだろう。

だが、これはいかにも不思議な話だ。なぜなら、原子力発電(核発電)は、日本の自主独立を目指した(孫崎享が「自主独立派」に分類しているかどうかは知らないが)中曽根康弘の旗振りで導入されたものだし、今でも石破茂が公言している通り、日本が核武装するポテンシャルを確保しておきたいために、自民党は絶対に原発を止めたくないことは周知の通り。

一方、過去に日本と戦争を行ったアメリカにとっては、日本の核兵器製造可能なプルトニウムの備蓄に上限を設けて歯止めをかけるという線は絶対に譲れない。

アメリカの意向があるからドイツは「脱原発」ができても日本にはそれができないという理屈を、矢部宏治がどうこね回しているのか、これを読む前の楽しみにしておきたいと思うが、脱原発に関していえば、自民党政権経産省電事連・電力総連やらが絶対にやりたくない上、国民の多くも「原発はなければない方がよいけれども少々は止むを得ない」などと漠然と思っているだけで、本気で原発を止めたいと思っていないから「脱原発」ができないだけの話だ。矢部や池澤はアメリカという「逆らえない強大な国」の圧力をかけているために、「無力な日本国民は『脱原発』をしたいのに、アメリカがさせてくれない」と言いたいのだろうか。理解不能である。


私が指摘した最大の疑問は、アメリカがなぜ自国の国益に反する日本のプルトニウム備蓄を助けるような「原発継続・再稼働」への圧力を日本にかける(と矢部は確かに主張している)のかということだ。アメリカは、現時点での同盟国の軍備増強を手放しで喜び、援助するようなお人良しの国ではない。「同盟国」に全面的に寄りかかるような間抜けな政府を持つ国は、先進国では日本くらいしか私には思い浮かばない。かつて自国を悩ませた敵国であった日本の核武装のポテンシャルを高めることが、アメリカの国益に適うはずがないのである。

矢部はこの疑問には全く答えていない。日米原子力協定があって、日本は原発を止めたくても止められないのだと書いているだけだ。アメリカが日本に原発を推進させているという具体例はいくつか書いてあるが、アメリカが日本に原発を推進させる根拠については、

もともとアメリカ政府のエネルギー省というのは、前身である原子力委員会から原子力規制委員会を切り離して生まれた、核兵器および原発の推進派の牙城だからです。(99頁)

と書くのみだ。まるで説得力がない。なぜかつて米兵を恐れさせた狂気の特攻を行った日本という「元敵国」の核兵器保有推進にアメリカが手を貸すのか(矢部の理屈に従えばそういうことになる)という疑問に対する説得力のある説明を、矢部は全くできていない。



脱原発」派なら誰でも、アメリカが1979年のスリーマイル島原発事故以来、30年以上新規原発を建設してこなかった(最近になって原発建設再開の動きが出ているが)という事実を知っているはずだ。そりゃ日本の原発建設がアメリカのメーカーの利益になるということはあるだろうが、その程度の「圧力」などたかが知れており、日本人が本気で原発を止めたいと思ったら止められる話だ。要するに本当に原発を推進したかったのは日本の政府と経産省と電力会社や電力総連や原発関連産業の関係者であって、なおかつ日本国民に本気で原発を止めたいとする強い気持ちがないという、それだけの話である。日本人が本気で原発を止めたいと思っているなら、統一地方選があんな結果(自民党の圧勝)になるはずがない。

ところで、矢部の本の「基地」の部分はまだ読んでいない。基地に関しては、アメリカにとっては自国のコストを肩代わりしてくれる日本に居座り続けるメリットがあるから、アメリカから日本への強い圧力があることは事実であろう。しかし「原発」を「基地」と同列に論じるべきではない。

矢部は鳩山由紀夫系列の人間であるが、矢部と同じく鳩山系列の人間である植草一秀*1が沖縄入りして講演会まで行ってサポートした「ハイサイおじさん喜納昌吉は、昨年の沖縄県知事選でお話にならない惨敗を喫した。鳩山一派の主張が沖縄で相手にされていない証左であろう。

そんな矢部のトンデモ本は、アメリカに頭が上がらない年月が続いてストレスを貯め込んでいる(沖縄ではなく)日本本土の一部「リベラル」たちの鬱憤の捌け口を提供しているだけの「マスターベーション本」に過ぎないのではなかろうか。そう、ネトウヨが大好きな「嫌中・嫌韓本」や「日本スゴイ本」と同じカテゴリに属する本である*2

その矢部のトンデモ本についた「アマゾンカスタマーレビュー」の酷評を、冒頭に紹介した「きまぐれな日々」へのコメントをいただいた杉山さんから教えていただいた。下記のレビューには私も同意するところ大であった。

http://www.amazon.co.jp/review/R1RBUPS4GBJ6WL/ref=cm_cr_pr_cmt?ie=UTF8&ASIN=4797672897

★☆☆☆☆ 嫌韓本と同じジャンルの被害者ファンタジー, 2015/1/18
投稿者 てつおくんのともだち
レビュー対象商品: 日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか (単行本(ソフトカバー))

米軍撤退とか原発廃止のためには憲法改正が必要という本。
私にはそうは思えません。米軍撤退とか原発廃止、そういう主張をする政党を選挙で国民が選べばいいだけでしょ。残念ながらそうはならないとしたらそれが現在の国民の選択だということ。鳩山政権をアメリカが倒したみたいな事を彼らは言いたいわけだけどそうじゃない。世論の支持がなくなったから鳩山は続けられなくなった。官僚が協力しないとかアメリカが官僚とぐるだからとかいろいろ書いてるけど、それなら鳩山がだめでもまた同じ主張の政治家を国民が選べばいいんだし。国民世論がアメリカによって操作されるからそんなことできない?だったら憲法改正だってできないよね。

だからそういう政党が国民の支持を得るためにはどうしたらよいのかということを我々は考えるべきなのであって、アメリカを敵視するとか憲法改正とか、何を枝葉にこだわってるのかねという気がします。

国民世論の意志と力で適切な政治的指導者を選べば米軍の問題も原発の問題も変えられるのです。しかしそこを見ずに問題の根源はアメリカだと批判する本です。
先日目にした蓮池透さんのインタビューのなかに「被害者ファンタジー」という言葉が登場しました。この手の本になぜ需要があるのかをうまく説明できる言葉ではないかと思います。嫌韓本・嫌中本なども同じ事が言えると思います。嫌韓本・嫌中本の場合は太平洋戦争での日本の加害性に向き合い認める事ができず、加害者だと言われて鬱屈した感情を持っている人を対象とします。実は韓国・中国が加害者で、日本国民は被害者であると「隠された真実」を「暴露」し、偏狭なナショナリズムを肯定することによって鬱屈とした気持ちを解放してくれるわけです。
この本の場合も同じような構図だと思います。
基地問題原発の問題を自ら解決できない鬱憤を、外部に迫害者を設定し、巧妙にしかけられた「法的・歴史的トリック」を「暴露」し、自らを被害者だと自認することによって解放してくれる。

単純に投票行動によって変えられることなのに、非現実的な憲法改正という解決法に逃げて終わり。被害者ファンタジーに浸れて読者は満足。そういう本だと思います。

一つ一つの歴史のエピソードは面白いけどね。


実はこのレビューはいたって不評で、カスタマーレビューの大半は5つ星である。数少ないネガコメであるこのレビューには強烈な反論のコメントがついており、コメント主は

さも憲法改正がこの本のテーマであるような嘘を言うのはやめましょう。

と書いている。しかし、レビュー主とコメント主のいずれの主張が正しいかは、矢部の本を読んで池澤夏樹朝日新聞のコラムで「左折の改憲」を言い出したという事実によって判定が下された。

要するに現在は、安倍晋三以下の極右とそれを支持する右翼(ネトウヨを含む)、舛添要一小林節や三浦瑠麗ら「立憲主義を尊重する保守」であるらしい人々、それに鳩山由紀夫系列の似非「リベラル」たちや朝日新聞その他が翼賛して「9条改憲」へと突き進んでいるのだ。そう現状を認識しなければならない。

矢部宏治のパトロン格である鳩山由紀夫が、かつて『文藝春秋』に何を書いていたか。憲法改正論である。1999年10月号に掲載された。その直前の1999年9月号には、当時自由党の党首だった小沢一郎改憲論が掲載された。当時、鳩山の改憲論は、タカ派で悪名高い小沢の改憲論よりさらに危険だと酷評されたものだ。

池澤夏樹が幻想する「左折の改憲」は、実は安倍晋三の「右折の改憲」と全く変わるところがないのである。

*1:最近では、植草一秀は例えば『反戦な家づくり』のブログ主のような「小沢信者」からも批判を浴び、ブログからリンクを切られるなどしている。

*2:私は矢部のトンデモ本ジュンク堂書店の池袋店で買ったのだが、小さい本屋でも平積みで売られているこのトンデモ本は、ジュンク堂ではあまり目立たない位置に置かれていた。神戸発祥のジュンク堂は、三省堂なんかよりよほど見識のある、まともな本屋だと改めて思った。私は意地でも店員に本の所在を聞くものかと思って1時間半も探して、ようやく3階のエスカレータを上がって目の前の平積みコーナーの右手にある棚に、表紙を向けて6、7冊重ねて置いてあるのを見つけた(いざ気づいてみると、比較的目立つようには置いてあったといえるかもしれない)。その棚の裏には「日本スゴイ」本が並んでいて、なるほど、矢部のトンデモ本は「日本スゴイ本」と同じカテゴリの本なんだなと、妙に納得したものだ。