ゴールデンウィーク中の護憲集会に民主党の長妻昭が出てきたこと自体、日頃から長妻に好感を持っていない私としては、なんだか白々しいなあと思っていたのだが、なんと長妻昭は共産党の志位和夫と手をつなぐのを拒否したのだそうだ。
いかにも長妻らしいなあとか、やっぱり民主党だなあなどと、長妻や民主党に対するネガティブな印象しか持てなかった。民主党応援色の強い「リベラル」のブログがこの件を見て見ぬ振りをしているのもいつものことだが、このような身びいきが支持政党をますますダメにするのである。同様の傾向は、「生活の党となんちゃらかんちゃら」支持系のブログ群にはさらに強烈にある。結局、2009年に「政権交代」を果たした民主党は、小沢(・鳩山)系も反小沢系もみんなひっくるめてダメだったんだなあとつくづく思う。
ところで、本屋で江藤淳の『一九四六年憲法 その拘束』が「文春学藝ライブラリー」から出ているのを見かけたが、下記文春のリンク先から確認できる画像を見ると、帯に
などという毒々しい文字が印刷されているのが目に突き刺さる。
文春学藝ライブラリー『一九四六年憲法 その拘束』江藤 淳 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
江藤の本に関して、以下、文春のサイトから転載する。
文芸批評家として活躍する一方、アメリカが作った戦後憲法や日本の言語空間を鋭く批判し続けた江藤淳による、『閉ざされた言語空間』とならぶ「日本戦後論」の代表作。
全共闘運動や三島由紀夫の自決事件など、遊戯性と虚構性の域を出ない戦後日本の政治運動を「ごっこ」と名指し、公的なものが存在しない日本を批判した「『ごっこ』の世界が終ったとき」(1970年)。また、検閲により一切の批判を封じられ成立した日本国憲法の成立過程を、米国公文書館の史料等を基に検証し、憲法批判がタブー視される時勢のなか、「押しつけ」憲法だと鋭く批判した「一九四六年憲法――その拘束」(1980年)。
占領期から主権回復を果たした日本国内において、アメリカの影響下から脱却できない日本の「言語空間」の問題点を問う、1960年から1980年に発表された6本の論文を収録する評論集。
昔から政治に関心のあった者なら誰でも知っている通り、江藤淳の「押しつけ憲法論」は、保守派による日本国憲法批判論の典型例である。江藤の本は「反米保守」の立場から書かれているが、どうやら白井聡はその江藤淳に強い共感を示しているらしい。白井聡というのは、いうまでもなく、内田樹、孫崎享、矢部宏治らと同じグループに属するとみられる論者であり、池澤夏樹や朝日新聞にいわゆる「左折の改憲」を焚き付けた一派とみなされる。しかし、矢部宏治が唱える「押しつけ憲法論」は江藤淳の主張と変わるところなど何もないだろう。つまり、「左折の改憲」というのは池澤夏樹の幻想に過ぎないのである。
内田樹らのグループの中でも、孫崎享については、岸信介や佐藤栄作へのシンパシーを隠さない「右翼」であるとして、私は3年前から今に至るまでずっと批判し続けているが、白井聡も孫崎の同類と見るほかない。池澤夏樹や朝日新聞に対しては、あんたらが「左折の改憲」とか「下からの改憲」などと思っている(または思い込もうとしている)ものは、つい80年代までの「右からの改憲論」の典型的な立論とまるっきり同じなんだよ、と強く言いたい。
「リベラル」が感情的な「反米」ムードに安易に乗っかって、「『右』も『左』もない」などと言い出したことで自ら墓穴を掘り、自分が掘った穴に自分が落ちてしまったのが現状であるように思われる。