kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

加藤典洋『戦後入門』を読む(1)〜第三部「原子爆弾と戦後の起源」より

加藤典洋の『戦後入門』を読了した。


戦後入門 (ちくま新書)

戦後入門 (ちくま新書)


結論から言えば、私は加藤が提言する「左折の改憲」には反対だ。だが、その議論はこの記事では行わない。必要と思ったら別途記事を書くかもしれないし、書かないかもしれない。

しかし、この本は、当初私が予想していたような(たとえば孫崎享の『戦後史の正体』のような)「トンデモ本」ではなかった。そこで、この記事ではこの本のうち面白いと思った点をつまみ食いする。

ところで、自ら「左折の改憲」という、池澤夏樹が今年4月に朝日新聞夕刊掲載のコラムに書いた言葉を引用して提言を行っているからには、加藤は自らを「左」と規定しているのだろうが、かつて加藤が左から手厳しく批判されていたらしいことだけは漠然と知っていたし*1、当時批判された『敗戦後論』の焼き直しと思われる第一部「対米従属とねじれ」での主張には私も強い違和感を持った。それで、最近ちくま学芸文庫から復刊された『敗戦後論』を買って(ちくま学芸文庫の本はちくま文庫より値段が高いので、痛い出費だった)、その初めの方を読んでみたが、『戦後入門』の第一部と同じような主張が書かれていながら、印象はかなり違う。


敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)


おそらく『敗戦後論』を書いた当時の加藤は自らを「左」とは規定していなかったのではないか。右翼批判よりむしろ左翼批判のトーンが強い。とはいえ、昭和天皇の戦争責任を問うべし、と言っているから「右」でもない。文学者である加藤は、少し前に流行った「『右』も『左』もない」ではなく、「『右』でも『左』でもない」論者だったが*2、日本社会全体がこの20年で激しく右傾化したため、相対的に「左」に移ったものだろう。

さて、『戦後入門』で一番良いと思ったのは真ん中に置かれた第三部「原子爆弾と戦後の起源」だった。

そもそもこの本は、日本国憲法について、かつて江藤淳が提起した問題から書き起こされている。江藤の論文を収めた本は、最近文春学藝ライブラリー(このシリーズも値段が高い)に収録され、白井聡レーニン研究家)が解説文をつけている。



だから、最初は『戦後入門』も、なんだ、典型的な保守人士による憲法論か、と思ったが、加藤典洋は第三部「原子爆弾と戦後の起源」で江藤淳と、その流れを汲む、というより、イザヤ・ベンダサン*3というユダヤ人をでっち上げ、自らをその「訳者」と偽って出版した本をベストセラーにした詐欺師にして右翼だった故山本七平の名を冠した賞を受賞した「あの」孫崎享に批判を加えている。以下、『戦後入門』より引用する。

 江藤の問題は、戦前と戦後の日本の連続性に立って、いわば戦前の日本からのみ、戦後の米国に「対抗」しようとしていることです。孫崎の観点にも「日本の国益」からのみ、このときの(=重光葵の;引用者註)「対抗」を回顧している点で若干、同様の弱点があるように思います。しかし、戦前日本の立場と価値観は、敗戦により、戦後の国際社会によって否定されたのですから、その日本の「対抗」は、「国益」に立つだけでは、米国の不当な占領政策に対する「抗議」としては、日本以外に、通用する根拠を持っていません。国際社会では誰ひとり、これに「耳を傾ける」理由を持てないのです。

加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書,2015)283頁)

この論評は、孫崎に対して「『若干、同様の』弱点がある」などの余計な言葉を入れて批判に手心を加えていることを除けば納得できるものだ。283頁まで読んでようやく、加藤の論が江藤淳孫崎享らとは一線を画するものであることがわかった。このあと第三章の終わりまでの部分はなかなか快調だ(但し、続く第四部以降になると再び引っかかる部分が増え、加藤の言うところの「左折の改憲」には同意できない、との結論に至るのだが)。

加藤は、日本はアメリカの原爆投下の責任を問い、アメリカに謝罪を要求すべきだが、今までそれがなされてこなかったという。

原爆投下については、先日読了したジョン・トーランドの『大日本帝国の興亡』第5巻と、『戦後入門』と並行して読んでいた『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』第1巻でも扱われているので、同じ件を扱う3冊の本を読んだことになる。



オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1: 2つの世界大戦と原爆投下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1: 2つの世界大戦と原爆投下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


また私は、それ以前、特に2011年の東電原発事故以降、原爆と原発に関する本を読んできた知識からいっても、アメリカが広島と長崎に原爆を投下したのは、何もアメリカ軍兵士の命を守るためではなく、アメリカがソ連との冷戦を前にして、自国を有利な立場に置くためであることは明白だと思っていた。そしてアメリカによる原爆投下はアウシュヴィッツ南京大虐殺スターリンの粛清などと並び称されるべき犯罪行為だとの確信を強めていた。

以下再び『戦後入門』から引用する。

(前略)自由と民主主義の原理を信じ、平和を希求するがゆえに、自国の犯した犯罪の責任とともに米国の原爆投下の責任を論じる、批判する、という立場がありえます。もしそういう立場に立つなら、この原爆投下の責任を論ずることは、現在にいたるまでその責任を問わない日本政府の責任を問うこと、その延長で現在なお米軍基地の現存を容認する日本政府の責任を問うことに、つながるし、また同時に、中国や韓国からの同様の戦時行為に対する批判にしっかりと向き合わない日本政府の姿勢を弾劾する日本の加害責任論へと、私たちを押し出すでしょう。

加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書,2015)294-295頁)

このあたりは理路整然として間然するところのない主張である。リベラル派にとっては当たり前の主張といえばそれまでだが、3年前に「リベラル」(主に「小沢信者」が熱狂的に受け入れたが、読者層はそれにとどまらない広がりを見せた)の間で一世を風靡した孫崎享の『戦後史の正体』はそうではなかった。それどころか孫崎は、原爆投下に匹敵する悪行である東京大空襲戦争犯罪を犯した責任者であるカーティス・ルメイに対する勲一等旭日大綬章の授章を決定した内閣の最高責任者であった佐藤栄作*4を「アメリカと勇敢に対峙した『自主独立派』の政治家」として賞揚するていたらくだった(呆)。

端折るが、松浦総三ジョージ・オーウェル小田実からの引用もある第三部の後半は、『戦後入門』の中でもっとも説得力のある部分だと思う。

このあと、「左折の改憲」との結論には同意できない第五章「ではどうすればよいのか――私の九条強化論」から、加藤の安倍晋三論をいくつかピックアップしようと思ったが、長くなりそうなので記事を分けることにする。(続く)

*1:論争相手が高橋哲哉であり、加藤が批判されたのが『敗戦後論』(1997, 雑誌初出は1995)であることは今回やっと認識した。

*2:「も」があるとないとでは大違いであって、「『右』でも『左』でもない」といえば「真ん中」を指すが、「『右』も『左』もない」といえば「全体」を指す。すなわち全体主義である。つまり、「『右』も『左』もない」とは、右翼を受け入れ、左翼や「リベラル・左派」を騙すための「全体主義」の言い換えである。

*3:その語源は「いざや、便出さん」だとの指摘がある。

*4:しかも佐藤は、沖縄返還に絡む日米密約などのアメリカ盲従政策を数限りなく展開し、ノーベル平和賞の受賞理由である「非核三原則」も自ら破っていたとんでもない極悪政治家だった。ノーベル賞委員会は佐藤のノーベル平和賞を剥奪すべきだとは、私が昔から言い続けていることである。