kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

本島等・元長崎市長死去

本島等氏には、当ダイアリーに、引用文中のものも含めて過去4度言及したが、2007年6月のものが最新だった。

http://mainichi.jp/select/news/20141101k0000m040065000c.html

訃報:本島等さん92歳=元長崎市長

 長崎市長在任中の1988年に「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言し国内外で議論を呼び、右翼団体幹部から銃撃された本島等(もとしま・ひとし)さんが31日、肺炎のため亡くなった。92歳だった。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は近く密葬を執り行い、後日「お別れ会」を開く予定。

 1922年、長崎県五島列島の北魚目村(現・新上五島町)で生まれた。旧制高校在学中に徴兵され、陸軍の西部軍管区教育隊(現・熊本県合志市)で終戦を迎えた。戦後は京大工学部を卒業後、高校教師、衆院議員秘書や県議5期、自民党県連幹事長などを経て、79年4月に長崎市長に初当選し95年まで連続4期務めた。

 天皇の戦争責任を巡る発言は3期目の88年12月7日。市議会の答弁で、自身の1年4カ月間の軍隊体験なども踏まえ「天皇の戦争責任はあると私は思います」と述べた。議会後の記者会見でも「戦争終結を早く決断していれば沖縄、広島、長崎はなかったと思う」と語った。

 当時は昭和天皇が重病だったこともあり、発言には賛同、批判両方の立場から議論が起きた。撤回の要求に本島さんは「天皇についての自由な発言ができずして、日本の民主主義の発展は期待できない」などと自身の立場を貫いた。90年1月18日、発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され、左胸貫通の重傷を負ったが、命をとりとめた。

 5選を目指した市長選(95年)で落選後も、表現の自由や原爆投下などについて発言を続けた。長崎市平和公園にある中国人原爆犠牲者追悼碑の設置・維持や、反核・平和を訴えようと市民団体が平和公園で1月1日に行う「正月座り込み」にも今年1月まで参加するなど、平和への活動に晩年まで取り組んだ。【小畑英介】

毎日新聞 2014年10月31日 20時36分(最終更新 10月31日 23時19分)


1988年9月に、昭和天皇の「ご重体」(そう当時の新聞は表現した)が報じられて以来の「自粛」を覚えている人間として、本島元市長の訃報を機に改めて書いておきたい。昭和天皇重体報道直後の日本国内の「自粛」ブームはすさまじく、何でもかんでも「自粛」することが流行した。当初、昭和天皇が今すぐにでも死にそうな報道だったからブームはなおさら過熱した。

ところが当初の予想に反して昭和天皇はなかなか死なず、延命治療が年明けの1989年1月まで足かけ5か月続いたことは、この国にとって幸運だった。国民の多くが大仰な「自粛」に倦み疲れる中、ついにと言うべきか、ようやくと言うべきか、保守の地方自治体首長から、昭和天皇に戦争責任があるという、ごく当たり前の発言がなされたからだ。この発言がなかったら、日本の「昭和末期」は後世の歴史家によってその「救いのない」惨憺たる世相を酷評されることになっただろう。つまり、本島氏の発言によって、「救いのない」という形容を辛うじて免れたのだった。

当時について本島氏が、今は亡き『論座』(朝日新聞出版の月刊誌)2006年12月号に語った内容を、当時の「きまぐれな日々」*1で抜粋して紹介したことがあるので、それから転記する。

天皇の戦争責任はあると思う」
 1988年12月、私は長崎市議会でこう答弁した。問われたから、誠実に答えた。それだけのことだった。常識に反するかなとか、抗議が殺到するかなとか、そんなことはまったく考えなかった。
 しかし、私の発言に市議会各会派は猛反発し、取り消しを求める要求が出された。右翼団体は数十台の街宣車を連ねて市内を抗議パレードしたり、市庁舎や地元新聞社に抗議ビラを張ったりした。実弾入りの脅迫状が送られてきたこともあった。長崎県内の医師の犯行だった。
 身辺警護は警察官による24時間態勢に強化され、トイレにも複数の警察官が立っていた。家族は半ば恐怖状態に陥った。しかし私は撤回も、修正もしなかった。「天皇の戦争責任はあると思う」、良心に従って述べたこの13文字を、1字たりとも削ったり変えたりしたくなかった。それは、私の政治的な死を意味すると思ったからだ。
(中略)1990年1月、私は右翼団体の構成員に、市役所正面玄関前で、公用事に乗り込もうとしたところを銃撃された。発射された銃弾は左胸部を貫通、全治1カ月の重傷を負った。
(中略)事件への社会の関心は非常に高く、全国各地で抗議集会が開かれ、参議院は「言論、政治活動の自由を暴力により封殺することは民主主義に対する挑戦であって断じて容認できない」とする「暴力行為の排除に関する決議」を全会一致で可決した。
 それに比べて、今回の加藤紘一議員の実家放火に対して、世論の反応は鈍い。
(中略)人は「刺激」に慣れていくものだ。親の子殺し、子の親殺しが頻発する現在の殺伐とした時世では、特にそうだろう。
 私は、言論の自由は、人間道徳の根幹だと考えている。しかし日本には果たして、言論の自由はあるのだろうか。あるいは、日本にある言論の自由は果たして本物なのだろうか。義理人情に阻まれて、本物の言論の自由はついぞ発揮されてこなかったのではないだろうか。
 私の天皇の戦争責任発言に対しても、「陛下が病床にある時に発言したことが許せない」という反応が少なからずあった。発言の内容ではなく、時期を云々する。ここに、日本人の「言論の自由」を守り抜くことに対する脆弱な姿勢が見え隠れしているように思う。現代に目を転じれば、小泉純一郎首相が8月15日に靖国神社参拝を断行したら、それまで否定的だったはずの世論が、容認に振れる。このような「とりあえず勝ち馬に乗っておく」といった風潮が広まっているのも、非常に怖いことだと思う。

本島等「私を銃撃した相手に会いたい」(『論座』 2006年11月号掲載)より)


思えば本島元市長が上記の発言をした時も、総理大臣は安倍晋三だった。当時私は書いた。

 本島さんが、『「とりあえず勝ち馬に乗っておく」といった風潮が広まっているのも、非常に怖いことだと思う』と仰っているのは、本当にその通りだと思う。

 今年の自民党総裁選で、安倍へ安倍へとなびいた自民党の議員たちも、みな勝ち馬に乗ろうとした。
 その、狂気に近いともいえる極右的な政策(それは右翼組織「日本会議」の思想を反映したものだ)を快く思わない議員も大勢いると思うのだが、彼らも声をあげない。

 それどころか、自由な立場でものをいえるはずのマスコミも、安倍批判を自粛している。そして、マスコミよりもっと自由に発言できるはずの一般市民、一般ブロガーまでもが、「触らぬ神に祟りなし」と言わんばかりに安倍政権への批判を自粛する空気があるように、私には思える。

 安倍政権は、そんな腰が引けた態度にこそつけ込んでくる。小泉純一郎安倍晋三も、加藤紘一の実家へのテロに対して、しばらくの間コメントを発さなかった。彼らには、テロを肯定するとまでは言わないが、少なくともテロを黙認する体質がある。

(「きまぐれな日々」2006年11月25日付記事「『言論の自由』その1 - 本島等さんの勇気」より)


第1次安倍内閣といえば、安倍晋三がバッシングを浴びて参院選で惨敗し、自ら総理大臣の座を投げ出したことばかり言われるが、安倍晋三の総理大臣就任前後はまさしく「飛ぶ鳥を落とす勢い」であって、ほとんどのマスメディアを挙げて「奉祝」報道一色だった。特に安倍晋三の総理大臣就任直前には、新聞・テレビはおろか週刊誌にも安倍批判記事が載ることは極度に少なく、数少ない批判記事を見つけてはブログで紹介する作業を続けていたものだ。それが一転したのは、2006年末になって安倍内閣の閣僚の問題が次々と飛び出したり、「ホワイトカラー・エグゼンプション」などの労働問題で安倍や当時厚労相だった舛添要一らが批判されるようになってからだった。それ以降、安倍晋三は坂道を転げ落ちていった。

上記本島等氏の発言に関連して言えば、稲田朋美加藤紘一の実家の放火を笑いものにした件にここで触れておかなければならないだろう。

昭和天皇の戦争責任に関する本島元市長の発言に戻ると、発言以前には「ありふれた保守の地方自治体首長」に過ぎなかった本島氏の人生は、この発言を機に一変した。

http://mainichi.jp/select/news/20141101k0000m040112000c.html

訃報:元長崎市長・本島さん 反核に尽力

 31日、92歳で亡くなった元長崎市長本島等(もとしま・ひとし)さんは銃撃事件に屈することなく1995年の市長退任後も戦後の残された課題について発言を続け、最期まで反核平和運動に尽力した。本島さんを知る人たちからは悼む声が聞かれた。

 本島さんの市長時代、被爆者援護などについて何度も意見を交わした長崎原爆被災者協議会の山田拓民・事務局長(83)は「差別について非常に鋭い目を向けていた。懐が深く誰とでも話ができる人だった」と振り返り「もっと話をしたかった。本当に残念」と死を悼んだ。

 また、川野浩一・長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長(74)は「教員時代、公衆浴場で教え子の背中を流しながら人生について語っていた。市長になっても庶民性は最後まで変わらなかった。市長をやめた後も座り込みに参加するなど反戦平和のシンボル的存在として運動を支えていた。亡くなったのは運動にとって大きな打撃だ」と語った。

 反核や平和を訴える市民団体が毎年1月1日に長崎市平和公園で開く「正月座り込み」に本島さんと参加していた同市の被爆者、山川剛さん(78)は、昭和天皇の戦争責任発言について「言うよりも撤回しなかったことがまれな出来事で、彼でなければ堅持できなかった」と語り「権力と対極にある人に注ぐ目は温かかった。長崎の顔がまた一つ失われた」と声を落とした。

 強制連行され、被爆死した中国人32人を悼む碑が2008年、長崎市平和公園に設置された。本島さんは、その碑の建立委員会代表を務めた。追悼式には毎年出席し今年7月もつえをつきながら碑に献花した。尖閣諸島などを巡り緊張する中で「日中友好のため、中国人強制連行問題の解決は最優先の課題だ」とあいさつした。

 昭和天皇の戦争責任を巡る発言に端を発した銃撃事件から20年となった2010年1月には長崎市での集会で元衆院議員、野中広務氏と対談。本島さんは「戦争を起こしたのは日本人で、その結果が原爆。(戦争被害に遭ったすべての国や人に対し)心から謝罪しないと今後の日本の生きる道はない」と懸念を語っていた。【小畑英介、大場伸也】


 ◇同じ時期に広島市長の平岡敬さん「残念でならない」

 本島さんと同じ時期に被爆地・広島で市長を務めた平岡敬さん(86)は「残念でならない」と話した。

毎日新聞 2014年10月31日 22時45分(最終更新 10月31日 23時49分)


こうした活動の結果、本島等氏は産経の憎悪を買う人間となった。下記は産経の訃報記事。

本島等・元長崎市長が死去、92歳 “原爆投下容認論” 右翼から銃撃も

 昭和天皇の戦争責任に言及し、平成2年に右翼から銃撃された元長崎市長本島等(もとしま・ひとし)氏が死去したことが31日、分かった。92歳。

 本島氏は長崎県議から昭和54年、長崎市長に当選。4期務めた。

 63年12月の長崎市議会で「天皇の戦争責任はあると思う」などと発言、平成2年1月に右翼から銃で撃たれ、重傷を負った。

 “原爆投下容認論”も繰り返し、10年の産経新聞のインタビューでは「日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲沖縄戦も同じだ」と語っていた。

(産経ニュース 2014.10.31 21:43更新)


文面からこれを書いた産経記者の本島氏への強い憎悪の炎がめらめらと燃え盛っているのが目に見えるような、異常極まりない訃報記事である。

産経は、「『天皇の戦争責任はあると思う』などと発言」と書いているが、この場合の「など」は発話者の発言を貶める時に用いられる日本語である。つまり、産経の記者は

(昭和)63年12月の長崎市議会で「天皇の戦争責任はあると思う」などと発言しやがったから、平成2年1月に右翼から正義の銃撃を浴び、重傷を負った(=自業自得だ)。

と言いたいのである。

本島氏の「日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲沖縄戦も同じだ」という発言に「“原爆投下容認論”」とレッテルを貼っているのも、いかにも産経らしい所業だが、ここで産経記者が「原爆投下容認論」という言葉を鉤括弧で囲わず、わざわざ「敵性用語」たるダブルクォーテーションマークで囲っていることを、右翼諸賢は「日本人(『ニッポンジン』と発音する)にあるまじき所業」として厳しく糾弾すべきであろう。

冗談はこれくらいにするが、日本が犯した戦争犯罪もさることながら、日本政府が降伏をズルズルと先送りしてきたことが原爆を招いたことは、歴史家の誰もが指摘するところであって、原爆投下を招いた日本政府の要人の戦争責任を日本人自らが追及しなければならないところであった。たとえば岸信介は敗戦を見越して早々と東条内閣から逃げ出したが、戦争を止めようとはしなかった。つまり岸には満州で行った所業や太平洋戦争開戦時の閣僚(商工大臣)としての戦争責任があるほか、戦争を止めようとしなかった責任もあるのである。その岸の孫が総理大臣を務め、男系天皇論者でありながら、平和政治家だった父方の祖父・安倍寛からは何の影響も受けず、ひたすら母方の祖父・岸を信奉している。

最後に毎日新聞の3本目の記事を。この記事からは、本島等氏の限界を読みとることもできる。

http://mainichi.jp/select/news/20141101k0000m040119000c.html

訃報:元長崎市長の本島さん 体験に基づき弱者目線

 92歳で31日、亡くなった元長崎市長本島等(もとしま・ひとし)さん。世界に平和を訴える被爆地の市長が天皇の戦争責任に言及し、テロで重傷を負ったことは衝撃度で現代史に残る。1995年の市長選落選後は論文「広島よ、おごるなかれ」で加害責任を軽視する日本の反核兵器運動に異を唱えた。こうした言動で反戦を訴えた反骨の政治家や論客と記憶されるだろう。

 隠れキリシタンの末裔(まつえい)で非嫡出子。差別や貧困から脱出するため政界へ。清濁を併せのみ、面倒見は抜群で保守政治家の実力者となった。弱さを認め、愚者を演じた処世術は自分への自信に裏打ちされ、大衆に愛される天賦の才があった。

 本島さんの核をなすのは、弱者への共感だった。「平和市長」と呼ばれ、弱者だった被爆者の援護に尽くした。被爆地と被爆者を熟知し、被爆者でなくとも被爆を語れる希有(けう)な存在だった。カトリック信者としての宗教観から銃撃犯さえ許す一方、原爆投下という被害を強調するあまり軽視されてきた加害責任は問い続けた。

 戦争責任発言の発端である議会答弁は前段で天皇の戦争責任を指摘したが、後段では責任を不問にした戦後処理を受け入れると明言した。天皇の責任追及を意図したのではなく、戦争で踏みにじられた一兵卒が抱いた実感を吐露し、日本の戦争責任を検証すれば天皇も責任を免れないという客観的な認識を示しただけだった。

 本島さんの真骨頂は自らの体験に基づく主張であり、戦争に翻弄(ほんろう)された弱者の目線だった。「戦場へ行かず人殺しせずに済んだが、自由も人権もなかった。正義の戦争はありえない。戦後育ちの政治家や学者が『力は正義』と勇ましい理論を展開するが、痛みがうかがえず『戦争なんて大したことない』と聞こえる。自分たちは戦争に行かないんだ。でも支持が増える野蛮な時代に帰りつつある」

 近年は「平和が吹けば飛ぶ存在になった」と心を痛めていた本島さん。出自や宗教での差別、戦争で味わった弱者の痛み。強者になれず理想と妥協に揺れた為政者の痛み。集団的自衛権行使が容認され、ヘイトスピーチ(憎悪表現)が吹き荒れる今、忘れてはいけない痛みを教えてくれる、かけがえのない先達を失った。【横田信行】

毎日新聞 2014年10月31日 23時00分(最終更新 10月31日 23時45分)


故人のご冥福をお祈りする。