kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

元横綱・北の湖死去

大相撲中継を見なくなって久しいので、北の湖が癌を患っていたとは知らなかった。

http://www.asahi.com/articles/ASHCN5441HCNUTQP018.html

北の湖理事長が死去、62歳 元横綱・優勝24度
2015年11月20日21時29分

 大相撲の元横綱日本相撲協会理事長、北の湖親方の小畑敏満(おばた・としみつ)さんが20日午後6時55分、直腸がんと多臓器不全のため福岡市内の病院で死去した。62歳だった。葬儀の日取りは未定。

 福岡国際センターで行われている九州場所のため福岡市に滞在していた。今年7月、腎臓に尿がたまる両側水腎症と診断され、名古屋場所を途中休場。8月に職務に復帰したが、健康状態が安定していなかった。九州場所には初日から姿を見せ、前日までは報道対応をこなし、取組の解説もしていた。

 北海道壮瞥町生まれ。中学1年だった1966年冬に上京し、三保ケ関部屋に入門。当時は認められていた中学生力士として、両国中学校に通いながら、67年初場所初土俵を踏んだ。71年夏場所十両昇進。72年初場所に幕内に昇進するなど、当時の最年少記録を次々と塗り替えた。

 74年名古屋場所後に横綱昇進。21歳2カ月での最年少記録は、いまだ破られていない。得意は左四つからの寄りや投げで、ライバルの横綱輪島との熱戦はファンの声援を二分し「輪湖(りんこ)時代」を築いた。優勝24度は白鵬大鵬千代の富士朝青龍に次ぐ歴代5位。

 現在の国技館こけら落としとなった、85年初場所中に現役を引退。横綱在位は史上最長の63場所で、横綱での白星670勝は歴代1位。幕内804勝(247敗107休)は、魁皇白鵬千代の富士に次ぐ歴代4位だった。その功績から、現役時のしこ名で親方になれる一代年寄となり、北の湖部屋を創設。元幕内巌雄(山響親方)や幕内北太樹らを育てた。

 2002年2月に理事長に就任。しかし、08年9月に弟子の元十両白露山が抜き打ち検査で大麻の陽性反応が出た責任を取って辞任。12年に理事長に復帰すると協会の公益法人化を実現し、不祥事のため低迷していた観客数の増加にも尽力した。

朝日新聞デジタルより)


この訃報には驚いた。というのは、2,3日前に白鵬の「猫だまし」を北の湖が批判したことが報じられていたからだ。

http://www.asahi.com/articles/ASHCN6QS4HCNUTQP02T.html

亡くなる前日も観戦 北の湖理事長、横綱対決を予想
2015年11月20日21時12分

 20日に亡くなった北の湖理事長は、今場所も毎日、福岡国際センターの役員室で上位陣の取組をテレビで見ながら報道陣に解説していた。10日目の17日、横綱白鵬が関脇栃煌山戦で相手の顔の前で手をたたく「猫だまし」を繰り出すと、「横綱としてやるべきじゃあない。栃煌山が仕切っているときにガチガチだから、決めたかも知れないが、拍手も何も起こらない。稽古場のなかでやるにはいいが前代未聞じゃあないの」などと苦言を呈した。

 ただ、歩くのもたどたどしく、一般人の目に触れない場所では車いすで移動していた。「腰が痛い。目も見えにくい」などと嘆くことも多く、その声には張りがなかった。

 亡くなる前日の19日も、いつも通りに観戦。結びの一番で日馬富士が勝って1敗を守ったことで、「日馬富士は休場明けでよく1敗で来たよ。なんだかんだいいながら」と語った。13日目(20日)の白鵬日馬富士の直接対決の予想を問われると、「(白鵬から見て)7対3だね。白鵬は安定感と体の大きさ、柔らかさ、そこが強さだね」。これが報道陣への最後の言葉となった。

朝日新聞デジタルより)


北の湖の最後の予想は外れた。

ところで、私が北の湖白鵬批判から思い出していたのは、北の湖の全盛期だった1978年(昭和53年)だったと思うが、当時北の湖に歯が立たなかった大関三重ノ海北の湖との取組で猫だましをやったものの、北の湖をたじろがせることすらできなかったことだ。あの年の北の湖は本当に強かった。確か大鵬の年間81勝の記録を九州場所12日目に更新したが、それに安心したのか残り3日間を全敗して年間6連覇を逃したのだった。だが翌年の初場所春場所にも北の湖は連覇した。この頃の北の湖は本当に強かったが、猫だましなるものは歯が立たない格下の力士がやる「蟷螂の斧」みたいなものだと思っていたのではないか。

そういえば、2012年に98歳で亡くなった音楽評論家の吉田秀和北の湖の大ファンだった。

しかし、1979年の夏場所でかつて北の湖に「猫だまし」の奇襲をしたものの通用しなかった三重ノ海横綱に昇進した(在位1年あまりで引退した短命横綱だった)。また、1981年初場所では、千秋楽の本割りで北の湖が関脇・千代の富士に勝ったものの同点決勝では千代の富士北の湖に勝った。吉田秀和は、これらの取組で北の湖が負けたのは八百長だったのではないかと疑い、1982年春に『週刊朝日』に書いた文章で疑惑を抱いていることを告白したあと、それまでしばしば書いていた相撲に関する文章を書かなくなった。

訃報が流れた日にかつての八百長疑惑を書くとは不謹慎極まりないとお叱りを受けるかもしれないが、もはやこんなタイミングでもない限り思い出さないであろうし、世間一般にもほとんど知られていないことだろうから、あえて書いておく。なお吉田秀和の文章が載った『週刊朝日』を私はとっておいたはずだが、どこに仕舞ったのか、あるいはもう処分してしまったのか、それすらさだかでない。

ただ私も、北の湖が無敵を誇っていた頃は嫌いだったが、1980年以降には北の湖の相撲は結構好きになったし、千代の富士との取組ではいつも北の湖を応援していた。以前にも書いたかもしれないが、私は千代の富士が大嫌いだったし(今も嫌いだ)、故北天佑の弟に対するリンチ事件を私は未だに忘れていない。だから北の湖千代の富士(や朝潮)に負けるたびに、いったい何やってるんだと思った。しかし、北の湖八百長をやっていたかどうかは私にはわからない*1千代の富士はたぶんやってただろうと推測しているけれども(もっとも千代の富士は実力でも強かったことは認める)。

何はともあれ、故人のご冥福をお祈りする。

*1:吉田秀和が想像したように、わざと負ける方の八百長は結構やっていたかもしれないという気はする。また、最後の優勝はそれとは逆に星を買ってのものではないかと当時想像した。