kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「万死」どころか「億死」に値する戦争犯罪人―辻政信という「巨悪」

ジョン・トーランド(1912-2004)が1970年に書いた大著を今読んでいる。全5巻のうち第3巻まで読み終えた。





この大著の中で、許し難い悪役として描写されている人間がいる。辻政信である。本からの引用は省略するが、辻は「バターン死の行軍」で偽の捕虜処刑命令を出したり、ガダルカナルでも判断を誤って多数の戦死者を出す原因を作るなどした。

文字通り「万死に値する」、いや、辻によって死に追い込まれた人間は1万人を大きく超えているから、「億死に値する」とでもいうべき(もちろんその罪の重さに釣り合わない、一度だけの死を既に遂げてしまっている)辻政信をこき下ろした本を読んだのは初めてではない。3年前に下記の本を読んだことがある。


ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国 (岩波新書)

ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国 (岩波新書)


ノモンハンでも、辻は悪行の限りを尽くした。勝手に戦線を拡大して大量の兵士を死に追い込みながら、将官にのみ敗戦の責を負わせて自殺を強要した。

上記のノモンハン、フィリピン及びガダルカナルで辻がなした悪行について、ネット検索で見つけたブログ記事から以下に引用する。

2012-07-28(2012年7月28日)より

 (前略)表題の「悪魔の参謀」という言葉は、メールマガジン「軍事情報」で使われていましたが、私のミスでその記事を削除してしまいましたので、ここに私なりの辻政信像を提示しようと思います。

 「参謀 上」(児島襄:こじまのぼる:文春文庫)の辻政信に関する書き出しは以下のようになっています。マレーの虎と恐れられた山下奉文(やました・ともゆき)中将の日記に

「・・・辻中佐、第一線より帰り、私見を述べ、色々の言ありしと云う。此男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」

と記されています。

 辻政信は、お家の事情から軍人の道を選びますが、彼は陸軍幼年学校からはじめ、陸軍士官学校陸軍大学校をそれぞれ優等な成績で卒業し(だいたい1位から3位くらい)、いわゆる「恩賜の時計」・「恩賜の軍刀」をもらって、将来を嘱望されていました。克己心も強く、厳しい基準で自らを律していました。なんの問題もないように見えますが、さにあらず、戦場で見せる彼の姿は「悪魔」そのものだったのです。

 1939年日本とソ連の間でかわされた「ノモンハン事件」の黒幕を務めます。

 同年5月11日、外蒙古満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていたソビエト連邦でもジューコフ中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。
 これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに陸軍刑法第37条の擅権の罪(せんけんのつみ)に該当する重罪であった。

(以下引用者註)
 上記は辻政信 - Wikipedia より。なお、現在は下記の文章が追加されている。

 戦後の著書『ノモンハン』において辻は次のように記している。

 幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはいない。眼を皿のようにし、拡大鏡を以って、ハイラル南方外蒙との境界付近で、漸くノモンハンの地名をさがし出した。

 この記述は『ノモンハン』の出版当時、紛争に深く関わった辻の無責任さをよく表しているとして強い批判の対象となった。


 ノモンハン事件、すなわちノモンハン戦争は日本の完敗に終わります。この戦争を「事件」と呼ぶのは、日本帝国陸軍のメンツに関わるから、小さな事象とされたのでしょう。辻政信はこの戦争で敗れた将官に自決を強要しています。また、「栄転」したフィリピンで、有名な「バターン死の行進」を画策したのも辻政信です。

 フィリピン戦線を担当していた本間雅晴中将率いる第14軍は、マニラ占領後にバターン半島にこもる米軍の追撃をおこなった。しかしジャングルの悪環境や情報不足によって攻撃は一時頓挫し、東京の大本営では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。4月3日に開始された第二次総攻撃によって米軍の陣地は占領され、多くの兵士が投降しコレヒドール島を残すのみとなった。この後、米軍捕虜の移送において発生したバターン死の行進を巡っては、当時の日本軍の兵站事情および米軍兵士の多くがマラリアに感染していたことから恣意的な命令ではないとの意見が存在する。

 その一方で多くの連隊には、「米軍投降者を一律に射殺すべしと」の大本営命令が兵団司令部から口頭で伝達されていた。大本営はこのような命令を発出しておらず、本間中将も全く関知していなかった。当時歩兵第141連隊長であった今井武夫は、戦後の手記において、この命令は辻が口頭で伝達して歩いていたと述べている。

 バターン西海岸進撃を担当した第十六師団の参謀長渡辺三郎大佐の記憶によると、4月9日、大挙投降した米兵が、道路上に列を作っているのを見て、辻は渡辺に捕虜たちを殺したらどうかと勧告した。渡辺が拒否すると、辻は「参謀長は腰が弱い」と罵った。また、辻は森岡皐師団長に同じことを進言したが「バカ、そんなことができるか」と一喝されて退いた(引用者註:辻政信 - Wikipedia より。なお、現在では最後の段落が削除されている)


 どんな失敗をしても許されるのが辻政信みたいで、この「バターン死の行軍」は戦後アメリカから激しく非難されます。そして次に出向いたのがガダルカナル島の攻防戦です。

 ガダルカナル島の戦いでも実情を無視した攻撃を強行した。

 辻の責任であるとする説によると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の川口清健少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。

 しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、ジャングルの中を通る急峻な道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった。この条件では作戦の失敗も当然であるが、戦後辻はこの作戦の失敗を川口になすりつけ、自著『ガダルカナル』で「K少将」と川口の名を伏せ、専ら自分に都合が良いように描写した(引用者註:辻政信 - Wikipedia より)


 辻はこのガダルカナル攻防戦において、「兵力の逐次投入」という愚策を弄し、イタズラに兵力を消耗し、「飢島:飢え死にの島」という異名まで産み出しました。これで、陸軍の間では「作戦の神様」と呼ばれていたのですから、お笑いです。以後、中国戦線、ビルマ戦線に派遣されますが、参謀本部の意向を傘に着て、やりたい放題やっています。

 今日のひと言:辻政信は、正しくも山下奉文中将が評したように、「我意」が強く、とても軍事指導者としては勤まらない人格の人だったようです。

 なお、彼は戦後隠れていて、極東軍事裁判には掛からずに済み、ほとぼりが冷めたところで、「元陸軍参謀という金看板を背負って、国会議員に立候補し、何期か勤めます。そして、1961年、視察のためラオスを訪れますが、ここで行方不明になっています。この失踪には諸説あります。例えばCIAに消されたのだとか。真偽は不明です。

 この男には、幼少時から陸軍軍人にのみ、なることを目的になされた教育の、空恐ろしさを感じます。(後略)


「バターン死の行軍」の責任を問われて絞首刑に処せられたのは本間雅晴だが、本来なら絞首刑に値するのは辻政信の方だった。また、懲役刑を科せられた川口清健は、出所後、衆議院議員になっていた辻の選挙区である石川県*1で、辻を呼んで講演会を開き、辻の責任を追及しようとしたが、敵地・石川での辻への挑戦は無謀だったらしく、辻の信者に妨害されて川口の講演会は失敗したらしい。

http://www.geocities.jp/a_sbjfg395/8_butai_haichi/g_haken_b.htm より

 大本営派遣作戦参謀・辻政信ガダルカナル島の戦いでも、大本営の決定を待たず、実情を無視した攻撃を強行している。

 作戦の過程では、現地指揮官の川口清健少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。

 辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合(月齢による夜間に艦隊が運行できる期間)と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、ジャングルの中を通る急峻な道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった。この条件では作戦の失敗も当然であるが、戦後辻はこの作戦の失敗を川口になすりつけ、自著「ガダルカナル」で「K少将」として専ら自分に都合が良いように描写した。

 当時の「大流行作家」のこの捏造に怒った川口は、辻の地元石川県で講演会を開くものの、辻の賛同者によって講演会は怒号とヤジに包まれ講演会は失敗した。アメリカ軍の基地への総攻撃失敗を体験した兵士は既に「作戦の神様」として有名人だった辻に報告を行い、攻撃方法の改善策を進言する。彼は辻ならば直ぐに全軍に情報を伝え迅速に対応策を練るだろうと期待していたが、辻は同期の多数の指揮官の死などの報告を聞き呆然としたまま迅速な対応をとることができなかったという。辻はガダルカナル島で「胆力をつける」と称して敵兵の死体から切り取った肝(肝臓)を携行していたという。結局ガダルカナル戦で辻は、重度のマラリアに罹り駆逐艦で戦いの途中撤退している。


ところで、この辻政信には「精神を病んでいた」との話がある。以下、http://www.ammanu.edu.jo/wiki1/ja/articles/%E8%BE%BB/%E6%94%BF/%E4%BF%A1/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1.html より。

精神病

 計見一雄『戦争する脳』で、著者の恩師の体験談という形で名は秘すものの、辻とすぐにわかる記述によって、紹介されている(「あれは本物のマニー(mania=躁病)だよ」)。下級兵士には戦争で精神病を併発するものは多いが、高位の軍人でおかしくなったのはルドルフ・ヘスくらいのものであろう(大川周明は軍人ではない)。最後まで精神病であることを秘匿して戦争を終えた高級軍人は後にも先にも辻政信ただ一人だけである。重要な決定はすべて高度の躁状態のもとでなされた。計見によれば、古手の精神科医は「躁病はうつる(伝染する)」といい警戒を怠らなかったという。躁病はウイルスでも細菌でもないのにどうしたものか。曰く、愉快で明るいから、患者の周りの人たちをついついその気にさせるのだという。

 ノモンハンで18000人の兵が死亡し、ガダルカナルで2万人の日本兵が死亡し、インパールで3万人の日本兵が死亡しても、辻は常に楽観的で陽気であり、彼の周りは常に笑いの絶えない明るい雰囲気であった。辻には不思議とファンが多く、また戦後もさまざまな社会活動を活発にしていくが、それらは躁病の病理から生み出される「人を巻き込みその気にさせる力」が強く働いたものと思われる。戦中戦後の彼の行動を「倫理的」に断ずる態度はおかしい。それらは精神病の産物であり、本人に責はないことは明白だからである。前述の兵士たち、あるいは日本軍そのものは病者・辻の決断により死に、滅亡したわけである。なお同書には前述の大川周明詐病でなくやはり本当に精神病であったことが示唆されている。売春を通じて感染した梅毒が脳に転移したという。


http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080131/145933/?rt=nocnt より

あなたの上司が、こんな脳ではないことを祈ります〜『戦争する脳』
計見一雄著(評:荻野進介)
平凡社新書、760円(税別)
2008年2月7日(木)

 戦争は人類最大の狂気だ、とよく言われる。一体、その場合の狂気とは何だろうか。まさか戦争突入のきっかけを作った軍人や政治家が揃って精神病だったわけでもあるまい。

 俗耳に入り易い言葉は物事の本質を覆い隠す。「戦争=あってはならないこと」だから、考えなくていい、という思考が導かれるだけだ。そうではなくて、「ありえること」として、狂気の中身をちゃんと見ておくべきではないか。そんな問題意識から、戦争を引き起こし、遂行する狂気の解明を目指したのが本書、著者いうところの〈戦争に至る精神病理学である。

 著者は日本における精神科緊急医療の第一人者。自殺や自傷の恐れがある、他人への暴力行為が止まないといった、寸刻を争う処置が必要な重度の精神病者専門の精神科医だ。父親が旧軍人、戦後は陸上自衛隊の幹部だったことで、軍事と現代史に興味を持ち、門外漢という立場でありながら本書を書き上げた。

 「戦争を引き起こす脳」はさておき、「戦争を引き起こしやすい人」とはどういう人間か。著者によれば、それは自分に都合の悪い現実を否認し、見ようとしない人だ。

現場を「想像」できないリーダー

 例えば対米開戦の強硬論者のひとりに末次信正という海軍大将がいた。首相の近衛文麿が、米ソ両国との同時戦争の可能性、日本の航空戦闘力など、細部にわたった質問を投げかけたところ、彼はこう答えたという。

 「そんなこと一々考えていたら何もできはしません」

 こういう科白を吐く人、仕事の場面でも多くないか。

 否認の対象は、このような客観状勢だけではない。一番ないがしろにされがちなのは兵士の肉体性、彼らも生身の人間であるという事実である。人間だから当然、食べたら出す。フィリピン・レイテ戦の生き残り部隊を率いたある軍人によれば、食べ物の豊富さは必須条件だとして、それ以外に便所の整備具合が兵士の士気に大いに影響したそうだ。

 映画「硫黄島からの手紙」で有名になった栗林忠道中将も、自爆攻撃を硬く禁じ、兵士も一個の人間であることを無視しなかった稀有のリーダーだった。彼は残してきた故郷の妻あてに、自宅のすきま風の防ぎ方について何通も手紙を書いている。すきま風を心配するのは家族の肉体を思いやれるからである。その感覚を戦場でも忘れなかった。

 この二人の対極にいるのが便所もろくに整備せず、数十万の兵隊を餓死させた軍人たちである。なかでも、躁的な活動エネルギーが高い人はタチが悪い。ある壮大な計画を思いついたりしたら、頭の回転がどんどん速くなり、次々に行動を展開し、収拾がつかなくなるだけだ。

 ノモンハンガダルカナルインパールという、第二次大戦中の三大負け戦すべてに責任を負うべき陸軍参謀がいるが、その人は真性の躁病だった。プライバシーを重んじる医者らしく著者はその名を明かさない。

脳は本来は「××をしない」のが役目

 さて、ここから話は脳の中身に入る。人間の行動を統御しているのが大脳皮質前頭前野である。未来予測と今後の行動計画に専門化すべく進化した部位で、著者の言葉を借りれば、ここが「戦争遂行脳」だ。

 意外なことに、この大脳皮質本来の働きは前向きな興奮・促進ではなく、逆に後ろ向きの抑制・制御だという。つまり「何々という行動をやらない」というのが本来の働きであり、それに打ち勝つためには、生命の維持や種の保存のため、といった別のエネルギーが必要となる。

 この段でいくと、仮に「戦争をやろう」という指令が脳に出た場合、「でも眠いからやめておこう」「死ぬのが怖いから我慢しよう」となるのが普通人だ。現実を否認し、目を背けながら突っ走ってしまう人はこのメカニズムが壊れているに違いない。

 また、行動計画作成に必要な情報は、大脳皮質前頭前野には含まれない。どこにあるかといえば、より後方にある情動の中枢に近い部分だという。そのため、情報を取り出すときに情動のフィルターを必ず通ることになる。つまり、人間の脳は、欲望や感情、好悪や愛憎抜きの純粋な合理的判断はできないのである。(後略)


上記赤字ボールドにした部分が辻政信を指していることはいうまでもない。

安倍晋三政権が安保法を成立させてしまった現在、辻政信のような人間が現れたらどうなるかと思うとぞっとするが、辻のような有害極まりない人間が、戦後国会議員(衆議院議員、のち参議院議員)を務めた事実には心胆を寒からしめるものがある。だが辻には、大向こうを唸らせる、一種橋下徹にも似た人心収攬術があったようである。

http://roanoke.web.fc2.com/Japan/Tsuji_Masanobu.htm より

■ 軍人 辻政信

 辻政信といえば、今日ではノモンハンの惨憺たる戦禍や、その後の帰還兵に対する残虐な対応もあって、専ら辛辣な評価が目立つ。そうした評価に特に異存はないが、一方で辻に極めて好印象を抱く人々が存在するのも事実である。

 そのことがよくわかるのは橋本哲男著『辻政信と七人の僧』(光人社NF文庫)である。この本は辻の逃避行に同行した7人の元軍人に取材したものであるが、この7人は非常に辻のことを慕っている。

 辻政信という男がこのように慕われるのは決して不自然ではない。彼は軍人としてかくあるべしという徳目を、後述する一点を除き、忠実に遵守する男であった。作戦中は酒を飲まず、死地にも進んで飛び込んでいった。そうした規律を杓子定規に遵守することに果たしてどれ程の価値があり、またそれが常に有益であったかについては大いに議論の余地がある。しかし徳目を守れるというのは確かに一つの美徳であろう。また戦後の逃避行に代表されるように、窮地に立たされた時の現場における辻の底力は本物である。彼が軍人として一目置ける人物であったのは否定できない。

 反面、辻政信の最大の欠陥として多くの人が挙げるのが、上司を軽んじる下克上的な性格である。殊にノモンハンの電報偽造事件は軍事史上の椿事として悪名高い。辻は大本営からの「これ以上の戦火拡大は認めない」旨の電報を握りつぶし、上司の決済を受けず「北辺の些事は当軍に依頼して安心せられたし」と、大本営の意図に真っ向から逆らう電報を返したのである。指揮系統の蹂躙甚だしく、通常の軍隊なら罷免若しくは銃殺である。

 辻という男は明らかに参謀や将官には向いていない。彼の資質は全て現場指揮官向きである。彼が好む荒唐無稽な精神論も、最前線で戦う兵士達に投げかける分には間違っていない。何故なら、小規模ベンチャー企業のような小組織であるならともかく、軍隊という大組織が何かを行う場合、前線の兵士が不満を並べたところで何も変わらないからだ。何かが変わるのであれば、意見なり不満なり述べるのも良かろう。だが、軍隊のような大組織で、まして有事の最中ともなれば、末端の兵士の意見・不満が組織の方針を動かすというのは望むべくもない。意見・不満が何も生まないのであれば、現場が粛々と既定方針を遂行するというのが組織としての最善の道となる。組織の現場指揮官に求められるのは、既定方針を的確に実行する能力である。既定方針を的確に実行するためには、まず何より配下の兵士達に、盲目的に言う事を聞かせる必要がある。勇猛さと自己抑制の精神に富み、俗耳受けするスタンドプレーが得意で、兵士の人身掌握に長けている――こういった辻政信の資質は、現場指揮においてはプラスに働くことが多かっただろう。

 『参謀・辻政信』の著者である杉森久英は、辻のことをこう評している。「結局彼は、一個の比類ない戦術家、戦闘者であった。三軍を統率する名将でなく、手兵をひきいて戦場を馳駆する侍大将であった」。まことにその通りで、もし彼が現場指揮官として軍歴を全うしていれば、きっと優秀な軍人として名を残したに違いない。が、なまじ学校の成績が抜群で、本人も軍人としての栄達を望んでいたために、本来不向きであった参謀に就任してしまい、ノモンハンを始めとする多大な被害を、軍、ひいては日本にもたらすことになってしまったのである。

■ 政治家 辻政信

 政治家辻政信の最大の長所として挙げられるのは、その潔癖な性格であろう。彼は生涯を通じて汚職や女遊びとは無縁であった。特に金銭面での潔癖な態度は賞賛に値する。議員歳費の値上げにたった一人反対してみたり、党からの政治資金を拒み、あくまで手弁当で選挙戦に臨んでみたりといった行動は、辻の美徳が最大限に発揮された一例である。

 このような辻の性格は選挙において威力を発揮した。彼が選挙に強かったことは既に説明したとおりである。辻は選挙戦術にも長けており、自民党離党後の参議院選挙において、首相の岸信介の本拠地山口県に殴りこみ、「私は山口県の皆さんからは一票も貰うつもりはない」と前置きしたうえで思い切り岸信介の悪口を展開、却って選挙民の好評を博している。実際の戦争では専ら失敗が目立った彼であったが、選挙という戦ではまさに「作戦の神様」であったと言えそうである。

 しかるに、政治家としての辻の具体的な業績は非常に乏しい。彼の政治家としての主張を簡単にまとめると、「日本はいち早く政治・経済・軍備の面で自主自立し、米ソどちらにも与せず、アジアの平和を目指していくべし」というものである。主張の内容自体は結構であるが、つい数年前に敗戦した国の主張としてはあまりに虫が良すぎよう。

 理想実現に向けて地味に賛同者を増やし、日本復興のため具体的な政策を積み重ねていくのであればまだ良い。が、生来一匹狼的な性格で派手を好み、とかく敵を作りやすい辻には、そのような功績を残す力も意図も無かった。政治とは畢竟数の世界である。どんな立派なお題目を唱えようと、数、すなわち同調する議員がいなければ意味がない。なるほど、彼はその特異なキャラクターで国民の心を掴み、得票率こそ立派なものであった。だが、選挙で国民に支持されたということと、政治の世界で実績を上げながら泳いでいくこととは別問題なのである。

 野心に溢れる辻が、政界における自分の無力さを歯がゆく感じていたのは疑いない。こんな時、地道な活動ではなく、生き馬の目を抜くようなことを行おうとするのが、辻政信という男の持って生まれた性格であった。


脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と飯田す、もとい言い出す左翼人士が現れたり、「脱原発」の論客として売り出していた飯田某が橋下のブレーンになったりしたことを考えると、「岸信介に敢然と対峙した」、「自主独立派」の辻政信は、仮にゲンダイ、もとい現代にタイムマシンで持ってきても、少なからぬ「リベラル・左派」から拍手喝采を受けるのではないかと思う今日この頃なのである。

*1:辻政信森喜朗を排出した石川県は、高木孝一・毅父子や稲田朋美を排出したお隣の福井県と並んで、全国でも有数の極右県と言っても過言ではあるまい。