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加藤紘一死去

自民党元幹事長・加藤紘一が死んだ。

危篤が伝えられてから5か月近くが経過していたから、訃報自体に驚きはない。

訃報:加藤紘一さん死去77歳…自民元幹事長「加藤の乱」 - 毎日新聞

訃報
加藤紘一さん死去77歳…自民元幹事長「加藤の乱

毎日新聞2016年9月10日 18時52分(最終更新 9月10日 23時16分)

 官房長官自民党幹事長を歴任し、首相候補と目された加藤紘一(かとう・こういち)元衆院議員が9日午後0時45分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。77歳だった。

 山形県鶴岡市出身。東大法学部卒業後、外務省に入省した。1972年の衆院選で旧山形2区から自民党公認で初当選。故池田勇人元首相がおこした同党の名門派閥「宏池会」に所属し、早くから「プリンス」として期待された。衆院当選2回で大平内閣の官房副長官を務めた後、防衛庁長官官房長官、党政調会長、幹事長を歴任。91年に当時の竹下派支配打破や世代交代を目指し、山崎拓元副総裁、小泉純一郎元首相と「YKK」を結成して注目を浴びた。

 98年には宏池会の流れを継いで派閥の会長に就き、「首相の座に一番近い男」と言われた。しかし、2000年に森内閣打倒を目指し、野党提出の内閣不信任決議案への賛成を明言。「加藤の乱」と言われたが、不発に終わり、加藤派は分裂して存在感は落ちた。

 02年には自身の事務所代表による脱税事件の責任を取って自民党を離党後、議員辞職。03年の衆院選で再び当選し、自民党に復党した。党内ではハト派に位置し、親中派として日中友好協会会長を務めていた。12年12月の衆院選で落選し、三女の鮎子氏を後継に据えて政界を引退。14年5月には、集団的自衛権の行使容認について、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで批判した。

毎日新聞より)

2000年の「加藤の乱」は、ひとり加藤紘一にとってのみならず、その後の日本にとっても悔やまれる軽挙妄動だった。というのは、加藤紘一の失敗が総理大臣就任の要因の一つにもなった小泉純一郎の悪政のおかげで、日本がすっかりひどい国になってしまったからだ。2000年は、アメリカ大統領選でも歴史的な大接戦の結果、ブッシュのドラ息子が勝ってしまった。この年の日米両国の誤った選択が、その後の両国の進路をすっかり狂わせてしまったと言っても過言ではない。プロ野球の読売が「ON対決」とやらを制して日本一になった年でもある前世紀最後の「Y2K」は、本当にとんでもなく悪い年だった。

小泉純一郎政権時代の猛烈な「右傾化の波」は、加藤紘一を直撃した。2006年に起きた実家の放火事件について、小泉純一郎も、当時内閣官房長官だった安倍晋三も口を貝のように閉ざしてしまい、犯人のテロ行為を批判するコメントをいっこうに発そうとしなかった。それどころか、現在安倍晋三のお気に入りとされる稲田朋美は、放火事件を笑いものにしてのけた。この件はこの日記で何度も取り上げたが、最近では今年3月に蒸し返していた。


加藤紘一は、テレビ番組で日本会議に言及し、これを批判するという自民党では稀有の政治家だった。2012年衆院選の加藤の落選により、このような自民党国会議員は絶滅した。現在の村上誠一郎など比較にもならない。

謹んで故人のご冥福をお祈りする。