星野仙一が死んだ。訃報を真っ先に伝えたらしいスポーツニッポン(スポニチ)の記事を以下に引用する。
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/05/kiji/20180105s00001173448000c.html
星野仙一氏死去 がん闘病…「燃える男」「闘将」突然すぎる70歳
楽天の星野仙一球団副会長が4日に亡くなったことが分かった。70歳だった。死因は明らかになっていない。現役時代は中日のエースとして活躍し、引退後は中日、阪神、楽天の監督を歴任。計4度のリーグ優勝を飾り、楽天時代の13年には自身初の日本一に輝いた。17年に野球殿堂入り。「燃える男」、「闘将」と呼ばれ、巨人を倒すために野球人生をささげてきた男がこの世を去った。突然の訃報だった。星野氏が息をひきとったのは4日。球界関係者によると「がんで闘病していた」という。昨年末に体調が悪化し、年末年始を家族とハワイで過ごす予定だったが急きょ取りやめていた。昨年11月28日に東京で、12月1日には大阪で「野球殿堂入りを祝う会」に出席。2000人を超えるプロ、アマの球界関係者が集まり「これだけの人が来てくれて野球をやってて良かった。野球と恋愛して良かった。もっともっと恋したい」と失われない野球への情熱を口にした。しかし、これが、最後の晴れ舞台となった。
相手が強ければ強いほど、「燃える男」。現役時代のキャッチフレーズだった。その原動力が「打倒・巨人」。ドラフトでふられ、憧れの球団は「生涯のライバル」に変わった。中日のエースとして闘争心をむき出しにして投げ、巨人戦は歴代6位タイの35勝で通算146勝を挙げた。沢村賞を受賞した74年にはV10を阻止して優勝したが「日本シリーズは邪魔。俺は巨人を倒したからいいんだ」と言い切ったほど、巨人を倒すことに執念を燃やした。「強い巨人に勝ちたいんや」。その思いは引退後も変わることはなかった。
監督時代は「闘将」と呼ばれ、代名詞は鉄拳制裁だった。「非情と愛情の2つを併せ持つことが大事」という持論を持ち、闘う集団につくり上げた。中日で2度のリーグ優勝。97年には扶沙子夫人(享年51)を白血病で亡くしたが、グラウンドで戦い続けた。「俺は弱いチームを強くすることが好きなんだ。それが、男のロマンやないか」。反骨心の塊のような男。02年に低迷していた阪神の指揮を執り、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝に導く。楽天監督時代の13年には日本シリーズで宿敵の巨人を破り、4度目の挑戦で初めて日本一監督となった。
14年にユニホームを脱ぎ、15年に球団副会長に就任。ONとともに球界への影響力は大きく、星野氏も「野球への恩返しの意味でも自分の思いや考えを若い人につないでいきたい」と語り、野球の普及活動に尽力していた。恋に恋した野球。しかし、楽しみにしていた20年東京五輪を前に帰らぬ人となった。あの笑顔はもう見れない。あの怒鳴り声ももう聞けない。
(スポーツニッポン 2018年1月6日 03:00)
一昨年(2016年)夏に星野の激やせが騒がれ、癌ではないかと言われたことがあった。どうやらその通りだったようだ。昨年は、一昨年夏に比較すると体重が戻っていたような印象があったが、あるいは抗がん剤投与を止めて終末期医療の時期に入っていたのかもしれないと推測される。
この日記の読者の方ならよくご存知のことと思うが、私は大の「アンチ星野」だ。だから、上記に引用したスポニチの記事にも、星野はプロ入り前に読売に憧れてたんじゃなくて阪神ファンだったんだろ、とか中日監督時代の「鉄拳制裁」には無批判なのかよ、とか「反骨心の塊のような男」がなんで現役引退後解説者生活に入る時にすぐさま川上哲治にすり寄ったのかよ、などなど、突っ込みたくなるところがたくさんある。
まあしかし、もう星野批判は十分書き尽くした。この日記で過去最多のアクセス数があったのは、楽天が日本一になった時に星野を批判した記事だった*1。また、楽天日本一の時に次いでアクセス数が多かった記事として、稲尾和久が星野について語ったことを本から引用した記事があった。検索語「稲尾和久 星野仙一」でググると、記事を書いてから10年後の今でも下記リンクの記事が筆頭で表示される。
- 故稲尾和久氏が暴露していた「燃える男・星野仙一」の正体 - kojitakenの日記(2008年10月23日)
私が上記記事を書いた2008年には、北京五輪での不成績による星野批判が盛り上がっていた。つまり星野が激しく批判されていた頃にも、また楽天日本一で頂点を極めた時にも、ともに星野を批判し続けてきた。
思えば、2007年11月に稲尾和久が70歳で亡くなった時には、「早すぎる」とショックを受けたものだった。その稲尾と同じ70歳で星野が死んだ。
その稲尾和久による星野仙一評は他にもある。中でも、ネットで拾った下記記事は興味深かった。
http://www.geocities.jp/hm1964hm/tamabanare.htm
ボールの出所(球離れ)がわかりにくい投手って?
投手の特徴として時々言われる「球の出所が分かりにくい」とは、具体的にどういう特徴ですか?これは、投手にとって利点なのですか?
以前、稲尾和久さんとお会いした時、次のようなお話をされていたことがあります。
私が中日ドラゴンズのコーチ時代、星野仙一という投手がいました。
私は彼を先発マウンドに送り出すのが怖くて仕方がなかった。試合前のブルペンでの投球練習なんて、もうボールがお辞儀しているわけで、『こりゃ大丈夫かな?』ともうヒヤヒヤなわけです。
ところがいざマウンドに上がるとそんなボールでも打者は詰まる、打ち上げる。
なんということのないボールで星野は打者を抑えていく。これは不思議でした。
こんなボールが何故通用するのか?
星野は自分のフォームを研究し、打者からボールが見えないよう身体の横部分に常にボールが隠れるようなフォームを完成させていた。
打者にボールが見えるのは腕からボールが離れる瞬間が初めてとなり、打者は非常にタイミングを取りにくかったわけです。
このことからわかるように剛速球やブレーキの利いた変化球でなくても打者は抑えることが出来るわけです。(稲尾和久)
(後略)
つまり、星野がプロ野球で通用した最大の要因は、工夫に工夫を重ねた投球フォームであって、それで球威のなさや変化球のキレの悪さを補っていたということだ。
この星野の投球術は称賛に値するだろう。星野も学生野球時代にはそれなりに球威で押していたのだろうが、プロではそれでは通用しないとすぐに判断して投球フォームの改善に腐心したところに、星野のクレバーさがあった。
残念ながら、その「クレバーさ」は現役引退してすぐに解説者生活に入る時にNHKを選び、「ドン」と呼ばれた元読売監督・川上哲治にすり寄る「処世術」という形で表れてしまったわけだが。
川上にすり寄った影響か、星野は中日・阪神・楽天各球団の監督時代にはずっと川上の読売監督時代と同じ背番号「77」をつけ続けた。
球団強化の方針も、読売に倣った補強重視であって、中日も阪神もそれで強くなった。
中日は、1987年から2012年までの26年間で、Bクラスはわずかに1990, 92, 95, 97, 2001年の5回だけだった(うち3回が星野仙一、2回が高木守道監督時代)。2004年に中日監督に就任した落合博満は「補強なしで中日を日本一にしてみせる」と豪語して、日本シリーズには敗れたもののリーグ優勝を成し遂げ、以後中日球団の体質は変わったが*2、中日は少なくとも1987年から2001年までは金権球団といえたし、落合監督下での2004年と06年のリーグ優勝と2007年の日本一は、星野の迷言として有名な(というより悪名高い)「わしが育てた」は言い過ぎだが、星野時代の補強と落合監督や森繁和ヘッドコーチ(現中日監督)の手腕の両方の寄与があってのものだったと思う。
また、1987年から2001年までの15年にも及ぶ長期の暗黒時代を経験した阪神が、星野が監督に就任した2002年以降は一度も最下位に落ちていないのも、金権補強がかなりの程度チームを強くするのに有効であることを示すものだろう。最近のストーブリーグは、補強といえばソフトバンクか阪神か読売、という状態が長年続いており、正直言ってこれにはいい加減うんざりするのだが、星野はその元祖ともいうべき読売の流れをくむ補強策を信奉した球界人の代表格だった。
しかし、その流れもようやく変わり始めてきた。日本ハム、広島、それに昨年日本シリーズに進出したDeNAなどが、ソフトバンクなどのような派手な補強をせず、かといって落合博満や元ヤクルト監督・野村克也のような「監督采配の力」にも頼らないやり方で、時に「金権球団」を痛快に倒すようになった。地上波のテレビ中継は激減したが、ようやく「金権補強」にも「監督の力」にも頼らないプロ野球の新時代の到来が感じられるようになってきた。