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豊田泰光死去

プロ野球西鉄ライオンズ黄金期を支えた名プレーヤーにして、選手生活の後半には国鉄スワローズ、さらにはその後進であるあの超弱小球団・アトムズ*1(現在の東京ヤクルトスワローズの前身)でプレーした豊田泰光が死去した。

豊田泰光氏が死去 プロ野球・西鉄黄金期支える :日本経済新聞

豊田泰光氏が死去 プロ野球西鉄黄金期支える
2016/8/15 13:21

 勝負強い打撃で西鉄ライオンズ(現西武)の黄金時代を支え、独自の野球評論でも活躍した豊田泰光(とよだ・やすみつ)氏が14日午後10時41分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去した。81歳だった。喪主は妻、峯子さん。

 1935年、茨城県生まれ。53年に西鉄に入団、当時の高卒新人記録となる27本塁打をマークし新人王に。56年には3割2分5厘でパ・リーグ首位打者に輝いた。56〜58年の3年連続日本一に遊撃手として貢献。大舞台に強く、オールスターでも3割2分1厘の打率を残した。

 通算17年で1699安打、263本塁打、打率2割7分7厘。現役引退後は辛口解説でも人気を博した。本紙朝刊スポーツ面の「チェンジアップ」は足かけ16年の長寿コラムとなった。プロ野球のOBクラブの設立に尽力、バットの原材料のアオダモ植樹活動にも取り組んだ。2006年に野球殿堂入りした。

日本経済新聞より)


豊田泰光氏、貫いた反骨人生 「答えはバットで返す」 (写真=共同) :日本経済新聞

豊田泰光氏、貫いた反骨人生 「答えはバットで返す」
2016/8/16 2:00

 飛距離もミート術も到底かなわない。三塁守備もうまい中西さんが名将、三原脩監督門下の優等生だったのに対し、当初ザル遊撃手といわれた豊田泰光さんは不本意ながら、叱られ役に回った。

 19歳でさらされた逆風下、さて、オレはどうやって食べていく? と自問して出てきたのが「ここ一番で打つのみ」という答えだった。

 打席で足が震えることもあったというナイーブな人が「俺が打つから、ランナーをためておけ」と大言壮語。失策しても頭を下げない。仲間の白い目やファンのヤジにさらされたが、自らを追い込んだところに、尋常でない集中力が生まれた。

 中西さんや青バット大下弘さんらが居並ぶ西鉄打線の中でも「特に大きな試合で頼りになった」と稲尾和久さんは語っていた。

 西鉄が巨人に3連敗して迎えた1958年の日本シリーズ第4戦で2ホーマーを放ち、大逆転へののろしをあげ、西村貞朗投手の完全試合がかかった東映戦で0―0から決勝ソロを放ち、記録を完成させた。「野武士軍団」のなかでも、特に群れることを嫌った孤高の人は他の打者が打たないときに打った。

 「答えはバットで返す」という態度は誤解や周囲とのあつれきも生んだ。三原さんが大洋に移ったのちに形成された中西監督、豊田助監督、稲尾投手コーチという「青年内閣」は1年で崩壊。豊田さんは国鉄(現ヤクルト)に去った。

 斜に構えた生き方が評論活動で生きた。サインで選手の自由を縛る野球のつまらなさを嘆いた。メジャーの球に比べ、日本の球が飛びすぎることを問題視し「ボールは野球の通貨」として国際標準への修正を訴えた。スイング速度を上げるため、バットの軽量化に走る打者の安易な姿勢も憂慮していた。

 現役組には耳の痛い指摘だったが、管理野球や、道具とシステム偏重への批判はそのまま、社会への警鐘となっていた。

 将来の現場復帰をにらみ、球団や現役組への矛先が鈍る若手評論家と違って、ユニホームに未練のない人の筆は自由だった。ここ一番での快打も、切れ味鋭いコラムも、憎まれ役になることを恐れぬ覚悟から放たれた。

(篠山正幸)

日本経済新聞より)

私は豊田の現役時代を知らない。前述のプロ野球に初めて興味を持った1969年が豊田の現役最後の年で、調べてみると40試合に出場して打率.242を残しているが、もはや主力選手ではなかった。故稲尾和久の現役最後の年も1969年だが、彼も西鉄ライオンズで10試合に登板して1勝7敗、防御率2.78だった。「球界黒い霧」事件の影響を受けて、西鉄もまたパ・リーグでひどい弱小球団になっていた。西鉄は1972年に身売りし、ヤクルトが初の日本一になった1978年のオフには、太平洋クラブを経てクラウンライターとチーム名を変えていたライオンズは西武に身売りして九州を離れた。新聞には豊田や稲尾の引退の記事も載ったに違いないが、既に小学校低学年にして新聞に目を通すようになってはいたものの、前述のように関心は『××の星』の球団と地元の阪神だけだったから、豊田や稲尾がどんな大選手だったか理解できようはずもなかった。

その豊田に注目するようになったのは、フジテレビの『プロ野球ニュース』で、明らかに他の解説者と違った視点から語っていることに気づいたことがきっかけだ。1981年頃だっただろうか。そのあと、上記1件目の引用記事にも言及されている日経のコラムを読んでいた時期がある。この記事で、日経の記事を2本引用したのはそれが理由だ。

他の選手上がりの野球評論家の多くが書く「コラム」は、実際には本人はしゃべるだけでスポーツ紙や一般紙運動部の記者が文字起こしをするのが普通だと聞くが、豊田は自分で文章を書いた(と野球雑誌のコラムで本人が書いていた)。そのせいもあってか、他の評論家たちとはひと味もふた味も違うコラムだった。90年代末頃までの時期は、『週刊ベースボール』のコラムもコンビニで立ち読みしていた。それらも、読売が金権野球を炸裂させて「ONシリーズ」とやらを制した2000年頃を境に読まなくなった。

豊田が所属した西鉄日本シリーズで3年連続で読売を倒し、その3年目の1958年(昭和33年)には第1戦から3連敗したあと4連勝で逆転優勝を果たし、敵の背番号「3」をつけたルーキーを悔しがらせたことは痛快この上ないが、その後のライオンズの選手たちはみな苦労した。そして仰木彬は2005年に70歳で、関口清治は2007年に71歳で、稲尾和久は同じ2007年に70歳で亡くなった。稲尾が中日のコーチをしていた時代星野仙一に手を焼いたことを取り上げた下記記事は、一時期このウェブ日記の人気記事になっていた。


2000年代に70歳前後で亡くなった仰木・関口・稲尾と比べると、豊田は81歳と、現在では平均寿命とほぼ同じ年齢での死ではあるが、かつてテレビやラジオで解説に接し、コラムを愛読していただけにそのショックは小さくない。

心より故人のご冥福をお祈りします。

*1:国鉄から産経に身売りしたスワローズは、当初サンケイスワローズだったが、のちサンケイアトムズに名称を変更し、産経からヤクルトに経営権が移行期に当たる1969年、ニックネームだけの「アトムズ」と名乗っていたことがある。私が初めてプロ野球に関心を持つようになったのはこの頃だ。翌年の1970年に「ヤクルトアトムズ」になったが、確かこの年のヤクルトは、優勝した読売と2位の阪神にともに5勝21敗と、勝率2割にも満たない惨敗を喫したのだった。阪神間に住み、『××の星』なんかを読んでプロ野球といえば読売と阪神しか眼中になかった子ども時代の私は、世の中にはなんと弱いチームが存在するのかと思ったものだ。何しろヤクルトは広島ともども『××の星』にはライバル選手も所属しなかった。後の『新・××の星』では花形満が古巣・阪神ではなくヤクルトに入団したが、1978年のヤクルト初優勝の年、阪神は球団史上初の最下位に落ちていた。