kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「天皇代替わり」と「敬語」

 私は昨年3月頃までは天皇制を「好ましくないが保守派(や右翼)との妥協のためには止むを得ない」として容認していたが、長い天皇制容認時代を含めて天皇天皇家の人たちに対して原則として敬語は一切使わなかった。「原則として」というのは、この日記に書いた文章だったかどうかは忘れたが、例えば「(天皇制を止めたあかつきには)皇族には京都に戻っていただく」といった言い回しはした覚えがあるからだ。天皇や皇后に「陛下」をつけたり皇太子その他に「殿下」をつけたことも一度もない。近年、「陛下」や「殿下」をつけない「天皇」「皇太子」などの呼称を「呼び捨てだ」とする批判が、産経新聞を含めた極右からなされるようになって、あの石原慎太郎までもがこの批判に晒された。石原は「皇太子は皇太子じゃないか」と憮然としていたが、これは本当にその通りで、この伝で言えば外国の「国王」や「女王」という呼称も呼び捨てになってしまう。こんな馬鹿げた言い草はない。

 下記石丸次郎氏の記事は、5月14日付毎日新聞大阪本社版への寄稿に加筆したものとのこと。

 

news.yahoo.co.jp

 

 以下に石丸氏の記事から引用する。

 

代替わりに際し、全国紙もテレビも敬語で溢れた。一方、毎日の新天皇即位の日の別刷りでは、経歴を紹介する記事で、「ピアノやバイオリンを幼いころから習い、大学のオーケストラではビオラを演奏した」などとして、本文では敬語の使用をかなり控えていた。朝日も別刷りでは控えめだった。天皇家を仰ぎ見る存在として扱わず、平準にしていこうという、ジャーナリズムとしての試みがあったのだろうと感じた。

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/ishimarujiro/20190523-00127045/

 

 上記の文章には、毎日新聞への寄稿ゆえの「配慮」が感じられなくもない。私の認識では、天皇や皇族の記事でもっとも敬語の使用を「控えめ」にしているのは朝日で、私の記憶によれば毎日も朝日に準じていたが、2014年にやや敬語を使用をする頻度を増やしてそのまま「平成」末に至っていたはずだ。2014年は朝日が従軍慰安婦の自社記事に関する「謝罪」を突如行い、安倍政権をはじめとする右翼につけこまれた年であって、この時には毎日も朝日批判に加担していた。天皇・皇族関係の記事への敬語使用比率の増加も、それと関連した毎日の「右旋回」ではないかと勘繰ったものだ。

 まあそれでも代替わりを機に毎日が天皇・皇族に関する記事での敬語の使用頻度を減らしてくれるのであれば良いのだが。

 なお、石丸氏の記事では北朝鮮での金一族に対する敬語使用の指摘が興味深い。以下再び引用する。

 

(前略)共和制の韓国では、私の知る限り、報道記事中に政治家はもちろん、歴史上の人物に対して敬語を使うことはあり得ない。

北朝鮮の場合は正反対で、金日成金正日金正恩と、さらにその祖先に対して、最高敬語なしの報道はあり得ない。教科書を含め、あらゆる文書においてもだ。(後略)

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/ishimarujiro/20190523-00127045/

 

 元記事には具体例も挙げられていて興味津々だが引用は省略する。元記事を参照されたい。ただ、下記の勘繰りには笑ってしまったので引用する。

 

ただ、同通信の日本語ページのストレート記事では、金一族に対しても敬語は使われていない。一応は共和国を名乗り、社会主義を標榜しているため、外国向け報道記事では政治家への敬語使用を「恥」ととらえ、隠そうとしているのかもしれない。

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/ishimarujiro/20190523-00127045/

 

 「外国向け」といっても、たとえば日本語の「××された」のような敬語は英語などには訳しようがないから、日本などの一部の国向けという意味なのだろうが、確かに日本の「左翼」の歓心を買うために、金一族への敬語の使用を隠そうとするのは大いにあり得ると思った。日本では、ちょっと金正恩が韓国との融和に傾いただけで金正恩を「本当はいい人」だなどと言い出す「左翼」がすぐに現れる。これには本当にうんざりさせられる。

 

 石丸氏の記事は下記「はてなブログ」記事経由で知った。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 上記記事の中で、下記の文章に注目した。

 

私は皇族に対して(関して)「敬語」は使わないけれど、「敬語」を使うのが常態化(無徴化)すれば「敬語」なしのフラットな表現は有徴化して、「敬語」を使わないだけで、何か特殊な(社会の主流派の秩序から見たら望ましくない)事情があるんじゃないかと勘繰られることになる。昭和の時代に西暦を使うというのはそんな感じだった。

 

出典:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/05/28/090602

 

  青字ボールドの部分は本当にそうで、最近の「陛下」や「殿下」の不使用や、上記記事の冒頭に言及のある「お疲れ様」騒動などその典型的な例だ、昭和時代にあれほど奇異の目で見られた西暦の使用に関しては事情は真逆(まぎゃく)で、安倍晋三が「2020年の憲法改正」と言っても、「なぜ『なんちゃら*12年』と言わないのか」などとは右翼もイチャモンをつけない。いくら「元号法」(1979年施行)を制定して元号を強制してもこうなるんだよなあ、との感慨を、かつてまだ西暦の使用が主流となる前の時代にさんざん「サヨクかこいつ」との目で見られた私は持つ。それはそんなに古い記憶ではなく、一番最後にこれをやられたのはプロ野球横浜ベイスターズが優勝した1998年だった。前回の改元(1989年)でかなり風潮は変わったが、「Y2K」を迎え、翌年には21世紀に入ったことによって一気に西暦が普及したんじゃないか。

 しかし敬語表現の流れは逆で、しかもそれは天皇制以外の領域にも見られる。「お疲れ様」騒動の議論で、かつて三木武夫中曽根康弘昭和天皇に「ご苦労様」と言ったことがあり*2、その頃には目上の人に対して「ご苦労様」という言い方をしてはならないという、今では普通に言われるようになった戒めなどなかったと指摘されていた。確かに私もこの物言いを知ったのはそんなに古いことではなく、明らかに今世紀に入ってからであって、もしかしたらブログを始めた2006年よりもっとあとだったかもしれない。月並みな仮説だが、これは日本社会の格差が拡大し、階級社会といえる状態になったことと関係があるのではないか。

 最後に、石丸次郎氏の記事から三たび引用する。

 

新しい「菊タブー」を作らせてはいけない。いや、減らしていかなければいけない。そのためには、日頃の表現によって自由にものが言えるスペースを広げていくことが大切だ。代が替わった天皇への敬語使用のありようを見て、そう考えた。

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/ishimarujiro/20190523-00127045/

 

 本当にその通りだと思うが、私はこれに「新しい敬語や敬語の用法を作らせてはいけない」との主張をつけ加えたい。

*1:元号はこの日記では引用文を除いてNGワードにすることにした(改元前後の記事では元号を批判するために使用したが)。だから山本太郎政治団体についても「元号政治団体」と表記している。ただ今後選挙の場合などに使用を余儀なくされる可能性があることには今からうんざりしている。

*2:三木武夫の首相在任期間が1974-76年で、中曽根康弘は1982-87年だから、その頃のことだろう。