昨日公開した『鍋パーティーのブログ』の記事に、同じ方(redkittyさん)から2件のコメントをいただいた。
そして、抑止力(革命に対する恐怖心)がなくなったいま、資本主義は本性丸出しで富の蓄積を追求できる(している)。革命が、あるいは革命勢力の台頭がなければ、起こることは資本主義の側からの「議会制民主主義の首」絞めでしょう。それはなんとたやすいことでしょうか。
まさに仰る通りです。
しかし、現在の革命理論には大きな欠落があります。革命によって成立した権力に歯止めをかける機構が欠けているのです。
レーニン主義の「民主集中制」は権力に歯止めをかける機構とはいえなかったからスターリニズムにつながってしまったのでしょう。民主集中制は現在の日本共産党内でも党内の統治理論として適用されているようですが、党員や党支持者が必ずしも強く望んでいるとは思われない「野党共闘」への「テイクが少なくギブばかりの」傾斜にも、党執行部が暴走している気配が感じられます。
ましてや、現在見られる「山本太郎信者」の教祖への帰依ぶりをみていれば、元号を党名に冠したこの勢力、彼らは明らかに「革命」を志向していると私には思われますが、その前途には期待よりも強い懸念を感じずにはいられません。
山本党(や日本共産党)に求められるのは、保守思想における「立憲主義」に対応する、権力に歯止めをかける機構の確立であって、それがなされないうちは、私は革命を志向も支持もしません。どんな権力も必ず腐敗するのであって、権力に歯止めをかける機構を持たない革命政権は、権力者の暴走を招いてしまうことが目に見えているからです。だから私は、革命より議会制民主主義を通じた改良の積み重ねを志向します。
現状では、それが改悪一辺倒になっていることこそが問題であるわけですが。なおピケティはグローバルな税制改革によるグローバルな再分配を志向していますよね。歴史上、戦争によらなければ実現できなかった富の平準化を、グローバルな税制の実現による再分配によって実現しようという気宇壮大な構想ですが、ピケティブームの頃、これを絵空事として片付けるこの国の「現実主義者」たちに私は深い失望を覚えました。
なお、立憲主義が保守思想であることは周知で、たとえば坂野潤治氏などは、我々は曲がりなりにも革命を志していた、だからあんな立憲主義みたいな保守思想は嫌だ」と言って山口二郎からの「立憲デモクラの会」入りの誘いを断ったくらいです。
最近も、いま「山本太郎信者」の間で評判が最悪になっているこたつぬこ(木下ちがや)氏が、立憲主義が保守思想であることを認めるツイートを発していました。
そのとおりですね。そして、革命の最大の防壁は立憲主義なんですよ。立憲主義は本来保守的なものですが。しかし、数年前はあれだけ立憲主義が叫ばれたのに、ポピュリズム現象が台頭したいま、みたところ立憲主義の論客がこれについてだんまりなのは不思議だな。 https://t.co/NsMx5oTwSE
— こたつぬこ (@sangituyama) July 24, 2019
蛇足ですが、こたつぬこ氏が「立憲主義は本来保守的なもの」と認めていることと、「野党共闘」において野党がしばしば「立憲野党」と称されることを考え合わせると、日本共産党は「議会制民主主義を堅持する」観点から見れば、既に保守政党であるといえます。その日本共産党は現在も党内統治においては民主集中制を維持していますが、これはもはや自己欺瞞とさえいえるのではないか、同党の民主集中制は早晩見直されるべきなのではないかと私は考えています。
「富の再分配」がなされなければ、あと,できることは富の奪回しかない。「議会制民主主義の首を絞める」つまり革命ですね。
冷戦下の資本主義諸国が革命(共産主義の浸透)を恐れ、妥協、譲歩して「富の再分配」を行ってきたことは、ピケティも論じているとおりです。ピケティははっきり譲歩、妥協と書いているのに、日本語訳では「調整」とされていて、これは意図的なのかと当時思ったことでした。意図的だったと思います。