kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

高木守道死去

 高木守道・元中日監督の訃報を知ったのは遅く、昨日(1/19)朝のサンデーモーニングによってだった。

 1974年に中日が読売のリーグ10連覇を阻んだ時の中心選手で、走攻守揃った名選手だったが、読売の王貞治と同じ1980年に現役を引退し、しかも広島対近鉄日本シリーズが終了した直後に王が突如引退を表明した翌日、王と同様に突如引退を表明した。従って自分から王の陰に隠れにいったようなもので、印象の薄い引退劇だった。

 監督としては、申し訳ないけれども最近では金本知憲(元阪神)と同じような「名選手、必ずしも名監督ならず」の典型例だったという印象が強い。

 特に、最終戦で読売との直接対決に負けた1994年は、高木監督にもっと執念があれば中日が優勝していただろう。なにしろあの年の中日は、本塁打と打点の二冠王を獲った大豊泰昭(故人)、首位打者アロンゾ・パウエル(のちに故星野仙一の暴力に強く抗議したことで有名)、最多勝山本昌広(当時は登録名が本名、のち登録名山本昌)、最優秀防御率郭源治と、中日の選手が投打の主要5タイトルを独占していたのだ。しかしこの年は開幕から首位を独走した読売が、後半戦でヘロヘロになりながらも何とか逃げ切った。この年読売を優勝させた主犯はその前の2シーズンを連覇していたヤクルトと、強力な戦力を活かせなかった中日の両球団だったというのが私の評価だ。あの年以上に腹立たしかったシーズンとしては読売が巨大戦力で日本一になった2000年がまず第一に思い出されるが、1994年はそれに次いで不快なシーズンだった。

 1994年のヤクルトはかなり早い時点からBクラスに低迷する惨状だったが、中日は阪神とともに、読売からは大きく離されながらもAクラスにいた。それに、前半戦は最下位に低迷しながら、7月に読売を3タテしてから急浮上した広島が加わって、3球団が2位争いを展開したのだった。読売は8月に入って本拠地・東京ドームで横浜に3連敗して失速の兆しを見せたものの、直後に同じ本拠地で阪神に3連勝、中日にも2勝1敗として早々とマジックを点灯させた。ヤクルト戦3連戦も最初の2戦に楽勝したが3戦目に敗れたが、その試合を含む残り25試合で大波乱が待ち受けていようとは誰も予想しなかった。

 読売は横浜スタジアムで再び横浜に3連敗すると、そこから今度は本格的に調子を落として8連敗。一方、広島が8月下旬に敵地で中日・阪神にそれぞれ3連勝して挑戦権を獲得したかに見えた。読売がその広島を本拠地に迎えた3連戦で桑田を筆頭とする読売投手陣が崩壊し、初戦に10失点、2戦目に19失点と惨敗した。しかし3戦目にはこの年日本シリーズでMVPを獲得した槙原の好投で踏みとどまった。その結果、読売から少し離れて広島、さらに少し離れて中日と阪神が競り合う順位となった。

 9月半ば頃、広島、中日、阪神の3球団の残り試合のスケジュールを見て、広島にはホームゲームがほとんどない一方、中日は下旬以降、神宮球場の1試合以外はすべてホームゲームであることに気づいた。つまり、中日は広島以上にチャンスが大きいと思ったのだ。阪神は両者の中間だった*1

 しかし、指揮官の高木守道自身は全然そんなことを考えていなかった。今でもよく覚えているのは、3位争いの直接対決だった阪神戦の初戦に勝った試合後、オリックスでブレイクしていた愛知県出身のイチローを引き合いに出して、イチローを獲っていれば優勝できたかも知れない、などと諦めたようなことを言っていたことだ。おいおい、読売を追う3球団の中でも日程的に一番有利なチームの監督が何言ってるんだよ、と思った。

 果たしてその後は私の予想通りに進んだ。中日が阪神に連勝したカードが行われた時、広島市民球場で対読売最終戦が行われて広島が勝ったが、これが広島の本拠地最終戦だった。そして、次の中日対広島3連戦に中日が3連勝した一方、読売はまたしても横浜に連敗し*2、ついに読売と中日は1ゲーム差。そして翌週の中日対読売戦2連戦の初戦に中日が勝って(2戦目は雨で流れて最終戦に回された)、両球団は同率首位に並んだのだった。高木監督が優勝を諦めたような勝利監督談話を発してから、わずか1週間後だった。その間中日が全勝して読売が全敗したからそうなったのだが、中日にホームゲームが続いた一方、読売はロードばかりだった上に、後半戦で大いに苦手とした横浜戦2試合を含んでいたことを思えば、決して全く予想できない展開などではなかった。しかし、高木監督自身が「まさかジャイアンツがそんなに負けないだろう」と思い込んでしまっていた。この淡泊さが中日の真の敗因だったと、私は今でもそう確信している。

 もっとも、早々と諦めていたのは高木守道だけではなく、中日球団のフロントも同じだった。球団は早々と高木監督の更迭を決め、本人にもそれを伝えていた。星野仙一を監督に復帰させる予定だったのだ。それが高木監督の執念を失わせ、淡泊にさせた一因ではあった。10月に入って最初の横浜戦の試合前に、高木監督が自分の首に手刀を当てる仕草をしている光景がテレビに映し出されたことも印象深い。読売との直接対決を翌週末に控えて、「俺はどうせクビなんだから」というジェスチュアをしてみせたわけだ。監督がこんな仕草をやっているようでは読売には勝てないのではないかと思った。

 そしてそれは現実となった。中日は唯一残されていたロードだった神宮でのヤクルト戦に敗れた。一方、ヤクルトはその前後の読売戦(東京ドーム2試合と神宮)に3連敗して読売を甦らせた。ヤクルトは読売との最終戦(神宮)にリリーフに出てきた槙原を打ち込んで勝ったことで申し訳程度の意地を見せたが、その8年前のブロハードの逆転2ランの時とは違って、今度は読売を地獄に落とすことはできなかった。

 最終戦については今さら言うこともない。槙原、斎藤、桑田の3本柱を投入した読売と、今中が打たれたあとは郭も山本昌も出さずに野中徹博でお茶を濁した中日とでは、監督の執念が違いすぎていた。あれでは同じ試合を何回やっても読売が勝つ目しか出なかっただろう。かくして、個々の選手の個人技では読売を上回っていたと思われる中日は、読売に完敗したのだった。

 その後、2010年代に入っても、中日球団は落合博満監督を引きずり降ろして高木守道を後継に据える愚行を繰り返し*3、さらに、背広を着ては全く能力のない落合にコストカッター役をやらせて、高木守道が最後に中日監督を務めた2013年から昨年(2019年)に至るまで7年連続Bクラスを記録するに至った。

 高木守道は、選手時代は栄光に包まれていたが、指導者としては前時代的な中日球団の体質の犠牲者だったといえる。

*1:阪神は9月中旬の東京ドームでの対読売2連戦に連敗して、優勝争いから真っ先に脱落するとともに読売を大きくアシストした。1994年は中日、ヤクルト、阪神の3球団が競い合うように読売を助けまくったといえる。

*2:このシーズン、読売対横浜は16回戦以降の11試合は実に横浜の10勝1敗だった。しかし横浜は得失点差がプラスだったのに最下位でシーズンを終えた。この球団も、近藤昭仁監督の采配に問題があった。そういえばこの人も昨年(2019年)、この世を去った。

*3:2011年にはこれが中日の選手たちの危機感を煽り、そのとばっちりを食らってヤクルトがリーグ優勝を逃してしまった。このことについては何度ぼやいたかしれない。