kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

大晦日の東京都新型コロナ新規陽性者1300人超えで「医療崩壊」迫る/第2次安倍内閣発足時に「崩壊の時代」入りを指摘した故坂野潤治氏の「最後の希望」とは

 年末年始の休みの時期だから、PCR検査数が減って新規陽性者の数も減るだろうと思っていたが甘かった。

 大晦日(12/31)発表の東京都の新規陽性者数は、これまでの最多だった949人を大きく超えて、1300人以上に達するとのことだ。おそらく東京都(小池百合子)からのリークだろう。

 新年になると間もなく寒の入りとなり、1年間でももっとも寒い時期になる。昨日から「数年に一度」の寒波も襲来している。昨日、8月以降に週1回ずつと月1回ずつブログに公開してきた日本国内の陽性者数と死亡者数の数値(NHKの報道による)をExcelに打ち込んでみたが、10月初めから3か月近くも陽性者数が増え続けている表を見て、改めて愕然とした。

 作業にとれる時間の関係で、毎週のデータは土曜日から翌週金曜日にかけての合計で集計しているが、陽性者数が極小だった9月19日から25日までの1週間が2,995人だったのが、12月19日から25日までの1週間には20,796人になった。およそ7倍に増えている。

 死亡者数の増加はさらに顕著で、極小だった10月3日から9日までの1週間に31人だったのが、12月19日から25日までの1週間では346人になった。この間に11倍に増えた。

 死亡者数のピークが陽性者数のピークより遅れて出ることを考慮すると、明らかに第2波より第3波の方が致死率が高い。これはウイルス強毒化したというよりは、冬の方が夏と比較して人体の免疫力が低下することに加えて、もしかしたら大阪府などで言われている医療崩壊の影響があるかもしれない。そして今日1300人以上もの陽性者を出した東京都も、医療崩壊が既に起きているかもしれない。

 安倍晋三の総理大臣退任とともに、「崩壊の時代」から「混沌の時代」へと時代が移ったと認識しているが、いったん崩壊したものはすぐには元に戻らない。欧米よりはるかに少ない感染者数で「医療崩壊」が起きるこの国は、当たり前のことだが何も安倍晋三だけによって崩壊したわけではない。新自由主義がこの国を食い尽くす萌芽は、福田赳夫大平正芳らが佐藤内閣の大臣を務めていた1970年頃に始まっている。半世紀かけてじわじわと崩壊していった行き着く先が、今年、2020年に示された。大晦日に東京都の陽性者が1000人を初めて、しかも大きく超えたのは暗示的だ。

 菅義偉政権の殺人政策ともいうべき「GoToキャンペーン」がこの惨状を招いた一因であることは、菅が首相に就任して以来一本調子で新型コロナ陽性者数が増え続けていることからも明らかだが、「GoTo」に関しては、あの全国一酷いネオリベ首長である吉村洋文の大阪府ですら、「GoTo」の対象から除外されるや陽性者数が減少に転じた。同じくネオリベ首長である鈴木直道の北海道も、「GoTo」対象除外のあと、大阪よりも早く陽性者数が減った。

 しかし、東京都知事小池百合子は「国の政策だから東京都の対象除外は国が決めることだ」と言って、除外を求めなかった。また菅義偉も、自身や「菅を総理大臣にした」二階俊博が「GoTo」の推進者だったことから東京都を除外しなかった。これが現在の惨状を招いた。大晦日の東京都1300人超えは、菅義偉小池百合子が引き起こした「人災」以外の何物でもない。

 今年は、弊ブログが多用してきた「崩壊の時代」の名付け親だった坂野潤治氏が亡くなった。氏の最後の著書となった『明治憲法史』(ちくま新書)を読み、その感想文を書くことで訃報記事に代えようかと思っていたが、残念ながら2012年に読んだ同じちくま新書の『日本近代史』ほどの強い感銘は受けなかったので記事が書けずに、機を逸してしまっていた。

 坂野氏は1937年5月13日に生まれた。前回の「崩壊の時代」は、氏によれば盧溝橋事件が起きた同年7月7日に始まった。2013年、毎日新聞のインタビューに対して氏は、第2次安倍内閣が発足した2012年12月16日に現代の「崩壊の時代」が始まったと言った。その安倍晋三が辞意を表明してからおよそ1か月半後に、坂野氏は83年の生涯を閉じた。今日、2020年12月31日は今回の「崩壊の時代」の開始からは8年と半月が経っている。前回の1937年7月7日の8年と半月後は、1945年7月下旬でだったそれから広島・長崎への原爆投下と日本の無条件降伏までは1か月も要さなかった。前回の「崩壊の時代」に区切りをつけたのが敗戦だったのなら、今回はコロナ禍なのだろうか。

 坂野氏の訃報を知った後かけたネット検索で、下記毎日新聞の2018年のインタビュー記事を知ったが、会員限定記事なので記事の書き出ししか読めなかった。

 

mainichi.jp

 

 しかし先日、“高世仁の「諸悪莫作」日記” に、雑誌「選択」2020年7月号に掲載された坂野氏のインタビューの一部が掲載されていた。以下引用する。

 

takase.hatenablog.jp

 

河井克行、案里夫妻が公職選挙法違反容疑で逮捕されました。

坂野:目を疑った。選挙制度の透明性はとっくの昔に確保されている。なぜこんなことが、よりによって今の世の中に出てくるのか。明治、大正、昭和の時代でも、封筒で現金を配るということはなかった。仮にカネを渡すのでも、もっと巧妙な手段があった。
 日本の政治家は本来、地方の選挙地盤と深くつながっている。一回限り、ポンと封筒に入ったカネを渡して、票を買おうという、こんな単純な社会は、日本にはなかった。この行為には倫理性のかけらもない。政治家が根無し草になったということだ。政治のどこかが狂っている。

安倍晋三政権のどこが間違っているのですか?

坂野:戦前と戦後の成果をすべて食い尽くしてしまったね。日本の民主主義は、第二次世界大戦後だけのものではなく、明治、大正、昭和と、戦前から長い伝統を持っている。
 安倍首相は「保守」を自任しているが、保守とは、いま日本の目前にある良き伝統を守ることだ。首相は、過去、または古代の「美しい日本に戻る」と言うだけで、それがどんな日本か判然としない。
 本居宣長復古主義のようなもので、首相が本当の保守であったことは一度もない。

戦後民主主義は失敗ですか?

坂野:そもそも戦前に民主主義がなかったという考えが間違っている。
 福澤諭吉は二大政党による政権交代について早々に論じている。
 1925年には、25歳以上の男性の普通選挙制が導入され、政友会や民政党政党政治も存在した。大正デモクラシーだ。戦前には、吉野作造美濃部達吉といった知識人、濱口雄幸高橋是清といった政治家が続々と現れた。今、こういうスケールの人たちは、どこにいますか?
 政治学者の丸山眞男さん(故人・東京大学名誉教授)が、「戦前の日本は真のデモクラシーではない」と唱え、戦後民主主義の寵児になった。
 ところが、戦争責任をすべて戦前の知識層に背負わせて、「民主主義は戦後になって生まれた」とすると、どうしても根っこのないもの、思想のないものになってしまう。「戦後民主主義」が当初言われたほど、輝かしいものにならなかったのもこのためだ。

―戦後世代は、「欧米型の市民社会」という概念も教えられました。

坂野:うん。ただ、今のトランプ大統領を見て、「米国は民主主義だ」と誰が思うのだろうか。最近の英国政治の動向を見て、「素晴らしい民主政治だ」とも思わないだろう。
 欧米のような市民社会がなくても、日本は「ないなりの民主主義」でやってきた。無理に「市民社会」を真似しようとすると、民主党政権のようになってしまう。

―今度、日本の政治が変わる可能性はありますか?

坂野:新しい政治リーダーとか、市民社会が誕生するとかは、ちょっと考えられない。民主党政権の誕生は、都市型野党にとって50年に一度の勝利だったが、思い切った政策を出せずに、守りに入ってしまった。
 日本の伝統的民主主義というのは、あまり魅力があるものではないが、国際政治の嵐の中で、なんとか生き延びていくのではないか。

 

(“高世仁の「諸悪莫作」日記” 2020年12月22日)

 

出典:https://takase.hatenablog.jp/entry/20201222

 

 これを読んで思い出したが、坂野氏は前記『明治憲法史』でも、安倍晋三を名指しこそしていないけれども下記のようにこき下ろしている。なお、下記で引き合いに出されている「穂積」とは、明治時代の反動的な憲法学者として悪名高い東京帝国大学法科大学長・穂積八束(ほづみ・やつか)のこと。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

 そう言われてみれば、穂積は保守主義者ではあっても、復古主義者ではなかったのかもしれない。彼は明治維新明治憲法との発布とで安定した政治社会を守ろうという保守主義を唱えたので、水戸学のように古代に戻って天皇支配を復活させようという変革的な復古主義を主張したわけではなかったのである。一体過去のどの時代にあったのかわからない美しい日本を取り戻そうと唱えたのではなく、いま眼の前にある日本の政治社会を守ろうと主張したのである。「保守主義」と「復古主義」とは似て非なるものだったのである。

 

坂野潤治明治憲法史』(ちくま新書, 2020)78頁)

 

 それにしても、「国際政治の嵐のなかで、なんとか生き延びていく日本の伝統的民主主義」、これが癌を患いながら死の年まで一般向けの新書を書き続けてきた碩学の長老の「最後の希望」かと思うと、大阪万博の会場に4度足を運んだ半世紀前、日本や世界にどんなに輝かしい未来が待ち受けているかと心を躍らせた子ども時代を思い出すと、正直言って寂しさを感じないわけにはいかないが、これを現実だ。いや、それどころか現在のこの国の惨状を思えば、「なんとか生き延びてい」ければ御の字かもしれない。

 本エントリが弊ブログの2020年最後の記事になる。今年公開した記事はこれで567件目であって、意図したわけではないが「コロナ」番目の記事になってしまった。今年の最初の更新は、ブログの管理画面によるとブログ開設以来4244日目だった(ブログを更新しない日はカウントされない)。それも、昨年末に年初最初の日が4242日目の更新にならないように更新回数を増やした結果ではあるのだが、縁起の良い数字にはならなかった*1。そして現実に散々な年になった。気づいてみれば、今日の更新でブログ開設以来の更新日数が4,567日となり、ここにまで「コロナ」が出てきた。

 でも、安倍晋三の退任とトランプの大統領選敗北という良い出来事もあった。それらをポジティブな変化へと結びつけられるかどうかは来年以降の課題になる。

 だから今年は下記の結びを書くことにしよう。

 皆様、良いお年を。

*1:年初の更新を4243日目にする手もあったが、それだと2019年までの更新した日の累計が4242日になるので、それは避けたかった。